「新しい蛮族」と私たち──東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて(6)|劇団ボノボ(パブロ・マンシ/アンドレイナ・オリバリ)

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ゲンロンα 2020年11月6日配信
 東京芸術祭ワールドコンペティション関連企画「コロナと演劇」第6回は、現在チリ演劇界でもっとも力ある若手劇団のひとつとして注目される、劇団ボノボから届いたメッセージだ。
 劇団ボノボは2012年、チリで創立。パブロ・マンシとアンドレイナ・オリバリの2名が共同ディレクターとして全作品を共同演出してきた。昨年(2019年)、東京芸術祭ワールドコンペティション2019で観客賞を受賞した『汝、愛せよ』は、地球外生命体が数多く地球にやってきた近未来の世界が舞台である。作中では、彼ら、地球外生命体への差別的な対応も珍しくないなかで、チリの医師たちが「いかにして差別を克服するか」をテーマにブラックユーモアあふれるディスカッションを展開した。ブラジルの演出家・アウグスト・ボアール(1931-2009)は、演劇の浄化作用(カタルシス)を否定し、観客とともに社会的課題の解決をめざすことを演劇の役割であると考えたが(『被抑圧者の演劇』)、ボノボのディスカッション演劇はこうした中南米演劇の系譜にあると言えそうだ。
 本作は東京芸術祭2020にて、東京芸術劇場での映像上映とオンライン配信が行われる。読者の皆さんも、ぜひディスカッションに参加してみて欲しい。
 パブロとアンドレイナはコロナ禍のチリを襲うさまざまな困難を見つめながら、『汝、愛せよ』でも追求した「蛮族」というテーマと改めて向き合う。「暴力はなぜ生まれるのか」という問い──それは今、より一層緊迫したリアリティをもって私たちの前に立ちはだかっている。
 
 新型コロナウイルスが世界や我が国チリに到達する前、民主主義や自分たちの演劇活動や創造と芸術をどう考えるかについて、カンパニーとして思慮を重ねてきていました。私たちの場合、創造という文脈で考えると、まずは制作状況について思考せざるをえません。と同時に、劇団において創造活動をしようとすると、現実的な情勢、つまり現実に引き裂かれて危害を被った些細な事柄と対話をすることになります。

 集団として課題に取り組もうとするたびに、新たな意味づけを与える演劇の構想について考えます。このような見解に至ったのは、創造的プロセスにおいてコミュニティと対話する際に、一見不動な社会的意味を変えられる可能性があることに気づいたからです。ここからわかったのは、自分たちの作品において出来事という概念が重要だということです。それを偶然起こったものと理解することもできますし、過剰な正常性の結果現れて、人々の生活の中で炸裂してしまうものとも理解できます。後者の場合、名付けることも即座に意味づけすることもできない宙ぶらりんな空間(場)を生み出します。作品づくりの際に考えるのは、普段の生活の中で行動する際に身に着けるヘゲモニー的「ヴェール」と矛盾することを可能とするそのような出来事の到来についてです★1。結果として、私たちは不快を感じ、道徳的・倫理的に宙ぶらりんな状態に置かれます。そして、危機の到来、つまり予期もしなかった出来事がなければ見えなかったであろうその何かに、新しい意味づけをする可能性をもたらしてくれるのです。

 演劇とは、自分たちを窮地に立たせ、新たな社会的意味づけを行う空間であると私たちは理解します。演劇においては、亡霊のように現れる何か、死んでいたと思っていたのに動き回り、私たちにとっての起こりうることの認識を変えてしまうような何かを集団として再び見ることができるのです。つまり、先述のヘゲモニー的ヴェールである正常性の認識とぶつかる、動揺させるような経験や出来事に基づいて、私たちの日常で力を発揮する政治的・社会的対立は演劇において新たな意味を獲得できるということです。

『Tú Amarás(汝、愛せよ)』ディベロップメント。Baryshnikov Arts Centerレジデンス(ニューヨーク/アメリカ合衆国)2017年 撮影=Maria Baranova
 

 もちろん、出来事の急襲は演劇のようなフィクションの一部を占めるだけではなく、それが常に普段の生活でも起こっているのではないかと考えることもできます。それは一種の中断を意味し、そこではそれまでの正常性と整合性のあった表象は崩れ去ってしまうのであって、だからこそ、生活のための、社会的で新たな意味づけをする空間(場)を開くことは避けられないのです。

 

 ここ数ヶ月間、底知れず不確実な時を過ごしてきました。今もそうです。宙ぶらりんな時。「わからない」といって黙っているのが好都合な時。と同時に、ずっと空白状態でいたかといえば嘘をついていることになるでしょう。芸術業界における経済状況の複雑さは、国内の他の業界と同様に、気がかりであることは確かです。劇場、映画館やその他文化や芸術の発展に欠かせない空間の閉鎖を、身をもって体験しました。その一方で、今日、パンデミックの到来前よりさらに深刻な困窮状態に置かれている芸術業界で働く人々の価値を認めるべきだという声があがり、支持が広がりました。いわゆる「芸術的」制作から、具体的条件を区別するのは困難ですが、これが起因となり、生き残りをかけて新たな課題、新たな演劇形式、例えばヴァーチャル演劇が生まれました。

 もちろん、それは創作し続けるための新たな刺激となりましたし、チリの中央集権体制のせいでこれまで演劇にアクセスできなかった別の観客にアプローチする可能性をもたらしました。とはいえ、私たちはカンパニーとして、起こったことに対していまだ宙ぶらりんの状態にあり、いまだ対面の空間で上演を実現させたい、劇場でコミュニティと出会い分かち合いたいという考えに、思いをつのらせています。こう思うのは、劇場が、私たちが常にそこで作業していた慣れ親しんだ場であったからかもしれません。それにヴァーチャルでの体験と劇場でのそれは全く別物だと考えるからでもあります。これに関してはいまだ答えの得られない疑問が多くあります。

『汝、愛せよ』、東京芸術祭ワールドコンペティション2019における上演より 撮影=Maiko Miyagawa
 

 多くの疑問、疑念のあるこの状況下において、私たちの頭の中には新たな問題が出現しました。数年前から、蛮族という概念について取り組んできています。「ポリス」(都市)の外に住むよそ者。私たちが注目したことの一つは、西洋文化において蛮族と呼ばれる者の多くは、そうした存在が生み出す恐怖や暴力が具体的な生活に影響を及ぼすにもかかわらず、むしろ神話の領域に存在するということでした。この、半分は空想で半分は実在のよそ者をそれぞれのコミュニティが持っていたことは、社会の内的構造やコントロール戦略を物語っています。しかし、そこで根本的に明らかになるのは、誰を政治・社会的中心に据えるかということでしょう。従って、蛮族を作り上げることは、一般市民に対して根本的に対立する象徴的なものを作ることになるということに関して、私たちは特に注目しませんでした。というのも、一般市民というものは、ポリス(都市)の関心を中央の舞台に祭り上げる特徴を有しているからです。

 

 これまでの諸作品では、蛮族の生み出す苦悩、居心地の悪さ、家父長的思考、関心や恐怖、そして自由民主主義というプロジェクトにおいて蛮族はどう新たに形づけられるのかをリサーチしてきました。今日この頃は、このウイルスの時代に蛮族がどう形づけられるのかということに考えを巡らせています。

 実際のところ、多くの場合、そもそも蛮族たちは都市から疎遠な者ではなかったのではないか、反対に、権力争いの中で、人間の条件を剥奪された者なのではないか、ということについても考えています。蛮族は都市の中にいながら都市の外にいます。これは、思うに、暴力をいかに理解するのか、そして、「惰性的な」なりゆきから、これまで正常と考えられてきたことが誰の上に降りかからざるをえないのかということと直接関係があります。こう考えると疑問は再び「私たち」に跳ね返ってきます。民主主義的な新しい「私たち」は、どのような都市を建設しようとしているのでしょうか?
 
 このことは、近年のチリの民主主義に起こったように、民主主義を構築しようとした夢に亀裂をもたらし、民主主義的な言語を用いて蛮族として固定化され、疎外され、排除された人たちをいかに作り上げてきたのかという疑問を残します。自由民主主義がこのような暴力的関係を固定化することに共感を覚える形態であるとわかると、このことはさらに曖昧になります。様々な社会集団間の避けられない対立関係を軟化させ、正常化させるのにいかに民主主義的言語は役立つのかという点で、チリは良い一例でありましょう。だから私たちは自問するのです。本当に現在の民主主義思想は、「蛮族」に対する疎外、不平等といった関係性を変えようとしているのだろうか? あるいは逆に、民主主義的に生きるとは、このような暴力的関係性を彼らに共感を覚えながらも受け入れることだと内面化してしまったのではないか? このような「他者」への共感は、本当にその地獄を変えようとしているのか、あるいはそれは単に地獄を作りだし永続化させるもっとも平和的な手段なのではないか?

 

 数ヶ月前、日常がウイルスに襲われる前に、チリは「蛮族」に襲われました★2。蛮族は都市の中心部に出現し、日常を引き裂いたのです。明らかに、彼らの存在によって数ヶ月間、私たちは居心地の悪さを味わいました。公共メディアは当初、あたかも地獄の門が開かれたかのように、単なる悪夢であると、この出来事を扱いました。興味深いのは、野蛮人、狂人、犯罪者、蛮族として扱われたよそ者の顔は、見慣れた顔つきをしていたということです。ここからまた疑問が生まれます。このような人々の多くは本当に蛮族なのか、それとも一般市民なのか? 謎に満ちたよそ者なのか? 一般市民と呼ばれているけれど市民としての権利を持っていないのか?

『Donde Viven los Bárbaros』(蛮族が住んでいる場所) 2015年初演 提供=劇団ボノボ
 

 近年、私たちがカンパニーとして認識してきたのは逆説的な推移でした。城壁外に住む蛮族を恐れる都市から、一般市民を権利のない奴らだと決めつけて、蛮族をつくりあげてしまう都市への推移です。日に日に生活は不安定となり、常に危険に晒された彼らは、都市やコミュニティから離れざるをえません。このような「新しい蛮族」、蛮族に仕立てられた一般市民の生活では、暴力や疎外、その日暮らしをしているという感覚が常態と化してしまいました。

 チリでは、たいてい、このような推移はしばしばごく自然に平和裏に行われ、その結果、民主主義的な都市が建設されます。このことによって、当然、都市に断絶が生じます。なぜなら彼らには市民権が付与される約束がなされていないからです。住んでいる町からなぜ自分は追放されなければならないのか? 自分のあらゆる労力、時間を捧げ、町を作り、義務を守り、法を遵守し、地形を受け入れてきたのに? なぜ自分がつくりあげてきた町で蛮族として、何の権利もないよそ者として扱われるのだろう? こういった努力がすべて撥ねつけられるようでは、市民権を付与されるどころの問題ではありません。こういったことが不満や怒り、妬み、憎悪を生まないと考えるのであれば、疎外された集団は人権を持たないと認めるのと同じです。このことから、共感、包摂、保護、平和といった概念を通して、新たな民主主義の言語が、ある意味いかに矛盾しながら、避けられない社会的対立を不可視化し分断化してきたのか、私たちは自問しています。

 

 ここに見られる二分法は新しい民主主義的言語のそれであり、護符のような機能を持っています。この二分法は、都市のより抜本的な推移を支援または延期する手段として、あらゆる蛮族的存在を分類し、名付け、注目する言語行為です。この枠組みでは、「ポリス」(都市)の洗練された言語から逸脱した尊厳を要求する行為は皆、非民主主義的な暴力として解釈されます。このことは、現在の新たな民主主義的文脈における、両義的で、包摂的で、多元的なあらゆる言語行為を問題視することを可能とします。

 蛮族を保護し配慮しようとする民主主義的願望が、彼らを疎外し、周縁に押しやり、最終的に象徴的でかつ具体的な暴力がこの集団に振りかざされるがままに仕向けようとする願望と同じであることがありえるでしょうか? 蛮族が権力闘争の中で蛮族化を強いられた一般市民であることにつけ加えるのであれば、このことは「私たち」、つまり民主主義の価値観を信じる一つの都市、然るべき時には悪夢のように亀裂が走る都市に関心を持ってきた私たちのプロジェクトで絶えず議論されてきたのだとも言えるでしょう。このような悪夢の亀裂は何度も埋め戻そうとされるものです。

 



得体の知れないウイルスに襲われて、私たちの日常や働き方は完全に変わってしまいました。そして、確かにそれは国内の日常を決定的に変えてしまった出来事ではありました。しかし、数ヶ月前、チリ国内の諸都市の中心部で起こった疎外された集団の爆発により、私たちの正常な日常生活という考えはすでに危機に瀕していたと言えるかもしれません。今回のパンデミックでは、それが再現されたのです。つまりこのパンデミックでの様々な経験を通して、本当の一般市民とは一体誰なのかという問題が私たちに差し戻されたのです。都市文化とはかけ離れた奇妙なウイルスは、私たちにとってかなり馴染みのある論法に入ってきたのです。日常的な暴力という形を取り、私たちの国ではすぐに身近なものとなったのです。

 このようなことを最近考えています。正常な者が、今度は悪夢として再登場したのです。本当に守りたいのは何なのかを考えさせる大きな亀裂として。(2020年9月10日)

翻訳=田尻陽一、仮屋浩子
構成=石神夏希、ゲンロン編集部

★1 ヘゲモニー的ヴェールは、アントニオ・グラムシのヘゲモニー(覇権主義)の概念に基づいた、著者による造語。「覇権主義」とは一般的に、強制的な支配ではなく、合意に基づいた支配を意味する。ここでは支配層の世界観、信念、モラル、認識、制度、価値観、習慣等が、その社会の文化的基準や主要なイデオロギーとして受け入れられている状況を指す。またそういった社会的・政治的・経済的な現状が、支配層だけが利益を得るだけの社会構造としてではなく、自然で必然的なものとして正当化されている、という指摘も含まれる。著者は「ヘゲモニー的ヴェール」という言葉を通じて、この社会に生きる人々が、まるで「ベールを通して」彼ら自身や他者を見ているかのように、支配層によって押しつけられた信念や価値観、規範を通して、自分の人生や他者との交流を理解している、と述べているのである。
★2 著者によれば、ここでの「蛮族」(英語ではBarbarian)とは、2019年10月、サンチアゴで発生したデモに尊厳と社会的権利を求めて参加したすべてのチリ市民を指す。本来Barbarianは古代ギリシャにおいて、「ポリス」(都市)に属さなかったひとびとを意味した。デモに参加したチリ市民たちは、自分たちがまるで市民ではなく「蛮族」であるかのように、自分自身のまちから排除されているように感じていた、という著者の認識が表現されている。
 
【特集】コロナと演劇公開日
宮城聰ロングインタビュー──東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて(1) 演劇人としてのあゆみ|宮城聰2020年9月11日
宮城聰ロングインタビュー──東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて(2) だれのための演劇か──公立劇場ができること|宮城聰2020年10月2日
宮城聰ロングインタビュー──東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて(3) 演劇は「不要不急」か?|宮城聰2020年10月16日
これは私たち共通の物語──東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて(4)|戴陳連2020年9月25日
暗闇のなかの演劇──東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて(5)|ブレット・ベイリー2020年10月9日
「新しい蛮族」と私たち──東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて(6)|劇団ボノボ(パブロ・マンシ、アンドレイナ・オリバリ)2020年11月7日
東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて(7)|レミ・ポニファシオ(ニュージーランド)2020年11月中旬公開予定
*「コロナと演劇」第7回として掲載予定でしたレミ・ポニファシオ氏による寄稿は、事情により掲載されないことになりました。お待ちいただいた読者のみなさまにお詫び申し上げます。(編集部)  
【東京芸術祭ワールドコンペティション】
ウェブサイト:https://tokyo-festival.jp/

主催:東京芸術祭実行委員会[豊島区・公益財団法人としま未来文化財団・フェスティバル/トーキョー実行委員会・公益財団法人東京都歴史文化財団(東京芸術劇場・アーツカウンシル東京)]

東京芸術祭ワールドコンペティション2019年度受賞作公演

「東京芸術祭ワールドコンペティション」は、2019年から新たに始動した、東京芸術祭のプログラムです。昨年度はコンペティションを開催し、アジア、オセアニア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカの5地域と日本の推薦人により選ばれたアーティストが東京に集い、6つの作品を発表しました。最終日には、舞台芸術を評価する新たな「尺度」をめぐって審査員たちによる白熱した議論が交わされ、2作品が受賞作に選出されました。

 今年は、本コンペティションで最優秀作品賞を受賞した、戴陳連ダイ・チェンリエン[北京、中国]による『紫気東来―ビッグ・ナッシング』と、観客賞を始め多数の賞を受賞した、ボノボ[サンティアゴ、チリ]による『汝、愛せよ』の2作品を映像上映・映像オンライン配信の形式でお届けいたします。「2030年代に向けて舞台芸術の新たな価値観を提示し、その提示方法が技術的に高い質を持つ」と評された作品を、改めてご覧いただく貴重な機会となります。この1年、大きな社会の変化を経て上演される作品が、皆さんの新たな議論のきっかけとなれば幸いです。

<映像上映>
料金:前売り・当日 1演目500円

『紫気東来−ビッグ・ナッシング』
演出・出演・舞台美術・照明・音響プラン:戴陳連/北京、中国
日時:11/6(金)-11/7(土)13:00/16:00/20:00
   11/8(日)13:00/16:00
会場:東京芸術劇場 シアターイースト
関連記事:【特集:コロナと演劇】これは私たち共通の物語──東京芸術祭ワールドコンペティションにむけて(4)|戴陳連
https://webgenron.com/articles/article20200925_01/

『汝、愛せよ』
作:パブロ・マンシ/演出:アンドレイナ・オリバリ、パブロ・マンシ(ボノボ)/サンティアゴ、チリ
日時:11/6(金)-11/8(日)17:30
会場:東京芸術劇場 シアターウエスト
トレイラー:https://www.youtube.com/watch?v=agfclxD0Nmw
※ソーシャルディスタンスを保ち、客席数を減らした状態で開催します
※未就学児童の入場不可

<映像オンライン配信>
料金:1演目500円

『紫気東来−ビッグ・ナッシング』
演出・出演・舞台美術・照明・音響プラン:戴陳連/北京、中国
日時:11/6(金)-11/8(日)13:00

『汝、愛せよ』
作:パブロ・マンシ/演出:アンドレイナ・オリバリ、パブロ・マンシ(ボノボ)/サンティアゴ、チリ
日時:11/6(金)-11/8(日)17:30

※映像上映と同じ内容となります(当日24:00まで視聴可能)
※『紫気東来−ビッグ・ナッシング』の戴陳連によるレクチャーパフォーマンスも無料配信予定

 各プログラムの詳細およびチケット情報などは、東京芸術祭ワールドコンペティションのウェブサイトをご覧ください:https://worldcompetition2020.tokyo-festival.jp/

劇団ボノボ(パブロ・マンシ/アンドレイナ・オリバリ)

2012年にチリで劇団ボノボを創立。共同ディレクターとして全作品を共同演出してきた。パブロ・マンシはアカデミア・クラブ・デ・テアトロで演技を学んだ後、俳優として児童青少年演劇の劇団ラ・マラ・クラセ(「悪い教室」)に参加。劇作家としては、『野蛮人たちの住むところ』でサンティアゴ市より最優秀劇作賞を受賞。2017年には、ロンドンのロイヤル・コート・シアターで滞在制作を行い、『ファイト・アゲインスト』を執筆。2020年に同劇場で初演の予定。アンドレイナ・オリバリは、ラテンアメリカ文学で学士号を取得するとともに、同じくアカデミア・クラブ・デ・テアトロにて学んだ。俳優、ドラマトゥルク、教育者として活動するかたわら、チリの劇作家イシドラ・アギレに関する演劇リサーチプロジェクトを展開している。https://www.facebook.com/bonoboteatro/
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