禍の時代を生きるための古典講義──第1回『古事記』を読む 安田登 聞き手=山本貴光|ゲンロン編集部

ゲンロンα 2020年4月28日 配信

 コロナウイルスによって、世界は大きく変わろうとしているように見える。しかし、世界史上、疫病はつねに人類の傍らにあり、絶えず人間を脅かすものだった。「わざわい」の中で人々はどのように生きていたのか。過去の人々の遺した書物を読み解くことで、現代に生きるわれわれへのヒントが見えてくるのではないだろうか。
 ゲンロンカフェでは2020年4月より、下掛宝生流の能楽師である安田登と、その謡の稽古にも参加している文筆家・山本貴光の両名による連続講義を映像配信する。第1回となる4月22日(水)は『古事記』について。2時間半の講義で、両氏の豊かな知に裏打ちされた考察が飛び交った。
 今回のイベントの模様は、Vimeoにて全篇をご覧いただける。本記事の内容に関心を持たれた方は、こちらのリンクからぜひ講義の全容をお楽しみいただきたい。
『平家物語』を題材にした第2回のイベントレポートはこちらから。(編集部)

 

 

 

禍の時代とは何か? 「渦」と「禍」


 なぜいま『古事記』を読むのか。それは、古代、文字が発明される以前と以後の変化の境目にある本や神話の中には、変化する以前の世界の記憶の残滓があるからだという。文字が発明される以前/以後の社会の違いを考えることは、コロナ禍以前と以後、この大きく変化しつつある社会の中にいながら、自分たちの歴史上の位置を確認する手助けになると安田はいう。

 そもそも、「禍」とは何か。安田によれば、甲骨文字の「禍」の字は、占いを表す文字の周りにヒビの入った骨が配置された様子から生まれた。禍とは、未来を見通すことができない役立たずなものとして表されているのだ。現代使われている「禍」の字と、渦中の「渦」の字は見た目が似ていることでもわかるように本来は同じ文字だ。禍の中にいる人々は自分のまわりで起こっていることがなんなのか、ふつうは気づかない。渦の外に出て初めて、人は自分が渦中/禍中にいたことに気づくのだ。

 

漢字からみる古代の日本人の感覚


『古事記』における漢字の用法を調べていくうちに、その編集に疑問が生まれたという安田。安田によれば、われわれの身近にある死の概念すらも、漢字が輸入される以前の日本では表せなかったのだという。山本も、そうして漢字とともに移入された死の概念は為政者に利用されたのかもしれないと示唆した。残されたものから残されなかったものを想像し拾い上げていく作業のおもしろさをめぐり、議論は深まっていく。

 能の謡本も同様に、世阿弥当時のものは現存していないものが多いという。能は流派によって、詠み方、演じ方に多様性があり、そこにただひとつの正しい答えはない。じつは『古事記』も、本居宣長ら国学者によって、さまざまな「読み方」が考案されてきた。本居宣長の読みはテクストを朗唱し、身体を通して読まれることを前提としているという。実演された安田の迫力ある朗唱からは、安田の身体を通した文字が、空間に力強く立ち現れている様が感じられた。 

緊急事態に神々はなにをしたか? 天岩戸伝説から


 後半は『古事記』の具体的なエピソードから、天岩戸(あまのいわと)伝説を取り上げた。天照(あまてらす)大神(おおみかみ)を外に出すための策略を練ったのが、多くの思慮を兼ねそなえ、はかりごとを巡らせる神・思金神(おもいかねのかみ)である。念には念を重ねた準備が完了し、指示に従って体中に植物を纏った天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が奇天烈な格好で舞を舞う。この天宇受賣命の奇天烈な格好に笑う神々の「笑う」には「咲う」の字が当てられている。

()く」とは「()く」である。花が蕾を裂いて花ひらく意味だ。この字から、「笑う」も「割る」である。裂いて割ることにこそ、閉塞的状況を打破する重要な鍵なのではないかと安田は指摘する。自粛が叫ばれ、社会の閉塞感が強くなっているいまこそ、注目すべき観点といえよう。

 

思金神の重要性


 安田は、思金神のようにただぼんやりともの思うだけの、実利的ではなく、無駄とも思えるような存在の重要性を説く。考えることは本来、多様な観点から物事を見ることにつながっている。いま、コロナウイルスの蔓延によって、多くの人々に思考する時間の余白が生まれたことは、かえって幸運な側面もあるのではないかと安田はいう。

 安田によれば、文字とは、本来複雑な世界を単純化して表現することで、情報の伝達を「わかりやすい」ものに変える仕組みだという。「わかること」は「分けること」、すなわち differentiation であり、これは「微分」でもある。文字は便利な一方、その微分的な物事の考え方に引きずられると、ものごとのとらえ方が簡略的、一面的になりがちでもある。

 しかしいまのように時間をかけやすい状況であれば、わからないものをわからないまま頭の片隅に置いておき、発酵するのを待てるのではないか。ここで山本から、数学者が着想を得るために、課題を「頭の片隅においておく」ことが紹介された。

 変化は見えづらいが、確実に起こっている。渦中にいながら、そこから距離をとってものを見るためには、古典のエッセンスが力になるのではないか。安田は、言語をわがものとするための方法論として、『古事記』を朗唱など複数のアプローチを紹介した。今後の連続講義でも、古典の本質へ迫るため、たんにテクストを追うだけでない「読み方」が紹介されていく予定だ。(清水香央理)
 

安田登、聞き手=山本貴光「禍の時代を生きるための古典講義 第1回『古事記』を読む」
(番組URL:https://genron-cafe.jp/event/20200422/