ドン.キホーテ論──あるいはドンペンという「不必要なペンギン」についての一考察(下)|谷頭和希

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ゲンロンα 2020年7月27日配信

居抜きとドンキ


 山梨の名湯・石和温泉をかかえるJR石和温泉駅。ここから30分ほど歩くと、突然、モスクのような建造物が大きく視界に入ってくる。ドンキ石和店だ。

【図1】ドンキ石和店
 

 実はこの建物、かつて「元祖国際秘宝館石和甲府館」だったもの。性のテーマパークとしておなじみの「秘宝館」にドンキが居抜き出店をしたのである。

 ドンキ石和店についてはネット上でも多くの探訪記があるので、興味がある方はそちらをご覧いただきたい。ここで注目したいのはドンキの出店戦略の柱ともいえる「居抜き」だ。

 例えばドンキ那覇国際通り店は、日本建築界の大御所、安藤忠雄が設計した「那覇OPA」の居抜き店舗である。安藤忠雄が設計したドンキ……。そのアンバランスな響きには思わず笑ってしまいそうになる。このように、ドンキは各地の有象無象の建築物を居抜いてその出店を拡大している。今や、居抜き無しでドンキを語るのは難しい。しかし、このことはドンキにとってどんな意味を持っているのだろう?

欲望が思想に先行する


 都市商業研究所の佐藤庄之助によれば、ドンキの居抜き出店は「店舗によっては照明、昇降機などの内装設備や一部の什器をそのまま活用するため、建物を新築するよりも安い費用で店舗を拡大できるメリット」があるという★1。確かに、ドンキではエレベーターや什器類が居抜き前のまま残っている場合が多く、今あるドンキからかつてそこにあった店舗を想像することもできる。内装だけでない。外観においても、かつての雑居ビルの外観を残しつつ、そこにドンペンと「ドン.キホーテ」という看板を取り付けただけの店舗も散見される。

【図3】MEGAドンキ立川店。元々はダイエーだったビルにドンキの看板とドンペンを貼り付けた
 

 いずれにせよ、居抜きの最大のメリットは、出店コストを最小限に抑えられることにある。その意味において居抜き出店はドンキにとって非常に合理的な手法なのであろう。

 同時に忘れてはならないのは、ドンキは小売店であり、居抜き戦略は経営コストを最小限にすることにおいて、資本主義的な目的に適っているということだ。そして「資本主義に適う」ということが、今まで私たちが語ってきたドンキの店内を形作っていることは強調してもし足りない。

 なぜドンキは土地ごとに異なる外観や内装を持つのか。それは街ごとのニーズを捉えて、より儲けるためである。ドンキはそうした「儲けたい」という欲望を徹底することで経営を行う。極端ともいえる居抜き戦略には、ドンキを支える資本主義的な欲望がはっきりと顕れている。
 ここまでの論考で、我々はドンキというチェーンに、ヴェンチューリやアレグザンダーなどとは異なる建築・都市原理の可能性を読み取り、その象徴としてドンペンを考えた。しかし、ドンキはそのように「意図して」ヴェンチューリやアレグザンダーの乗り越えを図ろうとしたのではない。むしろ、それは今確認した通り、資本主義的な欲望がそれぞれの土地に最適化された結果として「自然に」生み出されたのである。ドンペンも同じで、このオブジェは「目立ちたい」から置かれたに過ぎない。ドンキでは、欲望が思想に先行しているのだ。

 資本主義の欲望を徹底的に顕在化させることが、結果として現実の複雑さを反映させた多様な店舗を生み出し、既存の都市・建築論では語りえない複雑な状態を作ったのである。

ドンキ的な資本主義のルートへ


 さて、中篇の最後で私たちは、権限移譲によって多様性が生まれるドンキのシステムをさらに鮮明にすることを後編の課題とした。そのシステムとして、私たちが今見たような極端な居抜き戦略に代表される資本主義の徹底化を挙げることができるだろう。ドンキが地域に密着し、地域固有の姿を生み出すのは、「儲けたい」という資本主義を徹底化させた結果である。しかし、こういいきると、多くの反論が挙がるかもしれない。そもそもグローバルな資本主義を徹底させた結果として、世界各地で生活スタイルや風景の均質化が起こり、そうした生活の全面的な均質化は多くの論客から批判に晒されてきたのではないか、と。

 たしかに、資本主義は世界に均質化を呼び起こす。だがここまで見てきたのは、ドンキが資本主義の徹底によって、むしろ地域の現実に裏打ちされた多様性を世界にもたらしているということだった。

 つまり、資本主義の徹底化には、ドンキ的なものとそれ以外の、2つの異なる道があるのではないだろうか。だとすれば、ここで私たちが考えるべきなのは、資本主義がドンキ的なルートへ分岐し、多様性に開かれるための条件を考えることだろう。

 そしてここでまた、ドンペンが登場する。ドンペンは、その条件も知っているのである。中篇の最後で書いた問いがそれと密接に関係する。

 なぜ、ドンペンはペンギンなのか。

 皆さんはこの一連の論考の最初で、ドンペンを「ラテン語の『肥満』という言葉が語源のペンギンらしく、ドンキにとっては余分な贅肉のようにさえ思える」と書かれてあったことを覚えているだろうか。肥満であること、それは贅沢であることだ。そしてこの「贅沢であること」こそ、ドンキが資本主義の分岐において、今までとは異なるルートを辿った理由だと思うのだ。

 どういうことか。

 多くの人は、先ほど私たちが述べた居抜き戦略などは贅沢さに反すると思うだろう。先行する建物に合わせ、限られた状況の中で店舗を作る居抜きは「もったいない」的な質素倹約の思想と同じではないか、と。確かに一般的な意味でいえばそれは贅沢とは対極にある行為だろう。しかし、ここでいう「贅沢」は倹約とは矛盾しない。この、通常の意味とは少し異なる贅沢さを考えるために、建築と資本主義について突き詰めたレム・コールハースの言葉を参照したい。

谷頭和希

1997年生まれ。早稲田大学教育学術院国語教育専攻に在籍。国語教育学を勉強しつつ、チェーン店やテーマパーク、街の噂について書いてます。デイリーポータルZにて連載中。批評観光誌『LOCUST』編集部所属。ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾3期に参加し、『ドン.キホーテ論』にて宇川直宏賞を受賞。
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