【特別公開】『枝角の冠』冒頭部分|琴柱遥

ゲンロンα 2020年6月23日配信

 2020年6月10日、ゲンロン 大森望 SF創作講座から傑作を集めた電子書籍シリーズ「ゲンロンSF文庫」が誕生しました。ラインナップは、第3回ゲンロンSF新人賞に輝いた琴柱遥さんの『枝角の冠』、同じく大森望賞を受賞した進藤尚典さんの『推しの三原則』に加え、リニューアルされた既刊をあわせた5点です。
 これを記念し、『枝角の冠』の冒頭部分を公開いたします。多くの女と唯一の「父」が暮らす群れを描いた力強く切実な物語。大森望さん、飛浩隆さん、東浩紀を審査員とする選考会で、満場一致の大賞となった傑作をぜひお読みください。(編集部)

 
 わたしがはじめて父を見たのは、一面に霜が下りた寒い冬の日だった。

 

 地面を覆った霜に冬の薄日が差し込み、水晶の粒を撒いたようにきらきらと光っていた。空は明るい灰色に曇って、太陽は白い玉のようだった。何もかもが白い景色の中だけで、父の姿だけが影のように黒かった。そびえたつようにおおきく、いかめしく、そして物悲しかった。

 腹を裂かれた鹿が雪の上に倒れていた。はらわたからは、白く湯気がたちのぼっていた。二本の前脚の先、曲がった爪はまだあたたかい血をしたたらせ、分厚い毛並みはほとんど肘のあたりまでぐっしょりとあかく濡れ……。
 全身を覆う被毛は黒く、分厚く深い毛皮が全身を覆っていた。尾は長く太く、大蛇のようで、父と鹿との周りを取り巻くように弧を描いていた。その尾から続く線の先が背中につながり、太い首へとつながり、その先に小さな頭があった。頭上には十六枝に分かれた枝角が冠のように戴かれていた。逆光の中、二つのひとみだけが光っていた。霜に照り返す光が眼に差し込み、ひとみは青ざめたような金緑色に見えた。しずかな戸惑いをたたえて、おさないわたしを見下ろしていた。

 

 わたしはあのとき小さな子どもで、男と女の違いも、獣と人の差も分かってはいなかった。けれどこのおそろしい、そして物悲しい生き物が、わたしたちと同じ種族に属するものだということだけは理解していた。鳥と魚を見間違えることがないように、花と貝殻とを見間違うことがないように、たしかに彼はわたしに近しいものだった。同じ赤い血の流れる生き物だった。

 だからわたしはうれしくて笑った。父に向かっていっぱいに手を伸ばした。

「おとうさん!」 

 父はおどろいたようだった。肩の辺りから背中の中央にかけて、たてがみがゆっくりと逆立った。その手に触れてみたかった。まだあたたかい血を滴らせている黒い爪、毛深い前足。

 けれども父がわたしを見ていたのはほんの一瞬のことだった。長い尾の先で地面を強くたたくと身をひるがえし、見る間に冬枯れの森の奥へと消えて去ってしまった。

 

 わたしには牙もなく爪もなく、毛皮もなければ尾もなかった。つまりは、どこにでもいるような当たり前の女で、そして、子どもだった。それが当たり前だと思わなければいけない。そう気づいたのは、いったい、幾つのときだったのだろう。

 

 わたしは十三歳。

 川岸にひろく広がった草原の中に寝っ転がって、空を見上げている。

 初夏の空は青く高く、風に紡がれてはまたほどかれる雲が、強い風に吹かれて流れて行く。土手に茂った夏草の中に横たわれば、視界は高く伸びた草の緑に縁取られる。白くふわふわとした草の穂が、雲と一緒に風に揺れる。

 今は夏。冬にはあらかた水が引いてしまう河も、今の季節は満々と水に満たされ、土手に茂った背の高い草が川岸と深い葦原との境目をあいまいにしている。草の葉はちくちくと頬を刺す。仰向けになって草の間に横たわれば、金色の日差しが手足をぬくめる。

 あくびをした拍子ににじんだ涙を吸いに、黄色い蝶々が近づいてくる。くすぐったくて首を横に振ると、蝶は空の青みのほうへと再びふわふわ飛んで行く。

 と、かすかな水音がした。目を開く。

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