「終わりなき終わり」を生きるために 大澤真幸×吉川浩満「パンデミックは社会と制度をどう変える/変わるのか」イベントレポート

ゲンロンα 2020年6月29日配信

 日本を代表する社会学者はコロナ禍をどう見ているのか――。
 社会学者・大澤真幸は5月に刊行された『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』に巻頭論文を寄稿し、自らが主宰する雑誌『THINKING 「O」』でもコロナ禍の特集号を緊急出版する予定であるという。そんな大澤がゲンロンカフェでコロナ禍について大いに語った。  
 聞き手を務めるのは、去年行われた大澤の『社会学史』刊行イベントにも登壇した吉川浩満。今月のはじめ、精神科医・斎藤環がコロナ禍について語ったイベントでも聞き手を務めた対談の名手だ。
 トークは、野球や将棋から聖書にいたるまでさまざまな角度から繰り出される比喩や具体例が「思想としてのコロナ禍」に次々と結びついてゆく濃密なものとなった。本記事ではその模様をお届けする。(ゲンロン編集部)
 ※本イベントのアーカイブ動画は、Vimeoにてご視聴いただけます。本記事の内容に関心を持たれた方は、こちらのリンクからトークの全容をお楽しみください。



コロナ禍の意味を十二分に汲み取る


 大澤が今回のコロナ禍についてまず指摘したのが、事の重大さを正しく把握し、その意味をしっかりと汲み取ることの必要性である。

 幸いなことに、現段階では新型コロナウイルスによる日本の被害は世界各国と比べると小さなものに留まっている。しかし、そのことによってコロナ禍による世界の変化に鈍感になってしまうことはあってはならないと大澤は警鐘を鳴らす。

 大澤が歴史的な具体例として挙げたのは第一次世界大戦だ。第一次世界大戦は当時のヨーロッパ文明に大きな衝撃を与え、その方向転換を迫ったことで知られる。しかし、大戦での被害が比較的小さかった日本はその世界史的な意義に気づかないまま、第二次世界大戦に突入してしまった。そのような過ちを繰り返さないためにも、今回のコロナ禍の意味を十二分に汲み取る作業を怠ってはならないのだと大澤はいう。

 

「終わりなき終わり」を生きる


 かつて、オウム真理教事件に対して社会学者の宮台真司は『終わりなき日常を生きろ』を書いた。大澤は、それにならうならば、今回のコロナ禍によって生まれた気分は「終わりなき終わり」と呼べるかもしれないという。世界中の大都市で行われた大規模なロックダウンは、人々に「地獄はすでにここにある」と思わせるほどのインパクトがあり、これからの時代にはその「終わり」をいったん見てしまったあとの難しさがあるだろうというのだ。

 それに対して吉川は、マンガ『SLAM DUNK』の「諦めたらそこで試合終了ですよ…?」という有名な台詞に対して抱いてきたという小さな違和感を引き合いに出しながら共感を示した。「安西先生」がいうように、諦めた時点で試合が終了してくれるのなら、むしろある意味で楽な話だ。だが、実際の試合では永遠にも感じられる敗戦処理の時間を過ごさなければならない辛さがある。吉川はコロナ禍を勝ち負けの問題に還元することはできないとしつつも、その敗戦処理に近い辛さが「終わりなき終わり」にはあるのではないかと応えたのだ。

 

 他方で、大澤の「終わりなき終わり」に対する感覚は両義的なものでもある。大澤はこちらも有名な「江夏の21球」を引き合いに出して、「終わり」から希望の道が開ける可能性についても言及した。1979年の日本シリーズ最終戦で、江夏は9回ノーアウト満塁に追い詰められながらも奇跡の投球でチームを日本一に導いた。それと同じように、現在のグローバル社会にもコロナ禍という土壇場に追い詰められたときにしか出てこない逆転の可能性があるのではないかというのである。

 では、その可能性は具体的にはいったいなんなのだろうか。

世界からの問いかけに応え、問いを変質させる


 大澤は、コロナ禍によって生まれるポジティブな変化の可能性として、現在の資本主義の根幹にある私的所有の観念が変化することを挙げる。たとえば日本では、最初は政権内から反対の声もあった一律10万円の給付が結果的には認められた。ユニバーサル・ベーシック・インカムのようなアイデアとも親近性があるこの政策は、そもそもコロナ禍がなければあり得なかったものである。このように、その都度現れた状況に対応するために「ありそうもなかった手」を積み重ねていくと、結果的にこれまで当然のものとみなされてきた私的所有のような観念までもが相対化されていく可能性があるかもしれない、と大澤は指摘する。

 ここでのポイントは「あくまで目の前に現れた問題に対処していくうちにもともとあった問いの構造が変質していく」という、そのプロセスにある。将棋で自らの玉に王手をかけられたところから一手一手最善の手でかわしていくうちに勝機が見えてくるように、世界からの具体的な問いかけに応えてゆくことでそれを変質させ、潜在的にあった問題を暴き出すことが重要であると大澤は考える。この構造をより普遍的に体現するのが芸術である。芸術は一見なんの問題解決もしていないようでいながら、目的と解決の構造だけを取り出して提示することで豊かな美的体験を生み出すのだ(カントの「目的なき合目的性」)。

 

 吉川もこれに応えて、ヴィクトール・フランクル『夜と霧』における人生の意味の「コペルニクス的転回」と大澤の話の親近性を指摘した。人間はふつうは自分のほうから人生や世界になにを期待できるかを問うてしまう。けれど、収容所体験という危機的状況にあっては世界のほうから自分が問われる。フランクルが体験したそのような思考の転換に引きつけて今回のコロナ禍を捉えることもできるかもしれないと吉川はいう。

 イベントを締めくくるにあたり、大澤は夢の比喩でコロナ禍を語った。どんな強烈な夢でも、起きてしばらくしたらその内容を忘れてしまう。それと同じように、コロナ禍の意味は、いまのうちに全力でそれを言語化しておかないとすぐに忘れてしまうものなのかもしれない。コロナ後の世界を生きるためにも、われわれは思考を停止してはいけないのだ。


 イベントではこのほかにも、コロナ禍における接触忌避の風潮との関連で、『新約聖書』(『ヨハネによる福音書』)で復活後のキリストが言ったとされる「Noli me tangere(わたしに触れるな)」という台詞の持つ意味が語られたり、チンパンジーの鏡像認知(鏡に映った自分を自分だと認識すること)と成長過程での接触の関係を明らかにした実験についても話題が及んだりと、刺激的な展開がいくつもあった。約2時間半のあいだにそれらが詰まった濃密なトークの全容については、動画でぜひチェックしていただきたい。(住本賢一)

 

大澤真幸 聞き手 = 吉川浩満「ポストコロナ時代の民主主義、その可能性──パンデミックは社会と制度をどう変える/変わるのか」(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20200624/

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