こころが「まちがう」のは「まちがい」なのか?──ゲンロン・セミナー第2期第2回「心理臨床とまちがい」事前レポート|住本賢一

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webゲンロン 2024年3月1日配信

 ゲンロン・セミナー第2期第2回、3月16日(土)15時からの回は、臨床心理士で「こころ」の問題が専門の山崎孝明先生をお迎えしてお話を伺います!

 前もって講義の見どころを聞き手がお伝えする「事前レポート」を公開します。こころのケアに興味があってより深く知りたいというかたも、あるいは現代思想が好きでフロイトやラカンだけではない精神分析について知りたいというかたも、とりあえず読んでみてください! そして、内容が気になったかたは当日現地でお会いしましょう!(もちろん動画配信やアーカイブもあるのでご都合つかないかたはぜひそちらでご覧ください~)

 

山崎孝明(聞き手=住本賢一)「フロイトとラカンだけじゃない現場の精神分析—間主体的できごととしての『まちがい』」
URL= https://genron-cafe.jp/event/20240316/

 まずは山崎先生からのメッセージです。

【講師の山崎孝明先生より】

 「精神分析」──その言葉は、こうしたイベントに興味を持たれる方なら一度は耳にしたことがあるでしょう。それどころかなにがしかの書籍を読んだことがある(けど挫折した)という方も多いのではないかと思います。ただ、その「精神分析」はフランスで発展したラカン派のものであるかもしれません。そこでは臨床実践よりも、理論的なことが語られたり、社会批評がなされたりしていることが多いでしょう。

 フロイトから始まる精神分析は、じつは英米でもそれぞれ独自の発展を遂げています。そして、実臨床では(すくなくとも日本では)英米系の精神分析のほうが重用されています。今回、私は臨床家として、臨床に根差した英米系の精神分析を、そして実践としての精神分析を紹介することをひとつの目的としています。

 なかでも「まちがい」と言えば、英国の精神分析家ドナルド・ウィニコットの「私たちは、失敗すること──その患者に固有のやり方で失敗すること──によって成功するのである」という逆説が連想されます。今回はこの箴言をとっかかりに、精神分析において「まちがい」はどのように考えられ、そして扱われてきたかについてお話しします。「まちがい」についてみなさんと共に考える機会となればと思っています。観光客、一見さん、大歓迎です!

 ゲンロンの常連さんなら山崎先生の単著『精神分析の歩き方』(2021年、金剛出版)の刊行記念イベント昨年の友の会総会でご存じのかたも多いと思います。山崎先生は日本の心理臨床や精神分析の未来について深く考えてらっしゃる、パッションのあるかたです。それがこのメッセージからもがんがん伝わってきます。

 今回のゲンロン・セミナーのテーマは、東浩紀『訂正可能性の哲学』から着想された「まちがい」なのですが、精神分析のなかでもこんなにジャストミートに「まちがい」を扱ったひとがいたとは……!

 でもちょっと待てよ、そもそも「精神分析」ってなに……? ふつうのカウンセリングとはちがうものなの……?

精神分析とはなにか

 精神分析とは、ざっくり言ってしまえばこころをケアする治療法のひとつです★1。こころの治療法には、ほかにも斎藤環さんの紹介で日本でも有名になった「オープン・ダイアローグ」や、エビデンスを重視した「認知行動療法」などさまざまなものがありますが、精神分析はそのなかでもかなり「老舗」と言える流派でしょう。

 精神分析の創始者は、ご存じのかたも多いであろうフロイト(1856-1939)です。19世紀末ウィーン、まさに近代社会やブルジョワ社会が誕生したばかりのヨーロッパの大都市で、精神分析は生まれました。

 精神分析の大きな発見といえば「無意識」。フロイトは、ほんとうはウィーン大学出身のエリートなのですが、そこから飛び出して、みずから「町医者」としてヒステリーの患者を治療するようになります。患者と接するなかで、それまでの哲学や精神医学の範疇では捉えきれない人間の深層にぶちあたるのです。

 人間には、自分の意識では捉えきれていない「なにか」がある。それがフロイトの洞察です。彼はさまざまな治療経験で得たアイデアやそれをもとにした論文、そして彼のもとで学びたいと集まった多くの弟子たちを残し、この世を去りました。

 フロイトのあとをついだ弟子たちは、彼のアイデアを発展させたり一部否定したり改良したりしながら、それぞれの時代にそれぞれの土地で独自の精神療法をつむいでいきます。いまの日本では、すこし後の世代にあたるフランスのラカンが有名ですが、その他にもロンドンやニューヨークなどで精神分析は発展を遂げました。

 日本では、戦前にウィーンに飛びその後独自の療法を編み出した古澤平作(1897-1968)をはじめとして、『「甘え」の構造』(1971年)で有名な土居健郎たけお(1920-2009)や、「モラトリアム人間」の概念で知られる小此木おこのぎ啓吾(1930-2003)、若き日には音楽グループ「ザ・フォーク・クルセイダーズ」のメンバーとして活動したことでも知られる北山修(1946-)が精神分析の遺産を継いだ治療者=論者にあたります。

いま精神分析について考える意義

 今回ゲンロン・セミナーに登壇される山崎孝明先生は、ざっくり言ってしまえば上述の土居健郎の「弟子の弟子」にあたる世代。『精神分析の歩き方』や共著『精神分析的サポーティブセラピー(POST)入門』(2023年、金剛出版)で、いまの時代に即した精神分析の捉え方や応用方法について考え、発信されています。

 そんな山崎先生が今回の講義にあたって注目されているのが、英国の精神分析家ウィニコットの「私たちは、失敗すること──その患者に固有のやり方で失敗すること──によって成功するのである」という言葉です。

 ポリコレやコンプライアンスにおける「正しさ」が叫ばれる今日このごろ、「まちがい」は許してはならないものだという共通理解が世間にあるのはまちがいありません。もちろんそれらの意見の中には耳を傾けるべきものが多いのも事実です。しかし他方で、SNSでは、ちょっとした誤解でも発信しようものなら多方面から叩かれ「炎上」するのではという空気もあります。ちょっとの「失敗」も許されないのかと、どこか息が詰まりそうな気がしているひともいなくはないはず。

 今回のゲンロン・セミナーのテーマとして「まちがい」を掘り下げる理由のひとつに、「正しさ」と「まちがい」の境界をどうやって考えたらよいのかを見定めたいということがあります。そしてどうやら精神分析には、ある種の「失敗=まちがい」にこそ意味を見出す発想が存在する模様。もちろん、いま現場で臨床をされている山崎先生だからこそ、たんにダメな「まちがい」と意味のある「まちがい」のちがいとはなんなのかについてもご意見があるはず。さらに言えば、そのことは、「正しい」方法論やエビデンスに基づいた最新の心理療法とはなんなのかについて考えることにもつながるはずです。

 山崎先生は、東浩紀やゲンロンのフォロワーであることも公言されており、前出の『精神分析の歩き方』では、東の『観光客の哲学』から大いにインスピレーションを得て書かれたと明示されています。そんな山崎先生は、「正しさ」にまつわる問題を扱った『訂正可能性の哲学』や、『ゲンロン10』『11』所収の「悪の愚かさについて」における「被害-加害」の問題についてどう考えられているのか、当日はそんな話題も扱われる予定です。

 ひとのこころにとって「正しさ」はなにか? そして「まちがい」とはなにか? 「まちがい」のなかから掬いとることのできる「正しさ」とはなんなのか? すこし風呂敷を広げすぎた問いかもしれませんが、そんなところまで議論を展開できればと考え、日々聞き手として準備しておりますので、ぜひ当日の会場観覧or動画観覧or後日アーカイブでお目にかかりましょう!(住本賢一)

 

★1 山崎先生によれば、細かく言えば精神分析は精神分析であり、心理療法として使われているのは精神分析を治療に応用したもの、となります。後出の山崎先生の共著『精神分析的サポーティブセラピー(POST)入門』も、精神分析の知見をいかに現実的な臨床に活かすかという視点で書かれたもの。このあたりのお話もぜひイベントで伺いたいと思っています。

山崎孝明(聞き手=住本賢一)「フロイトとラカンだけじゃない現場の精神分析—間主体的できごととしての『まちがい』」
URL= https://genron-cafe.jp/event/20240316/

 

ゲンロン・セミナー第2期「1000分で『まちがい』学」特設ページ
URL= https://webgenron.com/articles/genron-seminar-2nd

住本賢一

1992年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程。専門は映画史・映画理論。ゲンロン編集部所属。

1 コメント

  • teppeki772024/03/14 10:28

    イベントに向けて山崎先生の「精神分析の歩き方」をパラパラ読んでいるが、そもそも精神分析が何なのかがよくわかっていない。こころの治療の「ただしさ」とはなんなのか、精神分析はどんな歴史を歩んできたのか、イベントで学びたいと思います。ドナルド・ウィニコットの説も気になります。当日を楽しみにしています。

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