自由への運動は「他者」との出会いからはじまる ――「コロナ時代に政治的自由は可能なのか? 革命家・外山恒一×批評家・東浩紀 電撃対談!」イベントレポート(下)|ゲンロン編集部

ゲンロンα 2020年5月13日配信

 2020年5月10日。ゲンロンカフェで行われた革命家・外山恒一と批評家・東浩紀の対談は異例の展開を迎えていた。第1部の最後で外山と東が、画面の外の視聴者に向かってこう呼びかけたのだ。

「僕たちと議論したい人がいれば来てください。一般人でもいいです」

 カフェイベントとしては異例の展開である。蓋を開けてみると、第2部が始まってゲンロンの会場にやってきたのは、20代らしき若者数人。一部は外山が主催するセミナーの受講生であり、第1部の放送を見て、仲間とともに呼びかけに応じてやってきたのだという。
 こうして波乱の予感で幕を開けた外山×東の対談第2部。今回はその模様をお届けしよう。
 ※本イベントのアーカイブ動画は、Vimeoにてご視聴いただけます。その1はこちらのリンクから、その2はこちらのリンクから。ぜひお楽しみください。(ゲンロン編集部)

 

 

運動とは「不動産」の問題であり、革命とは「実効支配地域」を作ることだ


 第2部が始まって数十分でカフェに到着した若者たち。彼らは外山と東の招きにより1人ずつ壇上へ上がり、彼らが持つ問題意識や政治的主張を外山と東の前で語る。外山の下で学んだ学生たちも多い。その根底にはいかに同調圧力に抗い、自由な場所を作ることができるのか、という問題意識がある。女性差別の問題や福祉と風俗の問題、学問・芸術と行政など多岐にわたるそれぞれの主張に対して、外山と東はときに厳しい質問を挟みながら、ところどころで丁寧に質問の意図をまとめ直しつつ応答していく。その中で、第1部で語られた「自由」についての両氏の意見もより明確に表わされていった。

 彼らの親世代に近い2人は、一貫して「現実を見るべきだ」と返答する。これは第1部で繰り広げられた外山と東によるリベラル批判にもつながる文脈だ。

 

 いかに同質化を強いる権力に抗おうとする志を持っていたとしても、そうした運動につきまとうのは志や理念とは違う、より現実的な問題である。東はそれが「不動産」の問題に帰着すると言う。ゲンロンの活動を省みてこう言うのだ。いくら一時的な話題性が高くても、その活動を行う「場所(=不動産)」がなければ活動に持続性は生まれない。それはSEALDsが確たる場所を持たずに一時のムーブメントで終わったこととも関係するし、逆に持ちビルがある自民党や公明党、そして共産党といった政党の「強さ」を表してもいる。

 外山は東の考えに同意し、「革命とは実効支配地域を作ること」と主張。そのようにしてできた「自分のテリトリー」を守るために、音楽や美術といった芸術がコロナ禍でいますべきことは、政治の領域に芸術を持ち込むことでは決してなく、むしろ自粛要請の中でもできる限り粛々とライブや展示を行い、自らの実効支配地域を運営することではないか、という問題提起も行った。

運動は続けることに意味がある


 こうした「実行支配地域」としての自由の場所を維持するためには、運動の理念よりもっと現実的な問題――嫌がらせやご近所トラブル(人民の声!)、法律など――に対処し続ける必要がある。東は10年にわたりゲンロンの経営に携わる中で、実際にこれらの問題に悩まされてきた。そしてこうした問題に柔軟に対応し、自らの考えを現実と調整できるようになってはじめて、持続的な運動が可能になったと述べる。

 そのような現実の問題との遭遇は、社会に存在する多様な外部や他者との邂逅であり、現実の他者を知ることによってはじめて、運動は持続可能となるのだ。

 ここで筆者は、第1部での外山の発言を思い出した。

「権力への運動は負けてもいい。だって相手が強すぎるのだから。でも負けたらその悔しさを持って運動をし続けなければならない」

 まさに外山も東同様、運動をいかに持続するかということを念頭に活動を行っている。第1部から薄々気づいてはいたのだが、外山と東にはかなりの共通点があるのではないか? そう筆者が思っていると、外山の方から思わぬ指摘があった。

 若者と東が対話しているのを見て外山は「東さんは活動家的な側面を強く持っている」と漏らしたのだ。東もこれに同意、そもそもゲンロンという活動自体が一種の運動であり、10年のあいだゲンロンを続けてきた中で現実と向き合い、戦術を組み立てその経営の舵を切ってきたことで活動家的な素養が身についたのではないかと述べた。

 加えて、ゲンロン以前に東はインターネット上での活動を通してIT起業家などの他者と多く出会い、そこで「アカデミーや批評界の小ささ」を思い知らされながら、自らの思想やスタンスを変化させてきたとも言う。

 東の軌跡は他者と出会い続けるものでもあったのだ。

 

他者と出会い続けることが、自由な空間を生む?


 そのような議論を踏まえて東が語るのは、現在の大学という組織についてである。これは来場した若者たちのグループが大学のサークルを母体としていること、またその内1名からアカデミズムと行政の関係について質問が出されたことから自然に湧き出た話題であった。大学とは本来、外山と東がいままで述べてきたように「他者と出会い、現実に触れる」ための場所である。その中でそうした外部の現実を言語化し、学問にするのが大学の制度であったはずが、いつの間にか大学にはそうした「現実」と触れ合う接点がなくなり、きわめて閉鎖的な空間へと変容してしまった。それはたとえば、一般的な大学教員が外部の世界の人間とほとんど日常的な交流がないという問題とも直結しており、東が起業家たちと出会って思い知らされたのは、アカデミーという世界の偏狭さだったのである。

 大学がそのように変容してしまったいま、真の意味で他者と出会う場所を求めて、東はゲンロンという場所を守るための戦術を練り続けているし、外山は反自粛運動を称して路上に立ち続けている。

 私はこの対談で焦点となった「同調圧力に抗っていかに自由を確保するのか」という問題について、「他者と出会い続けることによってしか自由な空間は生まれない」というのが2人の解答なのではないか、と感じた。そしてその意味において、一見異なって見える2人はほぼ同じ方向を向いているのだと言えはしないだろうか。

リベラルとラディカルが対話する


 若者たちとの対話も熟してきたころ、Skypeでもう1人のゲストが登場した。

 津田大介である。

 津田といえば、かつてはゲンロンカフェでのイベント登壇常連者として人気を誇ったが、昨年度のあいちトリエンナーレの問題をめぐって東と対立。以降ゲンロンでのイベントには姿を見せていなかったが、その沈黙を破るかのごとく出演が実現した。

 津田を交えたトークは、コロナに対するリベラル陣営の対応の是非から論じはじめられた。それまでのトークでも繰り返し言及されたが、コロナ禍が明らかにしたものはこれまでのリベラル-保守という図式ではなく、より本質的なリベラル-ラディカルという対立図式である、と外山は主張する。この図式において津田は、外山や東が批判するリベラルの側に立っていると思われており、トークではそれを踏まえたうえで、津田に対して厳しい質問も向けられた。

 

 そのほかにも話題はあいちトリエンナーレ、演劇と行政の関係性など広範にわたり、途中には本格的な論戦が始まって会場に緊張感が走る場面もあった。しかし外山と津田、そして東という一見すると社会的立場も政治的主張もまったく異なるように見える3人がコロナ問題をきっかけにこうして集い、意見を交わす光景はある意味で、「他者と出会う」というゲンロンの理念を図らずも体現しているようにさえ見えた。

 そのような意味で今回のイベントは、様々な立場の人が乱入して語り合うという、イベントとしては異例のスタイルを取りながら、真の自由を考えるための第1歩となる貴重なイベントになったのではないだろうか。



 対談時には、対談相手の著作に一通り目を通すと言う外山恒一。今回は突発的な対談だったので東の著作にあまり目を通せていないこともあり、意識的に対談をコロナ問題の話題に収めていたという。

 しかし、次なる対談がある場合は、東の著作を踏まえ、本気で突っ込んだ話をすると言う。これもまた、他者を知り、自由を獲得するため徹底的に相手へぶつかる外山の革命家たる所以だろう。(谷頭和希)

 外山恒一×東浩紀【緊急生放送! 2時間番組】コロナ時代に政治的自由は可能なのか? 革命家・外山恒一×批評家・東浩紀 電撃対談!
(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20200510b/

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