チェルノブイリは観光地化を進めるべきか──観光客によるインタビュー|アレクサンドル・シロタ 通訳・翻訳=上田洋子

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初出:2018年06月22日刊行『ゲンロンβ26』
 二〇一八年六月、五回目のチェルノブイリツアーを開催した。これはゲンロン企画、エイチ・アイ・エス主催による一般向けの観光ツアーである。ゲンロンでは二〇一三年の『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』刊行以来、実際に現地に観光客を連れて行くこうしたツアーを行ってきた。  ツアーではチェルノブイリ原子力発電所や事故を記憶する場所、そしてキエフの博物館をめぐるだけでなく、元住民や事故処理作業員ら、現地の人々の話を聞く機会を設けている。なかでも原発衛星都市・プリピャチ元住民のアレクサンドル・シロタ氏には毎回かならずお会いしている。シロタ氏は現在、NGO「プリピャチ・ドット・コム」を主宰し、原発事故後に廃墟になってしまった故郷を記憶に残すための活動をしている人物だ。  今回のツアーでは、シロタ氏が住んでいたプリピャチの街を見学したあと、チェルノブイリ・ゾーン[立入制限区域のこと]内のホテルで彼と会い、ツアー参加者からの質問に答えていただいた。シロタ氏はチェルノブイリの観光地化に備わる複雑な状況について率直に語ってくださり、質問は尽きることがなかった。実際はこの翌日もゾーンのそばのシロタさんのお宅を訪ね、さらに一時間近くの対話が続いたのだが、ここでは初日の対話を紹介したい。  シロタ氏には『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』でもインタビューをとっている。あれから五年のあいだに、チェルノブイリの状況やシロタ氏の心境はどう変わったのか、あるいは変わらないのか。できれば二〇一三年のインタビューとあわせてお読みいただけると嬉しい。(上田洋子)
  アレクサンドル・シロタ みなさんこんにちは。アレクサンドル・シロタです。  ぼくは元プリピャチ住民です。チェルノブイリ原子力発電所の事故が起こってプリピャチから避難したのは九歳のときでした。いまは「プリピャチ・ドット・コム」というプロジェクトを主宰しています。  この二〇余年、チェルノブイリのことを考えつづけています。この問題がぼくを捉えて離さないのです。みなさんも今日、チェルノブイリ・ゾーンを見学して、多くの感想を抱いたのではないでしょうか。  ぼくが事故後はじめてプリピャチに戻ったのは一九九二年、当時一六歳でした。このとき、もはや故郷で暮らすことはできないんだと悟りました。それまではいつか帰れると信じていたけれど、現実を理解した。いまの活動は、ぼくなりの帰り方です。 「プリピャチ・ドット・コム」というプロジェクトは、二〇〇四年、プリピャチの街を紹介するウェブサイトとして始まりました。二〇〇六年に、たんなるサイトから国際的な法人組織へと発展します。プロジェクトの第一の目的は、人々にプリピャチの街やチェルノブイリ・ゾーンの過去、現在、未来に関する情報を届けること。また、プリピャチを人類史上最大規模の産業災害のメモリアルとしていかに残していくかを考えることも重要な目的です。プリピャチの保存について考えていたのは、当時はぼくたちだけでした。
【図1】シロタ氏と日本人観光客との対話はチェルノブイリ・ゾーン内の宿泊施設「ホテル10」の食堂で夕食の時間に行われた。中央右がシロタ氏。左が通訳をつとめた上田洋子

なんのために来るかではなく、なにを持って帰るか


シロタ プリピャチではたくさんの観光客に会ったことでしょう。もはやひとで溢れている。しかし、ぼくたちが活動を始めたころは、プリピャチはまだ世界でまったく知られていませんでした。原発事故の現場としてチェルノブイリの名だけが知られていた。ぼくたちは当時、みなさんのような訪問者のグループを月にだいたい一組ほど案内していました。そうした訪問者のおかげもあって、プリピャチの名前がすこしずつ世界で知られていくことになりました。
【図2】プリピャチの観覧車。1986年5月1日にオープン予定だった。観光客が最も好んで写真を撮る場所のひとつだ
【図3】 同日昼間、プリピャチの中央広場にて。この日ゾーン内にいたシロタ氏がグループの様子を見にきてくれた。撮影=岩舘澄江
 プリピャチを世界に知らしめたもうひとつの要因は、コンピュターゲーム『S.T.A.L.K.E.R』です。最初にスクリーンショットでゲーム画面を見たときには、ぼくはがっかりした。武器を持ったひとたちがプリピャチの街を走り回っている図には、悲しみすら抱きました。しかし、時間が経つにつれてその考えは変わっていきます。ひとがゾーンにやってくる動機がさまざまであることを理解したからです。歴史に興味を持ち、チェルノブイリ原発事故の原因を究明したいというひともいれば、たんに「石棺とわたし」とか、「いまの放射線量はこれ」といった写真を撮りたいだけのひともいる。ソ連の社会主義が凍結して残っているサンクチュアリを見にくるひともいるし、『S.T.A.L.K.E.R』で自分が活躍した現場に行ってみたいというひともいます。けれども、動機それ自体はあまり重要ではないと思うようになった。大切なのはどんな動機でやってくるかではなくて、なにを持って帰るかです。ゾーン内で売っているお土産の話ではなく(笑)。  現場でじかに感じてもらうこと、自分自身で体感してもらうことが重要なんです。ゾーンにはいま、一日に数百人、ときには一〇〇〇人単位の訪問者が訪れています。一〇〇人のうちひとりでも、ゾーンの見学をきっかけに、自分がこの世界でどんな役割を果たしているか考えるようになれば、それでいいのではないかと思います。プリピャチの廃墟を見て、自分が死んだあと、つぎの世代に廃墟しか残せないような事態は避けねばならないと考えるひとが出てきたら、ぼくたちの活動も無駄ではない。  ときどき、「あなたは観光客相手の仕事をしているのだから、観光客の数がどんどん増えればいいと思っているんでしょう」と言われることがあります。しかし、ぼくはこの五年ほど、観光客の案内をまったくやっていません。二〇一三年以降は、おもに専門的な仕事に関わるようにしています。たとえば映像の仕事などですね。この一ヶ月はチェルノブイリ原発の冷却水貯水池で、朝から晩までドローンによる空撮を行っていたんです。冷却水貯水池では汚染除去作業のために二〇一四年からじょじょに水を減らしています。今回の撮影は、貯水池の現状調査のためのものでした。  昨年の一二月には日本のTBSの撮影にも関わりました。娯楽番組だったようですね。彼らは道化のようなひとを連れてきました。そのひとはあちこちで禁止事項を破ろうとした。こちらを怒らせようとしてわざとやっているのかと思っていたのですが、じつは演技をしていただけだった。これも撮影関連の仕事です。 とはいえ、今日は観光でやってきたみなさんとお会いできて嬉しいです。二〇一一年に福島の事故が起こってしまったあとは、ぼくたちは情報を共有する義務がある。ウクライナが日本に共有できる情報が、「なにをやるべきか」よりも「なにをやってはならないか」であるのは残念ですが、それでもお役に立てることがあるかもしれません。  では、時間も限られていることですし、みなさんのご質問をうかがいたいと思います。

プリピャチは世界遺産になりうるか


質問者A シロタさんが子どものころに生活していたプリピャチはどんなところでしたか。 シロタ プリピャチはきわめて先進的なエリートの街だったと言われています。けれどもあのころ子どもだったぼくにとっては、たんなるふつうの街でした。当時はほかの街を訪れたこともほとんどなく、比較の対象がなかったこともあります。小さくて暮らしやすくて、街のひとはみんな顔見知りで、川があって、暇さえあれば入り浸ることのできる文化宮殿があって……大好きな街でしたが、事故後にはこのふつうの街が失われてしまいました。ぼくたちは健康も失ったし、そればかりか避難先のキエフはすごく居心地が悪かった。そんなこともあってか、プリピャチは子ども時代を過ごした理想の街として記憶に残っています。
【図4】プリピャチ第1小学校前で。前列左から3番目が子どものころのシロタ氏。提供=アレクサンドル・シロタ
【図5】プリピャチ中央広場とシロタ氏が子どものころ入り浸っていたという文化宮殿「エネルギー専門家」。事故前の写真。文化宮殿とは文化会館のこと。アマチュア劇団や運動クラブ、手芸サークルなどもあったという。シロタ氏の母がここで働いていた。提供=アレクサンドル・シロタ
【図6】現在の中央広場と文化宮殿。緑が生い茂っているのがわかる
質問者B チェルノブイリを訪れる観光客が近年増加していると聞きましたが、その要因はなんだと思いますか。 シロタ 観光客の増加はこの一〇年ほどずっと見られている現象です。なので、直接的な原因があるわけではないでしょう。チェルノブイリに対する関心はじょじょに高まっています。もちろん、チェルノブイリを訪れたひとのネット投稿や口コミは、ひとつの要因になっていると思います。ゾーン訪問者は安定的な増加傾向をたどっていて、二〇一三年は一万人ぐらいだったのが、二〇一七年は約五万人になりました。  いまはむしろ、訪問者が多すぎることによる問題も生じています。ゾーンはまだこれだけの人数を受け入れる準備ができていません。理由はさまざまですが、インフラの整備もまだですし、事務的な面でも洗練されていない。だから受け入れをサポートする側としてはいろいろむずかしい部分があります。  この文脈で重要だと思われることをもうひとつ挙げておきましょう。それは、事故後三〇余年が経過してやっと、国家が観光に注目しはじめたということです。ウクライナという国が実質的にはチェルノブイリを通してのみ世界で知られていることに、国家の上層部が気づいたのでしょうね。いまはチェルノブイリ観光地化のプログラムが、観光庁レベルで生まれている。プリピャチをユネスコの世界遺産に登録しようという動きも出てきています。  とはいえ、ユネスコ世界遺産への登録に関しては、ぼくの考えではチャンスは稀少です。プリピャチの街は、建造物などの保存状態があまりにも悪化しすぎている。日本ではこうした保存への動きがもっと早く始まることを願います。避難区域にふたたび暮らせるようになるかならないかにかかわらず、人々は帰りたがり、来たがるはずです。だから、福島の保存についても手遅れにならないようにしなければなりません。

原子力事故克服の先輩として


質問者C さきほど、ウクライナが福島に共有すべきなのは「なにをやってはならないか」についての情報だとおっしゃいました。それは原発の運用面なのか、あるいは事故後の復興に関してなのか、具体的にお聞かせください。 シロタ 原発事故の克服の話です。事故の克服は、多くのあやまちや失敗を経てなされたものだからです。原発事故の処理というのは、世界でもウクライナがはじめてのケースでしたから、失敗に学ぶよりほかはなかった。チェルノブイリから三〇年を経て事故処理を行う日本にとって、ウクライナは同じ失敗を繰り返さないためのモデルケースになりえるはずです。  具体的な例ですが、ぼくは二〇一二年、福島の事故からちょうど一年後に日本に行っていました。数種類の線量計を持って行ったのですが、東京ですら道路が汚染されているのを知りたいへん驚きました。空間放射線量は通常レベルなのに、道路は汚染されている。このとき、避難地域のある自治体の首長の方とお会いする機会があったので、交通手段の除染方法について尋ねてみたんです。すると、「除染はしていない」という答えが返ってきた。つまり、事故後一年のあいだ、日本では立入制限区域を車が放射線量の管理がされないまま出入りして、その結果、タイヤに付着した汚染物質を日本中にまき散らしていたということです。  これは防げたはずの失敗のひとつでしょう。ぼくの認識では、この問題はその後解決されて、管理や除染がされるようになったはずですが、車のタイヤによって全国の道路に汚染が広がったことがあったのは事実です。  ウクライナでも多くの失敗がありました。とくに初期のころです。たとえば、汚染された居住地の埋却処分が下準備なしに行われてしまった。空間線量を減らすために、穴を掘って、線量が高いものをすべて地中に埋める処置のことです。結果として、埋却処分によって空間線量は減っても、地下水を介して放射性物質が移動するのを促進してしまった部分がある。ゾーン内には「ПТЛРВ」という標識が設置されている場所があります。これはウクライナ語の「пункт тимчасової локалізації радіоактивних відходів」の略で、「放射性廃棄物暫定局所化地点」という意味です。「暫定」という言葉は、放射性廃棄物の埋却が基準どおりに行われていないことを示しています。つまり、いつかは正しく埋めなおさねばならないということです。  しかし、こうした基準もチェルノブイリ後の長年にわたる経験のなかで確定されたものです。のちに定められた基準に初期段階では従っていなかったからといって、もちろんわざとやったわけではない。状況をかんがみて、当時あった放射線に関する知識を駆使して、できるかぎりの対処をしたのです。これも日本で繰り返されるべきではない失敗の例ですが、事故後七年が経ったいまでは、こうした助言はもはや不要でしょう。  福島訪問の際の首長の方との会話でもうひとつ印象に残っているのは、略奪に関するものです。ぼくが「空き巣による略奪の状況はどうですか」と尋ねると、彼はぼくの顔をまじまじと見て、「略奪にはほんとうに悩まされています。この一年で二件も起こってしまった」、と! たったの二件! プリピャチでは一時期、略奪者たちがやりたい放題だった。略奪は個人だけでなく、国家レベルでも行われています。もちろんこうした差異には、日本とウクライナの文化のちがいによる部分があるでしょう。ポストソ連の空間では、あらゆるものはなんらかの有効活用をされねばならず、適当に置かれているものなどあってはならないと考えられがちなんです。  略奪が横行したことそれ自体にも国の責任があります。強制避難の直後、国がゾーンに一群の人々を派遣した。彼らはひとけのない住宅に組織的に侵入して、食器を割るなどの家財の破壊を行いました。家財の価値を失わせて、潜在的な空き巣たちを遠ざけようとしたのです。しかし、これによって「割れ窓理論」で言われるような犯罪の空気を作ってしまった。窓が割れているなら、自分たちも割っていいのだと思わせてしまったのです。当時、国はまだウクライナではなく、ソ連でしたが。  ゾーンがソ連時代に「ゾーナ・オッチュジジェーニヤ Зона отчуждения」、つまり「接収された地帯」と名づけられたのは意味がある。ゾーン内には私有地も私有財産も残っていないのです。国家は避難者のために住む場所を確保し、賠償金を支払ったことで、彼らに対する責任を果たしたとみなした。以後、ゾーンはだれのものでもなくなりました。ぼくがまちがっていなければ、日本の立入制限区域内には、いまだに私有地や私有財産が残っていて、持ち主の帰還を待っている。

チェルノブイリと子どもたち


質問者D チェルノブイリから避難してきたことを理由に、避難先でひとから悪口を言われたり、差別的な扱いを受けたことはありますか。 シロタ もちろんです。いやな思いもしました。そもそも人々はぼくたち避難者を見たがらなかった。プリピャチの元住民はソ連全土に散り散りになった。ぼくの移住先はキエフです。憎まれたとは言いませんが、さまざまなレベルのいやがらせはあった。それは大人も子どもも同じでした。  彼らからすると、ぼくたちは彼らの家に住むようになったり[避難当初は強制的な間借りもあった]、彼らの仕事や学校の席を取ったりしてくる厄介な存在です。しかも、よくわからない健康リスクを持っているらしい。こうした状況では、ぼくたちを好きになる理由などなかったでしょう。  個人的な例を挙げます。ぼくは避難後、一年ほど学校に通っていません。避難したのが五月で、その後は夏休みでピオネール・キャンプ[子どもの長期サマーキャンプ]に行ったのですが、キャンプから帰ってきたあと、生まれてはじめて病気で入院しました。入院は数ヶ月にわたり、もはやその学年に入っても勉強についていけないほど休んでしまったので、この年度は学校に通いませんでした。  つぎの年度にキエフの学校に入りました。母はぼくを避難者向けの特別な学校に行かせようとしたのですが、人数の問題で入れませんでした。けっきょく、チェルノブイリの子どもたちが通っていた学校から運動場を隔てて向かいにある、一般の学校に入ることになりました。第二六一学校というのがチェルノブイリの子どもたちの学校で、第二六七学校が一般の学校です。両校は二五〇メートルも離れていない。向かい合わせのふたつの学校は、外観もそっくりで鏡のようです。どちらもふつうの子どもが学ぶ、ふつうの学校でした。しかし、チェルノブイリの子どもが通う学校では、授業は週五日で給食つき、しかも授業時間は一般の学校より五分短かった。キエフの子どもが通う学校のほうは週六日制で、給食はなく、授業時間は五分長い。子どもというのは社会の不公平を敏感に感じとるものですが、キエフの学校の子どもたちは、なぜチェルノブイリの学校が優遇されているのか理解できない。この学校には、ぼく以外にもプリピャチの子どもがふたりいた。両方とも女の子でした。こんな不公平はチェルノブイリのやつらのせいだということになった。ぼくは病気のおかげで、クラスのほかの子たちより歳が一年上だったのが唯一の救いでした。  母もいやな思いをしました。保護者会に行くと、よその母親から、うちの子が放射能まみれのあなたの子のとなりに座らせられた、病気になったら困るから席を離してほしいと言われたりするのです。  しかし、そうした感覚は時間の経過とともに変化しました。いま、娘が小学生で、ゾーンのそばの学校に通っています。同級生たちは、彼女の父親がプリピャチ出身だと知ると、「すごい! 話を聞きたい!」と言ってくるんです。 質問者E 娘さんにご自身の仕事について話をするときにもどかしさを感じたことはありますか。また、娘さんはシロタさんのお仕事をどのように捉えているのでしょうか。 シロタ 正直、彼女はまだあまり興味を持っていないですね。映像でぼくを見つけると、「ほら、パパがテレビに出てる」とか言っていますが、いまのところそれ以上ではありません。とはいえ、彼女は彼女なりに、「このへんに生えてるキノコは採って食べちゃいけないんだよ」とか、「一八歳になるまではゾーンに入れないんだよ」などと、同級生に教えたりもしているようです(笑)。

観光客を受け入れるべきか、森が繁るに任せるべきか


質問者F プリピャチはいま森林化が進んでいますが、シロタさんはそれをよいことだと思っていますか。それとも、手を入れたいと思われますか。 シロタ ぼくの正直な気持ちとしては、街を事故前の状態で見たいです。けれどもそれは不可能なことです。現状からかんがみるに、なにも手を加えないのがいちばんで、自然な変化に委ねるのがよいでしょう。もちろん、そのままにしておけば、植物がどんどん育ち、街は森になっていくでしょう。わたしたちは街の住人ではなく、森の客人になる。それでも文明のモデルケースとなって、危険な技術や自分自身や社会や家族における自分の役割をぞんざいに扱ったとき、人類がどうなってしまうのかを示すのはプリピャチの使命かもしれません。 質問者G 観光客が増えていくならば、その受け入れにむけて、あるていどプリピャチを整備しなければならないのではないでしょうか。シロタさんはプリピャチを整備して観光客を受け入れるのと、このまま朽ちるに任せ、観光客の人数を制限するのでは、どちらを推進すべきだと考えているのでしょう。 シロタ さっきも言ったとおり、ぼくの率直な望みとしてはこれ以上手を加えず、あるがままに残したい。しかし、プリピャチを見たい、そこに行ってみたいというひとが増えているという事実は受けとめています。そして、建物の保存状態が悪化していることによるリスクが高まっていることも理解している。だから、ぼくのなかではふたつの真理が戦っている状態です。一方でプリピャチをあるがままに残すべきであることははっきりしている。他方、ひとはだれもがこの場所を自分の目で見るべきであることもまた明白だ。プリピャチという場所はひとの世界観を変えるからです。しかし、だれもがプリピャチを見ることができるためには、いまの状態に手を加えなければならない。部分的にインフラを復旧させる必要があるでしょうし、掃除をしたり、固定したり、なにかを塩漬けにしたりしなければならないでしょう。それはしかたがないことなので、ぼくは受け入れます。  国家がチェルノブイリ観光を促進すべきだと言いはじめて、およそ二年が経ちました。しかし、そのあいだにできたのは簡易トイレが三つだけ。なので、気の長い話にはなるでしょうね。
【図7】チェルノブイリ・ゾーンの入り口であるディチャトキ・チェックポイントにはお土産屋が現れた。2016年秋に開催した前回のツアーでは見られなかった光景だ。撮影=高橋慧

質問者H 人々にチェルノブイリやプリピャチに来てもらうことが大切で、来るための個別の動機は関係ないというお話がありましたが、そのような気持ちになるまでにどのくらい時間がかかったのでしょうか。また、直接のきっかけがあれば教えてください。 シロタ 一日や一ヶ月で突然考えが変わったわけではありません。そうした気持ちになるのに、少なくとも一〇年はかかっている。きっかけはゾーン訪問者とのコミュニケーションです。「みんなが行くというからついてきただけで、それまではとくに興味を持っていたわけではなかった。けれども絶対またプリピャチに行くつもりです。世界を見る目が変わりました」というような話を、帰りの車での会話や、彼らが帰ったあとのメールのやり取りでなんども聞いてきた。ぼくも変わっていって、動機は重要じゃない、なにを持って帰るかが大切なんだと思うようになりました。
【図8】翌日、ディチャトキ村のシロタ邸で対話がつづいた。昨年生まれたばかりの息子さんも参加

プリピャチに呼ばれる


質問者I 自分がプリピャチから逃れられないと悟り、プリピャチとの関わりを職業にしていこうと考えたきっかけを教えていただけますか。また、プリピャチ出身者のほとんどがほかの職業を選んでいるなかで、シロタさんがあえてこの仕事をやりつづけているのはなぜなのでしょう。 シロタ 神秘的な話になってしまいそうですが、べつにこの仕事を選んだわけではないんです(笑)。むしろプリピャチとは関係ない仕事をしようと全力でがんばった。ジャーナリズムを勉強した。建設現場で働いたこともあれば、スイミングプールのメンテナンスもやったし、通信関係のエンジニアや、販売員をしたこともある。九〇年代はソ連崩壊後の混乱期でしたから、できることはなんでもやりました。しかし、なにをやってもなぜかけっきょくチェルノブイリのテーマのほうに戻ってきてしまった。自分の意思とはまったく関係ありません。  たとえば、一九九六年、富裕層向けにスイミングプールの設計や設置の仕事をしていたときのことです。年末、すでに新年休暇が始まっていた時期に、上司から連絡があって、あるプールの修復ができるかどうか、休暇返上で確認してこいと言われた。当時は大学二年生で、年末とはいえもう新年を祝いはじめていた、つまり、すでにけっこう飲んでいたんです。だから、どんなプールか尋ねもせずに、迎えの車に乗った。そしてすぐ眠ってしまいました。  現場に到着して、運転手に起こされた。ぼくはなにかやばい酒を飲んでしまったのかもと思いました。なぜなら、なぜかプリピャチの、ラズールヌイ[瑠璃色]・プールに来ていたからです。ラズールヌイ・プールは、ゾーン内で働いているひとたちのために、九六年ないしは九七年まで営業していたスイミングプールです。事故後一〇年の九六年には、メンテナンスが行き届かないまま、施設も設備もともに劣化してしまって、閉鎖の危機に瀕していたのです。それで、管理人のだれかが、メンテナンスの見積もりをとるために、適当に見つけた設備会社に電話をした。それがぼくの働いていた会社だったというわけです。しかし、ここで出された見積もりは、施設レベルでも国家レベルでも、とうてい払える金額ではなかった。  こんなふうに、完全に無関係なところにいても、なぜかプリピャチに来てしまうということがなんどもありました。  ちなみに、チェルノブイリとプリピャチに関わっていくしかないと覚悟を決めたのは二〇〇六年、「プリピャチ・ドット・コム」を法人化したときです。その後はチェルノブイリの問題を専門にしています。
【図9】現在のラズールヌイ・プール。2016年撮影
質問者J シロタさんはさきほど、チェルノブイリの訪問者が、なにを持ち帰るかが大切だとおっしゃいました。シロタさんご自身はなにを持ち帰ったのでしょう。 シロタ どうやら自分にはゾーンとともに生きる以外の選択はないようだ、と理解したことでしょうか。けっきょくぼくはゾーンのそばで暮らすしかないし、最後までここで働くしかない、と。ぼくたち、自分がこのチェルノブイリの事故を経験し、自分の目で見てきた人間には、それをひとに伝える使命がある。 さきほど、人々に文明のモデルケースを見せることがプリピャチという街の使命だと言いましたが、ぼくたちプリピャチ人の使命は、チェルノブイリでなにがあったかを語りつづけることだと考えています。「ぼくたち」と言いましたが、ゾーンで訪問者に付き添うガイドの仕事をしているプリピャチ人はぼくを含めてたったの三人です。だから、ぼくたちがいなくなったら、あとはウィキペディアに書かれているような活動の伝聞しか残らない。チェルノブイリ・ゾーンを訪問する際には必ず公式ガイドが同伴しますが、現在、その九〇パーセントは、複数の言語を操る若いガイドです。残念ながら、彼らは自分たちが仕事場にしているその場所について、理解が足りないのではないかと思います。  さて、そろそろディチャトキの検問所が閉まってしまうので、今日はもう帰らなければなりません。みなさんありがとうございました。またお会いしましょう。
【図10】 シロタ氏撮影による現在のプリピャチ中央広場。奥はポリッシャ・ホテル。近年プリピャチに生息するようになった野生のキツネはセミョーンと名づけられ、フェイスブックにもブロガーとして登録されている(https://www.facebook.com/fox.Semion/)。ときどき観光客の前にも姿をあらわすようだ。提供=アレクサンドル・シロタ
  2018年6月5日 チェルノブイリ市内、ホテル10 構成・撮影=編集部

アレクサンドル・シロタ

1976年生まれ。国際NGO「プリピャチ・ドット・コム」主宰。写真家、ジャーナリスト、映像作家。ゾーン公式ガイドの資格を持つ。チェルノブイリ事故当時は9歳で、母とともにプリピャチに住んでいた。2020年4月より、チェルノブイリ立入制限区域管理局オンブズマン委員会の委員長を務める。

上田洋子

1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。早稲田大学非常勤講師。2023年度日本ロシア文学会大賞受賞。著書に『ロシア宇宙主義』(共訳、河出書房新社、2024)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS、2018)、『歌舞伎と革命ロシア』(編著、森話社、2017)、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(調査・監修、ゲンロン、2013)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社、2012)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010)など。
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