「正しさ」と「システム」を哲学する──加藤文元×川上量生×東浩紀「真理とはなにか」イベントレポート

シェア
webゲンロン 2024年4月22日配信
 2023年12月17日、ZEN大学(仮称・設置認可申請中)とゲンロンが共同で運営する公開講座の第4弾が行われた。登壇者は数学者の加藤文元、ZEN大学の仕掛け人である川上量生、ゲンロン創業者の東浩紀の3氏である。
 2023年8月27日開催の共同講座第2弾「数とはなにか」でも熱い議論を交わした3人だが、東の『訂正可能性の哲学』を読んだ加藤と川上から同書についてトークがしたいと打診があり、「真理とはなにか」というテーマのもと再び集ったかたちだ。出自も専門も異にする登壇者により実現した、真の「文理融合」のハイライトを紹介する。
 本イベントの模様は、現在発売中の『ゲンロン16』にも掲載されている。あわせて読まれたい。
 
加藤文元×川上量生×東浩紀「真理とはなにか──数学とアルゴリズムから見た『訂正可能性の哲学』」
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20231217

数学者が読む『訂正可能性の哲学』

 イベントは3氏のプレゼンテーションを基調に進行した。最初に加藤から、「訂正可能性」を数学に敷衍する話題が提起された。東の言う「訂正」は、ある概念やゲームの内実(たとえば概念の定義やゲームのルール)が更新されても、引き続き「同じ概念」「同じゲーム」と認識され続けるという逆説的な事態を捉えるための考え方。『訂正可能性の哲学』ではそんな「訂正」の連続が人文学を定義づけるものだとされているが、加藤はほかでもない数学もまた、歴史上訂正されてきた分野なのだと語る。

 いわく、古代バビロニアや古代エジプトの数学は現代と異なり、直感的に真理を捉えるものだった。彼らはそのルールのもとで数学を高度に発展させていたが、あるとき古代ギリシアで、「証明」によって定理を積み上げていくタイプのあたらしい数学=「論証数学」が誕生する。そしてその考え方が広まっていくことで、数学のルールが訂正され、いまに至るまで、数学といえば論証数学を意味するようになってしまったというのだ。

当日の加藤のスライドより

 時代や場所を問わず普遍的だとイメージされる数学ですら、じつは訂正から自由ではない。その過程で、「証明」という本来は数学にとって不要だったはずのものが本質になってしまったという状況は、東が『訂正可能性の哲学』で参照したデリダの理論とも対応する★1。そのことを考えると、訂正可能性は数学をはじめとする科学にも応用できるのではないか。加藤はそう問いかける。

 とはいえ、訂正可能性と数学が馴染まない部分もある。それが「時間」だ。東によれば、訂正は、過去を参照しながらルールを拡張していく運動でもある。そこではゲームのルール=真理は過去に「遡行」することで見出される。それに対して論証数学は、証明によって真理を少しずつ積み上げていく。両者の時間構造は真逆のベクトルを持っている。

 しかし例外もある。加藤がイベントで紹介した「ユークリッドの互除法」と呼ばれる計算がそれだ。このアルゴリズムは、ふたつの数の最大公約数を求めるために用いられる。たとえば396と210の最大公約数を求めるなら、手順は以下のようになる。

 まず大きい396を小さい210で割り、つぎに210を前の計算の余り(186)で割る。さらに186を前の計算の余り(24)で割り、24を余りの18で割り……と、「前の計算の割る数を余りで割る」操作を続けていく。

 このような計算をすると、(自然数ならば)どんな二数でも最終的に割り切れる。そして割り切れた数が最初の二数の最大公約数になる。上の例であれば式は以下のようになり、最大公約数は6であることがわかる(GCDは最大公約数 Greatest Common Divisorの略)。

GCD (396,210) = GCD (210,186) = GCD (186,24) = GCD (24,18) = GCD (18,6) = GCD (6,0) =6

 加藤によればこの計算のポイントは、計算を開始した時点では396と210の最大公約数が本当に存在するのかがわからないことだ。ただ数学的に、最初の二数の最大公約数が存在するならつぎの二数の最大公約数も存在し、かつ両者が等しいことは証明できる(GCD同士が等号で結ばれているのはそのことを示している)。したがって最後の数が割り切れたときにはじめて、ドミノ倒し式に「遡行」するかたちで、それが最初の二数の最大公約数であることがわかるというのだ。この論理の時間構造は、訂正のそれに近いと加藤は述べる。

 当日は、東がこのユークリッドの互除法を、アルゴリズムにおける「停止問題」(あるプログラムが停止するか否かを判定するメタなプログラムが書けるかという問題)に結び付け、さらに川上がアルゴリズムの外部化と人工知能の関連性を指摘するかたちで議論が進んだ。その途上では、そもそも「最大公約数」とはなにか、無理数とはなにか、そしてアルゴリズムと無限がどう関係するのかなどの刺激的な論点が数多く生まれ、序盤から「文理融合」が実践される白熱の展開となった。

「正しさ」と「有用性」

 続く東によるプレゼンテーションでもまた、人文学(文系)と自然科学(理系)がどの程度「融合」しうるかが話題となった。興味深かったのは、理系出身である加藤が(数学を含む)科学の特権性を疑い、文系出身の東がむしろそれを擁護する展開となったことだ。

 ふたりの立場の違いが浮き彫りになったのは、東が「反証可能性」について解説した場面だ。これは哲学者カール・ポパーが科学を科学たらしめる原理として打ち出した概念で、仮説の妥当性を予測結果に照らして検証し、反証されたら廃棄するという運動を指す。東が人文学の原理とする訂正可能性はこれと似ているが、正しさではなく有用性によって概念を更新する点、そして過去を破棄せず蓄積していく点で大きく異なるのだという。

当日の東のスライドより

 この解説を受けて、川上から「文系が過去を破棄できないのはなぜか」と問いが投げられた。東はこれに対して、「理系の知では現実の予測可能性が理論の発展の制約条件となるが、人文学はそもそも現実を予測しないのでそのような制約がない。そこで代わりに制約になるのが過去なのだ」と答える。加藤が疑問を呈したのはこの点についてだ。

 たとえば天動説は地動説に取って代わられたが、必ずしも検証によって現実との不整合が発見され破棄されたわけではない。単に地動説のほうが有用だからそちらが採用されているにすぎない。だとすると自然科学の領野においても、反証ではなく訂正に近い例があると言えるのではないか? 理系と文系は、はたして本当にそこまで違うのか? これが加藤の問いである。

 東は同意を示しながらも、理系と文系を安易に連続して捉えることの危険性を指摘する。東はいわゆる「フランス現代思想」出身である。そんな彼にとっては、かつて安易な「文理融合」によって人文学が堕落したこと(ソーカル事件など)が大きな教訓になっているのだという。ポストモダン的な擬似科学に陥らないために、人文学と自然科学は一線を画しておくべきだと東は主張する。

 そこに加藤が「はたして理系的な正しさは本当に普遍的なのか」とさらに問いを重ね、異星の知的生命体にとっての数学は人間と同じものなのかというたいへん面白い議論が展開するのだが──その詳細は動画に譲ろう。

 印象に残ったのは、文系による過去の蓄積を語るうえで、東が歴史の重要性を訴えていたことだ。一部の理系の学者は、最先端の知を追うあまり、自分の学問の歴史すら満足に語れない傾向がある。しかし理系の学問であろうと、自らの歴史を知らなければ、底の浅い議論になってしまう。

 これを川上は、歴史を学ぶことは「コスパがいい」のだとパラフレーズする。人間には寿命がある以上、いつの時代も過去を知らない人間が再生産される。つまり歴史を知っていることは、それだけで周囲に対するアドバンテージになる。ZEN大学でも学説史の講座は数多く開くつもりだと、共同講座にふさわしい展望が語られた。

システム開発と人文知

 最後に川上によって、システム開発に訂正可能性を適用するプレゼンテーションが行われた。川上によれば、プログラミングにおいて訂正はモジュール(プログラムの構成要素)の修正に相当する。かつては演算全体を書き換える方法が模索されたが、小回りが利かずに廃れていき、いまでは「その場その場の現実との対話」によって細かくモジュールを修正するアプローチが主流になっているのだという(この解説のために川上は、『訂正可能性の哲学』で紹介された「クワス算」を実装するプログラムを用意している。ここでは割愛するが、ぜひ動画でご覧いただきたい)。

当日の川上のスライドより

 川上はさらにそのことを、システム開発全体へ、さらには人間社会全体へと敷衍していく。システム開発において、初めから全体の設計図を描く方式(ウォーターフォール型)では、開発規模が大きくなると矛盾のない要件定義が困難になる。そのため現在では、状況に合わせて計画を柔軟に変えるアジャイル型の開発が主流になっているのだという。

 同じように社会という大規模なシステムの運営も、大上段の「原理原則」ばかりでは矛盾が生じてしまう。そうではなく、現実に沿った小さな訂正を社会に対して行なっていくこと、いわば社会をアジャイル的に設計することこそが『訂正可能性の哲学』の主眼なのではないか。そう川上は読み解いた。『訂正可能性の哲学』を、いわばシステム論として読もうという提案だ。

 東はこれに深くうなずきながらも、現在の人文学では「システム」という言葉自体が、個人を抑圧する装置としてネガティブに捉えられるかもしれないと懸念を表明する。その問題に関連して、川上は東にさらに問いを投げかける──訂正によって社会のシステムが精緻になればなるほど、逆説的に自由意志の領域は狭まっていくのではないか。訂正可能性の先に、人間は存在しているのか?

 「訂正可能性」の思想の弱点を突くようにも映る本質的な問いかけだが、東は「訂正」によって行われるのは単純なシステム(合法性)の領域の拡張ではないはずだと応じた。ルールに包摂されるものが時代によって変わることで、かつて社会からはみ出ていたものが包摂され、べつのものが排除される、そして排除されたものから異議が申し立てられ、またルールが訂正されていく。そのようなダイナミズムを肯定する思想が「訂正可能性の哲学」なのだ、と。

 この回答は、『訂正可能性の哲学』がテロリズム論を含む『観光客の哲学』の続編であることを考えると、非常に腑に落ちるものだった。川上も「素晴らしい」とひざを打ち、イベントは質疑応答へと移っていく。ほぼ1時間半にわたる会場へと開かれた議論ののち、あらためて東から、『訂正可能性の哲学』に本質的な問いを投げかけてくれた加藤と川上への感謝が告げられ、イベントは幕を閉じた。

 

 

 ここまで記してきたように、イベントでは加藤と川上の読解によって、『訂正可能性の哲学』のポテンシャルが次々と引き出されていった。筆者にとって印象的だったのは、訂正可能性の論理は博物館の存在を擁護するために要請されたものでもあると東が述べていたことだ。『ゲンロン』の連載「悪の愚かさについて」で文字通り歴史=博物館を訪ねる東の実践と、過去の知見を保存することの意義について基礎づけを行う「訂正可能性」の論理の連続性が垣間見えた瞬間だった。

 いつものとおり、このレポートではイベントのごく一部を紹介したにすぎない。人類と記号の関係、数学と身体の関係、「人格」という概念の不思議、量子コンピュータの可能性と限界、さぬきうどんのうまさと価格の安さ(?)……。そもそも、数学とともにイベントの軸になった人工知能については、このレポートではほとんど触れられなかった。ぜひ動画と『ゲンロン16』収録の記事をご覧いただきたい。

 「真理とはなにか」という大きなテーマを引き受けて文理をまたいだ本質的な議論が行われると同時に、アルコールも交えリラックスした雰囲気で雑多な会話が飛び交ったのが本イベントの魅力だろう。そこには3人がそれぞれに対して寄せる信頼が垣間見えた。安易に相手に同調するのではなく、互いの関心の境界線を、会話によって訂正しずらしていく──それこそが本当の「文理融合」なのだと思わされるイベントだった。(編集部)


★1 以下で参照されるデリダの「エクリチュールの論理」を指す。東浩紀『訂正可能性の哲学』、ゲンロン、2023年、197頁。

加藤文元×川上量生×東浩紀「真理とはなにか──数学とアルゴリズムから見た『訂正可能性の哲学』」
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20231217
    コメントを残すにはログインしてください。