哲学にも「気合」入れていかなあかんわ 國分功一郎×東浩紀「哲学にとって愚かさとはなにか──原子力と中動態をめぐって」イベントレポート(関西弁ver.)

ゲンロンα 2020年11月7日配信

 國分さんと東さんの対談はやっぱめっちゃおもろかったな。じつは、もともと今回のイベントレポートは試しに関西弁で書いてみいって話もあったんやけど、蓋あけてみたらさすがにこのガチイベントをオール関西弁でまとめるのはどうなん?ってことになったねん。
 せやから絶対にしとかなあかん話は関東弁のほうでまとめたけど、せっかく乗りかかった船ってことで関西弁でもレポート書かせてもらうで。向こうでは拾えんかった「哲学・思想の意義」みたいな話を中心にお届けするから、B面か副音声みたいな感じで楽しんでもらえたら幸いや★1。(ゲンロン編集部)

 

哲学への欲望はランダムに生じる

 関東弁のレポートでも書いたとおり、イベントではとくに前半でかっちりした突っ込んだ話がたくさんされて、めっちゃ有意義やった。でもおもろかったんはそれだけやなくて、後半のお酒が入ってリラックスした感じで進んだトークもいい感じやった。

 まず、後半の最初のほうで國分さんが言うてた「戦後の人びとの知識に飢えてる感じ」の話が印象的やったな。

 

 國分さんはさいきん、田中美知太郎っていうプラトンとかを研究してた昔の偉い学者さんについての文章を書いたらしい(12月に講談社学術文庫に入る『古代哲学史』の解説なんやって)。國分さんが言うてたのは、田中美知太郎は古代ギリシア哲学の研究なんてむずかしそうなことやってたのに、ぜんぜん大学に閉じてない活動をしてたってことやな。國分さんは解説の文章書くためにいろいろ調べたらしいんやけど、そのときに感じたのが、敗戦を経て戦後の時代に生きてたひとらが「なにがほんまのことなんか知りたい」っていう知への渇望をめっちゃ持ってたこととか、それが田中美知太郎の姿勢を引き出してたっていうこと。國分さんはそれに感銘を受けたんやって。

 そこから翻って考えると、いまの時代は大学でやってるような哲学の話が大学関係者以外にはぜんぜん必要とされてない感じがして、どうしたらええんやろって國分さんは言うてた。

 東さんはそれに対して、いまの時代でも知への渇望みたいなものはぜんぜんあるでって返してた。ゲンロンみたいな会社やってたらほんまにいろんなお客さんが来るから、「哲学的なことを考えたい」って欲望は職業とか地域とかに関係なくランダムに生じるものなんやってことを東さんは日々実感してるらしい。たとえばバリバリの現代思想の話なんて、東京の頭よさそうな大学生とか大学の先生がむずかしい言葉こねくり回してするもんやって思うひともおるかもしれんけど、それこそゲンロンにはふつうの企業に勤めてはるひとも来るし、地方から中継見たり反応かえしてくれるひともようさんおるんやって。

 國分さんはこの東さんの話にもかなり感銘を受けてるようやった。こういう熱いところが國分さんの素敵なところやな。考えてみたら、もともと國分さんにもそういう田中美知太郎的な姿勢があるからこそ、國分さんの本は多くのひとに読まれてるんやと思う(さいきん読んだネット記事で、自分が好きなお笑い芸人のオードリー若林が『暇と退屈の倫理学』の話してるのを見たときは「さすが國分さんやな」と思ったわ)。

やっぱ「気合」入れてかなあかんな

 この話は、イベントの最後のほうで出てきた「気合」の話にも関わってくる。要は「いまの日本のインテリは気合入ってへんからあかんのちゃう?」って話なんやけど、これだけやったらなんのこっちゃわからんやろうから、もうちょい説明するわ。

 気合の話が出てきたんは、『ゲンロン10』や『ゲンロン11』にも寄稿してる韓国の学者、イ・アレックス・テックァンの話になったところや。

 イさんは國分さんとも東さんとも旧知の仲で、世代もかなり近いひとや。でもふたりがイさんとの交流のなかで感じるんは、おなじ時代を歩んでても見えてるもんがぜんぜんちがうってことらしい。韓国は80年代まで軍事政権やったから、そこで現代思想を選んで学ぶってことの重みがちがったんやな。なんてったって、憲兵が教室のうしろに立ってるような時代に「危ない思想」学ぶわけやからな。

 それに比べると、日本で80年代に現代思想が流行ったときは消費社会のなかのブームって感じが強かった。その軽さはいまにも通じてて、日本の学者は政府に反対したとしても、「結局は国の金で養ってもろとるひとらやろ」って目で見られてもしゃあないくらいのことしかできてないって東さんは言うてた。これには國分さんも同意してたわ。

 気合の話は、関東弁レポートのほうで書いた「欲望」のこととも関わってくるかもしれん。

 國分さんはラカンっていうフランスの精神分析家の「欲望をあきらめへんのが倫理ってもんやで」って言葉を引いて、もしかしたらこれは気合の話なんちゃうかって言うてた。

 あと、國分さんがなんとなく感じてるとこでは、欲望の話は中動態とも関係してるらしい。さらに言うとそれはフェリックス・ガタリっていうこれまたフランスの精神分析家が言った「集団(性)collectivité」って概念とも関係してるかもしれんのやって。東さんも、ガタリは当時の具体的な運動のなかでいろんなひと同士をつないで活躍したひとやから、その言葉には重みありそうやなって言うてた。気合は集団で伝播していくもんやから、他者性とも関係しそうやとも言うてたわ。

 つまりめちゃくちゃ乱暴に言うたら、気合=欲望=集団性=他者との協働みたいな感じやろか。気合はひとりで入れるもんやなくて、お互いの顔が見える仲間と刺激を与えあって生み出していくもんなんちゃうかっちゅう話やな。

 

原子力と中動態をめぐって(B面)

 そういう観点からみておもろい話は、じつは前半のかっちりパートでも随所でされてた。

 たとえば、東さんが今回の「悪の愚かさについて2」で取り上げてたドイツの哲学者、ギュンター・アンダースの話なんかもそうや。

 アンダースの話は、國分さんの原発と中動態の話に対する反論として出されてた(詳しくは東さんの論文読んでな)。でも、國分さんはアンダースの議論は単純な「疎外論」に寄りすぎてるからどうも評価できへんって言うてた。疎外論いうのはかんたんに言うたら「資本主義とか科学技術が進みすぎて人間が人間らしく生きられへんようになってるんちゃう?」って話やけど、これも詳しいことは國分さんの『原子力時代における哲学』に書かれてるから、そっち読んでみてや。

 じつは、この「アンダースはちょっと単純すぎるとこがある」っていう意見には東さんも同意してた。「悪の愚かさについて2」では、アンダースの言うてることの可能性を限界まで引き出すようにして使ったってことらしい。アンダースは、ハンナ・アーレントとかハンス・ヨナスっていうのちのスターみたいな(?)哲学者と近いところで学んだひとなんやけど(ていうかアーレントの最初の夫やけど)、どっちか言うたら反核運動の活動家の側面が強かった。広島に原爆落としたパイロットと往復書簡をして本にしたのはわりとうまくいったらしい。けど、そのつぎにアイヒマンの息子とも往復書簡をやろうとしたのは完全にシカトされたらしくて、ちょっとピントがずれたとこもあるひとやったんちゃうかっちゅう話やった。

 でも、いまの大学で「研究」の対象になったりもするアーレントとかヨナスの哲学の傍らにちゃんとそういう試みの裾野があったってこと自体に、哲学と社会がリアルにつながってた時代みたいなもんを感じんこともないよな。アンダースもアーレントやヨナス見て気合入れてたんかもしれんし、その逆もあったかもしれん。

「シラス」限定延長戦の模様

 と、ここまでつらつら書いてきたけど、じつはB面的に一番おもろかったんは「シラス」限定で放送された一時間延長の部分やったかもしれん。

 延長戦では、東さんが独自の放送プラットフォームつくろうと思った裏にはロバート・オーウェンとかの空想的社会主義からのインスパイアがあったっていう話から、國分さんがじつはかつて小室哲哉に憧れるキーボーディストやったっていう経歴や生い立ちにまつわる話、東さんがむかし留学準備したときに経験したことやそこから感じたことの話まで、いろんな話がされた。ほかにもたとえば、ひとが家族や親密なひとと会える時間って意外なほど限られてて、それを考えたら人間関係っていったいなんなんやろなっていうえらい深い話もあった。東大の先生とゲンロンの経営者っていうそれぞれの立場のちがいに触れつつも、お互いへのリスペクトが随所に見られる対話やったわ。

 ひとつひとつの哲学の裏には当たり前やけどそのひとが歩んできた人生や生活があって、だからこそひとは哲学をとおしてわかりあったりつながりあったりすることができるんかもな。

 

 とか調子に乗ってかっこつけたことまで言い始めたわけやけど、冷静に考えたら延長部分の話あんましすぎるとシラスの番組アーカイブ買ってもらえん気がしてきたし、このへんでやめさせてもらうわ。結局こっちでも拾えんかった話もめっちゃようさんあるし、あとはシラスで買って見てや~。(住本賢一)

 

★1 関西弁でもの書くいうたら「まじめにやれよ」って思うひともおるかもしれんから一応言うとくけど、これはそこまでふざけた試みでもない。たとえば戦後の関西知識人ネットワークの中心人物やった民族学者の梅棹忠夫ってひとは、1954年に「第二標準語論」って論考を書いてる(『あすの日本語のために』って本に入ってるで)。かんたんに言うと、関西人は関東弁つかおうとしたらめっちゃ窮屈な思いせなあかんのに、標準語が関東弁ベースのやつしかないんはおかしいんとちゃうかって話や。梅棹さんがおなじ年に書いたべつの文章では、関西のラジオは関西弁で放送したらええし、関西の新聞、雑誌、本、教科書はぜんぶ関西弁で書いたったらええねんって話もされてる(「いかが関西語版」、同書所収)。
 ほかのひとの話も入れとくと、明治期に文学の分野で言文一致を推し進めた二葉亭四迷は、その文体をつくるために三遊亭圓朝の落語と「べらぼうめ」みたいな感じの深川言葉ってのを参考にしたらしい(「余が言文一致の由来」)。もし日本の近代文学を創始したサークルが関西にあって、二葉亭が上方落語を参考にして文体つくってたら――そんなこと想像しながらレポート読んでもらってもおもろいかもしれん。

 

 シラスでは、半年間アーカイブを公開中(税込880円、延長分は165円)。ニコニコ生放送では、今後の再放送の機会をお待ちください。

國分功一郎×東浩紀「哲学にとって愚かさとはなにか──原子力と中動態をめぐって【『ゲンロン11』刊行記念】」
(シラス番組URL=https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20201027
(ニコ生番組URL=https://live.nicovideo.jp/watch/lv328529439

 

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