戦争はどこに「写る」のか──ボリス・ミハイロフとハルキウ派(抜粋) 『ゲンロン16』より|上田洋子

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初出:2024年4月10日刊行『ゲンロン16』

 『ゲンロン16』が4月10日に発売されます。今回は先出し記事として、小特集「ゲンロンが見たウクライナ」より、上田洋子による論考の抜粋をお届けします。ウクライナへの現地取材にもとづく本特集はそのほかに、すでに電子書籍「ゲンロンセレクト」で発売している東浩紀の論考「ウクライナと新しい戦時下」や、映画『DAU. ナターシャ』で知られる映画監督イリヤ・フルジャノフスキー氏へのインタビュー、キーウ市民へのインタビューで構成されています。

 上田論考は、『ゲンロン16』掲載の完全版では写真作品の図版を数多く使用して写真家グループ「ハルキウ派」の活動を振り返りながら、戦時下での彼らの作品の意義を考える内容となっています。今号の全体については、ぜひ以下の特設ページからチェックしてみてください!(編集部)

『ゲンロン16』特設ページ: https://webgenron.com/articles/genron16

 戦争はさまざまなものを遮断した。

 ウクライナ、ハルキウ出身の写真家ボリス・ミハイロフとは、通訳の仕事を通して知り合った。2006年、彼がトーキョーワンダーサイトのレジデンスに来ていたとき、南青山のギャラリーでミハイロフの展示があった。そこで荒木経惟とのトークショーがあり、知人の紹介で通訳をさせてもらったのだ。たいへん緊張したことと、対話がもりあがってほっとしたことはよく覚えている。

 ミハイロフと創作においてもパートナーである妻のヴィタ。ふたりはとても気さくで、作品は重層的で、ユーモアと人間に対する温かくもシビアなまなざしに貫かれていて、大好きになった。いまはおもにベルリンに住んでいる彼らに会いに行ったときは、《Look at me I look at water》(1999)などの作品の舞台になっているヌーディスト・ビーチでの撮影に連れて行ってもらった。ハノーファーの展示を見に行ったときは、その後泊めてもらって話を聞いた。その人柄ゆえ、わたしのほかにも彼らにお世話になっているひとはたくさんいるのではないだろうか。

 2023年11月、ウクライナ取材のあと、ベルリンで彼らにようやく再会することができた[図1]。ちょうどコットブッサー・トーア駅の近くのギャラリーで「機会の窓たち Windows of the Opportunities」というふたつのスライドショーからなる個展をやっていて★1、会場で会おうと約束した。暗い展示会場でひとり作品をじっくり見ていると、気づいたらミハイロフが隣に立っていた。久しぶりに見るあのたまらなく人懐っこい笑顔。コロナ禍と戦争でずっと押さえつけられていた心のなかのなにかが溶けていく。

図1 ミハイロフ(右)とヴィタ(左)。ベルリンにて、2023年11月。筆者撮影

 戦争が始まって、ハルキウの街は激しい攻撃にあった。ミハイロフの代表作の《Case History》(1997-98)や、この会場でも展示されていた《昨日のサンドウィッチ》(1960-70年代)はハルキウで撮影されている。ポストソ連期のハルキウを撮った《Tea Coffee Cappuccino》(2010)の生き生きとした写真も素晴らしい。わたしはハルキウには行ったことがないのだが、ミハイロフの写真を見るうちに、なんだかこの街に愛着を持つようになっていた。そんなこともあって、メディアに流れてくる戦時下の街の姿には、言葉で言い表せないような不安と痛みを覚えた。

 ヴィタは以前は展覧会があるごとにSNSに情報を投稿していたのだが、2021年末からまったくやめてしまっていた。戦争が始まって一週間くらいして、わたしは彼女にメッセージを送って心配を伝えた。翌日、ちょうど娘や孫たちがハルキウから逃げてくるのを待っているところだとの返事が来て、少しだけ安心した。それ以降、連絡の口実を見いだせないままただ心配を募らせて、はや1年半以上経ったころ、わたしは取材でヨーロッパに行くことになった。この時期、ちょうどベルリン近郊のヴォルフスブルク美術館で彼らが属する「写真ハルキウ派」の展示をやっているのを知る。そこで、思い切ってヴィタに連絡してみた。彼女は喜びの返事をくれて、ヴォルフスブルク美術館の展示のキュレーターを紹介してくれた。さらに、ベルリンではミハイロフの個展もあるとのこと。先に書いたベルリンのギャラリーでの再会は、こうして果たされることになる。もちろんそのすぐあとにヴィタにも会った。

 そのとき交わされた話のことはあとにして、まずはミハイロフと「写真ハルキウ派」の紹介から始めよう。

ミハイロフはウクライナを代表するか

  ボリス・ミハイロフとはだれか。日本でも写真好きなら知っているのではないかと思うが、そうでなければ遠い存在かもしれない。

 ミハイロフは1938年生まれ。もともとエンジニアで、ソ連時代はずっとハルキウに暮らし、同地の写真クラブで知り合った仲間とともに芸術写真を探求した。

 ソ連で写真といえば、たとえばロシア・アヴァンギャルドの写真家ロトチェンコがまっさきに思いうかぶのではないか。極端な近距離から見上げたりする斜めの構図を流行させたひとだ。また、『ソ連邦建設』などの30年代のグラフ誌は写真やグラビアデザインの文法を大きく進展させ、世界的にも評価が高い。だが、アヴァンギャルド以降は、「社会主義リアリズム」という保守的で古く生真面目な芸術規範が公式見解となり、芸術写真に発展の余地はなくなった。写真といえばドキュメントで、遊び心を発揮することはあまりできなかった。ヌードももちろん禁止である。

 ミハイロフと彼の仲間のハルキウの写真家たちは、その禁を密かに破って、ユーモアとエロスに溢れるシュールで楽しい作品群を制作していた。ミハイロフが写真に専念することになったのも、ヌード写真を撮影しているのがばれて、それまで働いていた工場をくびになったのがきっかけだ。

[……]

ヴォルフスブルクのハルキウ派

 2023年11月に話を戻そう。わたしはベルリンでミハイロフとヴィタに会う前、その日の昼間に、日帰りでヴォルフスブルクに行って、「ウクライナの夢見るひとたち 写真ハルキウ派」展を見た。

 ヴォルフスブルクはベルリンから高速鉄道で一時間強。フォルクスワーゲンの本社と工場がある街で、駅の裏側すぐ、川の対岸には茶色い煉瓦の工場が長く連なる。日本で喩えるなら、トヨタ本社のある豊田市といったところか。駅を街の側に出るとすぐにザハ・ハディドが建築を手がけた「ファエノ科学センター」がある。空間を贅沢に使った建築があるのは、企業城下町として潤っている証拠だろう[図2]。

図2 ヴォルフスブルクの駅のそばにある「ファエノ科学センター」。筆者撮影

 「ウクライナの夢見るひとたち」展がなぜこの街で開催されたのか。それは、キュレーターのレベディンスキーがこの街に住んでいるからだ。[編集部注:中略の箇所で]すでに触れたとおり、レベディンスキーはハルキウ派第4世代、「シロ」のメンバーだ。こちらもすでに書いたが、ヴィタが事前に彼を紹介してくれたおかげで、展示を見ながら話を聞くことができた。美術館が駅から少し離れていることもあり、わざわざ車で駅まで迎えにきてくれた。

 レベディンスキーはドイツの大学で工学を学び、その後もヴォルフスブルクに住みながらハルキウと2拠点生活をしている。ともに大学で学んだ妻はこの街で就職したそうだ。彼女もウクライナのひとらしい。そうやってドイツに暮らすうちに、故郷であるハルキウの写真を撮りたいと思うようになり、ミハイロフの写真ワークショップに参加し、ハルキウ派の一員となった。

 彼自身はエンジニアの父親がソ連崩壊後に作った工場の経営に関わっているという。小さな企業だそうだが、90年代の旧ソ連圏混乱期を知っている身からすると、そういった堅実なビジネスが軌道に乗って、子どもの世代が家業を大事にしつつ、地元のアートを発展させようとしている姿はなんだか嬉しく頼もしい。同時に、戦争が起こったからといって、人々が簡単に土地を離れたりしない理由もよくわかる。彼の家族も当然地元に残っている。

 レベディンスキーは写真を撮るだけでなく、この五年ほど、ハルキウにハルキウ派の美術館を建てようと尽力してきた。建物はすでに確保し、リアルとインターネット双方でアーカイヴを作って、出版活動も始めていた★2。なお、日本の写真も好きで、山梨県の清里フォトアートミュージアムのヤング・ポートフォリオ関連で来日したことがあるそうだ。細江英公の講評を受けて感激だったと言っていた。彼の感覚では、そもそも日本の写真とハルキウ派の写真は、感情のあり方に親近感があるとか。

 とはいえ、なぜいま彼の手元に、展覧会を開けるほどのオリジナルプリントの作品群があったのか。ハルキウ派の写真は、なんとヴォルフスブルクに疎開していた。

 レベディンスキーは戦争が始まるほんの3日前までハルキウにいた。開館準備中のハルキウ派写真美術館で照明を吊る作業をしていたそうだ。彼らにとって侵攻がいかに予期しないものであったかがよくわかる。だからこそ、怒りも大きい。

 まもなくハルキウはロシア軍に包囲される。ドイツに戻ったレベディンスキーは、唯一できることとして、ボランティアをつうじて故郷に人道支援物資を送っていた。物資を積んだ車はハルキウから空荷で戻ってくる。彼はこれを利用して写真アーカイヴを疎開させることを思いついた。ハルキウ派写真美術館がすでに集めていた作品群に加えて、現地に残った写真家のうち若い世代がほかの写真家の家を訪ねてまわり、作品を預かった。ウクライナを出る税関では作品を一枚一枚記載するような申告ができる状況ではなかったので、「パヴロフ、50キロ」といった具合に、書類に写真家の名前と重量を書いて通過したそうだ。

 こうして、合計約2トン(!)のハルキウ派の写真アーカイヴがヴォルフスブルクにやってきた。作品はレベディンスキーの自宅で管理されていたそうなのだが、家を改修することになり、ヴォルフスブルク美術館にアーカイヴを預かってもらえないか打診した。その結果、預かってもらえただけでなく、美術館側から提案を受けて展示が実現したのだそうだ[図3]。戦時には戦時で、こういう文化協力のかたちがあるのだ。わたしが展示を訪れたのは平日の昼間で、他の来場者がいなくて寂しかったのだが、土日は観客が集まっているようだ。

図3 「ウクライナの夢見るひとたち 写真ハルキウ派」展ポスター。提供=Museum of Kharkiv School of Photography

《ルーリキ》

 ヴォルフスブルク美術館二階の展示スペースには、ハルキウ派のさまざまな作品が年代順に並べられていた。(『ゲンロン16』へ続く)

 

★1 URL= https://galeriebarbaraweiss.de/exhibitions/windows-of-the-opportunities/
★2 写真ハルキウ派美術館のサイトは以下を参照。ウクライナ語と英語の二ヶ国語だが、英語はウクライナ語よりやや情報が少ない。このサイトで出版物を購入することもできる。MOKSOP. URL= https://moksop.org/

 

上田洋子

1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。早稲田大学非常勤講師。2023年度日本ロシア文学会大賞受賞。著書に『ロシア宇宙主義』(共訳、河出書房新社、2024)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS、2018)、『歌舞伎と革命ロシア』(編著、森話社、2017)、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(調査・監修、ゲンロン、2013)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社、2012)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010)など。
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