【特別掲載】百年の危機|ユク・ホイ  訳=伊勢康平

初出:ゲンロンα 2020年6月13日配信

 コロナウイルスの流行をめぐって、各国の哲学者たちが声明や文章を発表しています。『ゲンロン』で「芸術と宇宙技芸」を連載し、昨夏にゲンロンカフェにも登壇したユク・ホイは、ヨーロッパでの感染と感染対策が広まる4月に”One Hundred Years of Crisis”と題する論考を発表しました。1919年にポール・ヴァレリーが発表した「精神の危機」から100年後に起きた今回のコロナ危機は、世界史にとってどのような意味を持つのでしょうか。そして西洋的な科学一元論に陥らず、単なるオルタナティブとして東洋を見出すのでもない方法で、このグローバルな危機を乗り越えるためには、どのような思想が必要なのでしょうか。つねに東洋と西洋のあいだで思考してきたユク・ホイによるこの論考を、ゲンロンαで急遽、全文訳出することにしました。東浩紀による「コロナ・イデオロギーのなかのゲンロン」ともあわせてお読みください。また今夏刊行の『ゲンロン11』には、ユク・ホイの「悲劇性」をめぐる論考を掲載する予定です。こちらもご期待ください。(編集部)
凡例 ★=原注 ☆=訳注 []=著者補足 〔〕=訳者補足

 

もし、哲学がかつて役にたち、欠陥をおぎない、あるいは病を予防するものとしてあらわれたことがあったのなら、それは健全な文化のなかでのことだった。病におかされたものにとっては、哲学は病をいっそう重くするだけなのである。
——ニーチェ「ギリシア人の悲劇時代における哲学」☆1

1「精神の危機」から100年後に


 1919年、第一次世界大戦が終結したあと、フランスの詩人ポール・ヴァレリーは「精神の危機」のなかで言った。「われわれ後世の文明は……自分たちが死すべき者であるとあまりに思い知っている」★1。私たちは、いつもこのような破局のなかで、それも一撃のあと après coup としてのみ、自分たちが脆弱な存在だと思い知るのだ。そして「精神の危機」から100年後、この惑星は中国からきた一匹のコウモリによってあらたな危機を迎えている——コロナウイルスがほんとうにコウモリに由来するのなら。もしヴァレリーがまだ生きていれば、彼もフランスの自宅からの外出を禁止されていたことだろう。

 1919年の精神の危機のまえにはニヒリズムが、つまりある種の虚無があった。それは1914年よりまえにヨーロッパにとり憑いていたのである。まさにヴァレリーは、大戦前の知識層についてこう言っている。「私は目のあたりにする……無を! 無……ただし無限の可能性を秘めた無を」。また1920年の「海辺の墓地 Le Cimetière Marin」というヴァレリーの詩には、「風が吹き起こる! ……生きようとしなければならない!」☆2というニーチェ風の肯定主義的な呼びかけを見てとることができる。この一節はのちに〔「風立ちぬ」という堀辰雄の訳で〕宮崎駿のアニメーション映画のタイトルに用いられた。これは堀越二郎という技術者を描いたもので、彼は大日本帝国のために、のちに第二次世界大戦で使用されることになる戦闘機を設計した人物である。ヴァレリーが直面したこのようなニヒリズムは、ニーチェ的な試練というかたちで再帰的にあらわれる。つまり寂寥きわまる孤独のうちにデーモンが忍び込み、おまえは永劫回帰のなかを生きたいかと問いかけるのである——おなじ蜘蛛におなじ樹の間の月光、そしておなじ問いを投げかけるおなじデーモン……☆3。このニヒリズムと共に生きることも、正面から向きあうこともできないような哲学は、なにひとつ充分な答えを出さない。なぜならそのような哲学は、病をかかえた文化の容態をより悪化させるだけだからだ。あるいは、私たちの時代でいえば、そうした哲学は、せいぜいソーシャルメディアで流行りのおかしな哲学的ミームのうちに引きこもるしかないのである。

 ヴァレリーが戦っていた当のニヒリズムは、18世紀以来、技術の加速とグローバル化によってたえず育まれてきた。ヴァレリーは、さきのエッセイの終わりにかけてつぎのように述べている。

しかし、ヨーロッパの精神は、あるいは少なくともそのもっとも貴重な内容は、余すところなく伝播しうるのだろうか。民主主義や地球の資源開発、それから技術の一般的な普及といった現象は、ヨーロッパの公民権喪失 deminutio capitis の前兆となっているが……そのすべては運命の絶対的な決断だと考えられなければいけないのか?★2

 かつてヨーロッパは、このような伝播を肯定しようとしたのかもしれないが、しかしいまやこの伝播の脅威に直面しうるのはヨーロッパだけではない。そしておそらく、ヨーロッパの「悲劇性 tragist」★3の精神では、この脅威をふたたび完全にのりきることはできないだろう。「悲劇性」とは、なによりまずギリシア悲劇と関連している。それはまた精神内部に生じる矛盾を解決しようと努力する精神そのものの論理でもある。私は、「啓蒙の終わりの後に、何が始まろうとするのか?」やそのほかの論考のなかで、啓蒙主義以来、衰退してゆく一神教に代わって技術一元論 mono-technologism(または技術一神論 techno-theism)がいかに台頭したかを描こうとしてきた。この流れは、こんにちのトランスヒューマニズムによって頂点に達している★4。私たち現代人は、いわばヨーロッパのハムレットの文化の継承者である(ヴァレリーの「精神の危機」のなかでは、ハムレットがライプニッツ、カント、ヘーゲルおよびマルクスの頭蓋骨を数えあげながらヨーロッパの知的遺産を回顧している)。というのも、ヴァレリーの論考から100年を経たいまもなお、私たちはいつか不死身になれると信じてきたし、まだ信じ込もうとしているのだから。つまりひとは、やがて免疫のシステムを向上させてあらゆるウイルスに対抗できるようになると、また最悪の事態がおこったときにはたんに火星へ逃げればよくなると信じているのだ。コロナウイルスのパンデミックのただなかにあって、火星への旅にかんする研究は、ウイルスの拡大阻止や人命救助とは無関係だろう。トランスヒューマニストたちは、それぞれキャッチコピーを用いて不死身を喧伝してきたが、いまだにこの地球と呼ばれる惑星に住みついているわれわれ死すべき者には、彼らの言葉どおり不死身になるまで待てる見込みなどないだろう。ニーチェ以後のニヒリズムをめぐる薬理学 pharmacology はまだ書き表されていないが、しかしニヒリズムの毒はすでに地球の全身に蔓延し、免疫システムに危機を引きおこしているのである。

★1 Paul Valéry, “Crisis of the Spirit” (もとの訳題は “Crisis of the Mind”), trans. Denise Folliot and Jackson Matthews, 1911. 〔邦訳はポール・ヴァレリー『精神の危機 他十五篇』、恒川邦夫訳、岩波文庫、2010年、7頁。訳文は変更している。〕「精神の危機 La Crise de l’Esprit」は、もともと英語で、1919年4月11日と5月2日に『アシニーアム』誌で発表された。なおフランス語のテクストは、おなじ年の8月に『新フランス評論』誌で発表されている。
★2 Valéry, “Crisis of the Spirit.” 〔邦訳は同28頁。訳文は変更している。〕
★3「悲劇性 Tragist」とは、私が近刊の『芸術と宇宙技芸 Art and Cosmotechnics』(ミネソタ大学出版、2020年)で使用している新語である。
★4 Yuk Hui, “What Begins After the End of the Enlightenment?,” e-flux journal, no. 96, January 2019. 〔邦訳は、ユク・ホイ「啓蒙の終わりの後に、何が始まろうとするのか?」、河南瑠莉訳、『現代思想 2019年6月号 特集=加速主義』、青土社、2019年所収。〕


☆1 エピグラフの訳出にあたっては、『悲劇の誕生 ニーチェ全集2』、塩谷竹男訳、ちくま学芸文庫、1993年、353頁を参照した。なお、今年夏に刊行予定の『ゲンロン11』に掲載されるユク・ホイの論考「ヨーロッパのあとに、悲劇をこえて」でもこの箇所が参照されており、そこで示されたホイの解釈をふまえて、訳出は英文から直接おこなった。
☆2 引用箇所はそれぞれ、ポール・ヴァレリー『精神の危機 他十五篇』、恒川邦夫訳、岩波文庫、2010年、7頁および、『ヴァレリー詩集』、鈴木信太郎訳、岩波文庫、1968年、242頁を参照。どちらも訳文は変更している。
☆3 フリードリッヒ・ニーチェ『悦ばしき知識 ニーチェ全集8』、信太正三訳、ちくま学芸文庫、1993年、362頁参照。なお個々の表現は、本文でのユク・ホイの表記にしたがって変更している。