自由への運動は「他者」との出会いからはじまる ――「コロナ時代に政治的自由は可能なのか? 革命家・外山恒一×批評家・東浩紀 電撃対談!」イベントレポート(上)|ゲンロン編集部

ゲンロンα 2020年5月13日配信

 2020年5月10日、ゲンロンカフェには静かな緊張感が漂っていた。この日、革命家・外山恒一と東浩紀が初対面した。
 都知事選での過激な演説、アメリカ大統領選挙への立候補など、他の追随を許さない独自の活動で知られてきた外山。若手批評家として文壇にデビュー、数多くの著作を世に送り出し、ゲンロンを10年にわたって維持してきた東。1970年生まれの外山と1971年生まれの東は、ほぼ同年代である。
 まったく異なるキャリアと立場を築いてきた2人が、このコロナ騒動下にどのような対話を繰り広げるのか。今回は7時間半に及ぶ白熱したイベントの模様をお届けする。
 ※本イベントのアーカイブ動画は、Vimeoにてご視聴いただけます。その1はこちらのリンクから、その2はこちらのリンクから。ぜひお楽しみください。(ゲンロン編集部)

 

 

同調圧力に抗って


 イベントが始まった。じつはこの対談は、外山からのオファーによって急遽実現した。さっそくその理由を外山が語り始める。その来歴からは想像できない、穏やかかつ冷静な話し振りだ。曰く、コロナ禍における過度な自粛運動に反論する東の姿勢に、外山自身のスタンスと似たものを感じ、混迷を見せるコロナ騒動について意見交換をしたい、とのこと。

 2人に共通するのは「反同調圧力」という立場だ。

 東は、リベラル派知識人が、「自由」を謳っておきながら、今回はむしろ自粛強化を求めたことを問題視する。彼らは緊急事態で人々がなにを求めるかを想定せず、お題目の「自由」を語っていただけなので、今回人々が規制を求める動きに抵抗できなかった、と主張。現実を見据えた議論が欠けていたために、リベラルは人々の同調圧力に負けてしまったというわけだ。

 一方、活動初期から一貫して反同調圧力を訴えてきた外山は、マス・ヒステリーの発露という観点から、今回のコロナ騒動とオウム真理教による地下鉄サリン事件の連続性を主張する。地下鉄サリン事件における警察権の伸長に対しては、リベラルも保守も沈黙していたことを例に挙げ、今回のコロナ騒動でもリベラル・保守を問わないあらゆる知識人が自粛に反対する機運を見せないことに危惧を示した。そのような考えのもと、外山自身はゴールデンウィークに高円寺の駅前で「独り酒」を敢行するなど、反同調圧力に基づいた運動を行っているという。

 つまりこの対談は、政治的主張に囚われずにいかに同調圧力に抗い、自由を獲得するかという問題意識から始まったのである。

 

インターネットはオルタナティブ(=自由)な場所たりえるのか


 東が「われわれはパラレルワールドを生きてきたようなもの」と語るとおり、ほぼ同じ年齢で同じ社会変動を体験した2人だが、彼らが見た風景は大きく異なっていたようだ。それが顕著に現れたのは、東と外山のインターネット観の違いである。これは「自由の場所」としてのインターネットをいかに評価するかという問題にもつながっていく。

 地下鉄サリン事件が発生した1995年は、「Windows 95」が発売され、日本でインターネットが普及の萌芽を見せた年でもある。外山はその歴史を踏まえ、日本におけるインターネットをこう語る。つまり、地下鉄サリン事件を通過し、あらゆる知識人たちがマス・ヒステリーに飲み込まれた後の時代における、人民の感情増幅装置でしかない、と。

 他の国々にとってマス・ヒステリーが歴史の表舞台に現れたのは2001年の9・11同時多発テロだ。つまりそれらの国々は2001年までの6年間、マス・ヒステリーに左右されない自由の拠点としてインターネットを使っていたのではないか。裏返せば、日本では当初から同調圧力への抵抗拠点としてのインターネットは存在しなかったのではないか。

 この主張に東は疑問符を投げかける。初期のインターネットには先鋭的な論客たちが集い、そこにある種の自由でオルタナティブな場所が存在していたのではないか、と。

すべてがオンライン化していく世界の中で


 その一方で東は、現在のSNSの変容を認め、インターネットは自由なオルタナティブスペースではなく、より多数の人民感情を増幅させ、同調圧力を強化させるメディアになってしまったのだと言う。

 それはSNSを発端とする「インフォデミック」の問題にもつながるとしながら、外山はさらに、本来もっと客観的であった報道までもが、SNSによる人民の意見を反映させるだけの装置になっていると続ける。たしかにいまとなっては、マスコミのニュースソースがTwitterであることも珍しくなくなった。

 東はマスコミの問題に大きく首肯し、現場に直接赴き現実を視聴者に見せるはずのマスコミが、コロナ騒動によるオンライン化によって本来の報道の機能を失った、と憤りを述べる。

 ここで明らかになるのは、コロナ禍に乗じたオンライン化の旗印のもと、社会のあらゆる局面が閉鎖的になり、現実との接触が忌避されていることだ。東はここで、アメリカの社会学者リチャード・フロリダが提起した「クリエイティブ・クラス」の概念を取り上げた。

 

クリエイティブ・クラスと閉鎖的な想像力


「クリエイティブ・クラス」とは弁護士やクリエイターなど、いわゆる知識労働者を指す。たしかに、彼らの仕事はオンライン上ですべて完結する。そのため彼らは進んでオンライン化を志向する。しかし実際のところ、社会には絶対にオンラインでできない仕事がある。AmazonやUber Eatsを使うとして、その配達員はどうか。スーパーの店員はどうか。あるいは介護士は?

 さらに事態を厄介にしているのは、クリエイティブ・クラスとSNSの親和性の高さだ。彼らがSNSで発信する声が、あたかも社会全体を代弁する(しかしさきほども述べたように、それは同調圧力の増幅装置でしかない!)かのような錯覚を起こさせ、彼らにとっての外部であるそれ以外の職業従事者を、社会から無意識的に排除してしまうのだ。そこでは外部や他者に対する想像力が決定的に欠如している。

 この議論は、東が冒頭に述べたリベラル派知識人の態度にも関係する。こうした問題を考えずに自粛に進んで従うことは、リベラルの想像力の欠如を端的に露呈させている。そしてそれこそが、彼らを自由から遠ざけているのだ。

 外山と東は、SNSなどで不用意に表面化することになった「人民の声」による同調圧力こそ、政府よりも法よりも恐ろしい自由の敵なのだと口を揃えた。

 リベラルとは本来「自由」を表すにもかかわらず、現在のリベラルは到底、自由を志向しているとは思えない。自由を実現すると思われていたインターネット空間もいまや、クリエイティブ・クラスとリベラルが跋扈する想像力を欠いた閉鎖的空間になり、そこでは「人民の声」が反響しているのだ。では、現代において真に自由であるためにはどうすればいいのか? 議論は第2部へと続いていく。

 話題は自由を生み出す場所の力とそれを作り出すための運動論へと進んでいく。そして第2部から登場した「あるゲストたち」の存在によって外山と東のスタンスはさらに明確になる。(谷頭和希)

 

 外山恒一×東浩紀【緊急生放送! 2時間番組】コロナ時代に政治的自由は可能なのか? 革命家・外山恒一×批評家・東浩紀 電撃対談!
(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20200510b/

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