ゲンロン新芸術校 第6期グループA展「かむかふかむかふかむかふかむかふ」レポート|金子弘幸

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ゲンロンα 2020年11月20日 配信
 2020年9月13日(日)~9月20日(日)、ゲンロン新芸術校第6期グループAによる展覧会「かむかふかむかふかむかふかむかふ」が開催された。参加作家は、川﨑豊、圡金、堀江理人、松岡湧紀、宮野かおり、宮野祐の6名。加えて、新芸術校CL(コレクティブリーダー)課程より、金子弘幸、中村馨がキュレーションを担当した。展覧会の指導は、堀浩哉氏、和田唯奈氏に担当していただいた。

 本年は新型コロナウイルスの感染拡大に加え、新芸術校としては途中での講師変更という特殊な環境下で授業が進行した。そのため、第6期として初の対外的な作品発表となる本展は、大きな緊張と不安の中で開催を迎えることとなった。

 タイトルに用いられた『かむかふ』は、小林秀雄が本居宣長の論を敷衍する形で述べた「考える」の古い形である。「か」に特別な意味はなく、「む」は身、「かふ」は交わることで、現代の私たちが普段用いている「考える」よりもフィジカルなニュアンスを伴い、対象を理解するためには身を以って相手の親密な関係に入り込む必要があるとしている。今回出展したグループAの作家は共通して、自分と似ているようでいて異なる他者やその信条・価値観を、なんとか理解しようとする試みをテーマとしていた。

展覧会場の風景1
 

展覧会場の風景2
 

 川﨑豊による《正しさの巨人(赤/青)》と名付けられた大きな人型オブジェは、天井ぎりぎりの高さから鑑賞者を見下ろす。初見ではその大きさと上から見下ろされる構図に恐怖を覚えるが、それと向き合い、赤青の中に穿たれた3つの暗闇を見続けるうちに、もしかしたら恐怖しているのは巨人側ではないか、とも思えてくる。身体中から突き出る粘土片も、抑圧的な巨人を想定すれば怒りの発現に思われるが、一方まるでガラス片が全身に突き刺さっているようにも見え、大変痛ましくも見える。もしかするとこの巨人は、こうした強者/弱者、加害/被害、怒り/怯えといった二面性の間にいる存在として認められるのではないだろうか。また、そんな彼をその高さにのし上げているのは、見るからに不安定そうな木製の台で、その立場がいかに危ういかを表しているかのようでもある。

川﨑豊《正しさの巨人(赤/青)》
 
 圡金が今回展示した作品は、近年、エイリアンをモチーフに制作を続けてきた圡金による集大成的な作品であり、同時に、圡金がエイリアンの先にある関心を見出す契機となった作品群でもある。その萌芽として、画面に描かれた四角い窓枠やビニールに描かれた黒い丸が登場する。《ワームホールウィンドウ》に描かれた大きな黒い丸は、空間を歪めて遥か遠い地点同士を繋ぐワームホール、そしてそこにわずかに入れられた裂け目に、それを潜り抜けて "向こう側に行きたい" と願う圡金の切実な思いが見て取れる。一連の作品を見るとエイリアンの姿に目が行きがちであるが、その実、これらの作品はこうした周縁モチーフにこそ意味があり、エイリアンは一時的なゴールに立つ単なる旗印に過ぎない。その間に横たわる隘路をどのように越えて「向こう側」に近づくか。圡金の美学の本質は、この関係性の探求にこそあるのではないか。

圡金(手前から)《ダブルスコープ》《天体観測》《ワームホールウィンドウ》
 

 堀江理人は、これまで介護を余儀なくされた自身の祖父の介護を巡ってすれ違っていく家族の姿をテーマとしてきた。だが今回はさらに自身のルーツと、自らが飛び込んだ美術の世界への関心をそこに取り入れて自己探求を深化させた。《室内・風景 昭和史/個人史/家族史》と題された本インスタレーションは、その関心が収斂した形として堀江の現在地を示す、いわば「記念碑的自画像」である。

 今回の作品には北海道出身画家である神田日勝や松樹路人からの引用が見られ、その延長に北海道出身である自分を位置付けようとする試みの一端が見受けられる。また、美術好きな父とアマチュア写真家の祖父の面影を細かに配置することで、堀江の美術受容の原点が示唆される。

堀江理人《室内・風景 昭和史/個人史/家族史》
 

 インスタレーション全体の構成をその外縁から辿ると、一番外側に、北海道の美術史や家族との記憶の断片によって構成されたモノクロの絵画作品がある。次にそこから内側に向かって祖父・父との痕跡が残された小箪笥やラジカセ、そして堀江の緊密な家族図としての巨大な屏風へと続いていく。そして、その中心に立つのが堀江自身である。堀江の立つ中心からふたたび外縁の方を振り返ると、外側に向けて徐々に色を失い「くらく」なっていく様は、一人上京してきた堀江から見た雪深い遥か故郷でもあり、そして徐々に色褪せていく過去の風景でもある。

 

 松岡湧紀がゲームとして提出した《Suburb Quest》は、ゲーム画面を映すモニターとそこに接続されたコントローラーの他、モニターの奥にもう一つ映像がプロジェクションされている。この奥の映像は写真のスライドショーで、団地やマンションなどの集合住宅、どこにでもありそうな公園などが淡々と映し出されていく。ゲームの映像もスライドショーの写真も、共に松岡の幼少期の記憶に由来するものである。

 計画的な開発によって郊外に作られた街で、松岡は多くの時間を過ごしてきた。世帯を効率よく収納する集合住宅、必要なものがコンパクトにまとまったショッピングセンター、「自然との繋がり」を忘れないよう免罪符的に設置された公園。松岡はそうした土地を転々としながらも、行く先々で変わらない同質の郊外風景にある種の心地よさを覚えていた。人間関係の希薄さや地元の個人商店を押し潰す負の側面が強調されがちな郊外都市だが、松岡にとっては常に生活の傍らにあり替えの効かない記憶の詰まった場所である。そしてそれは同時に、同じような郊外都市で過ごした人が共通して経験しているかもしれない記憶でもある。本作では、特徴を持たない3頭身の人形を操作することで、その記憶の一端に触れることができる。

松岡湧紀《Suburb Quest》
 

  宮野かおりは、90年代やゼロ年代に過ごした思春期に少女漫画やサブカルの影響を多大に受け、自身の感受性を育んできた。だが一方、それらを素直に表現することが外部からは好ましく受け取られないトラウマから、自らの表現を少しずつ抑圧してきた。少女漫画の世界から飛び出してきたような少女たち9人と、花やリボンが風に吹かれて舞う《シスター》は、宮野自らが抑圧してきた少女たち(宮野自身にとっての女神たち)をその呪縛から解放すべく力を注いだ作品であり、男性主導で推し進められてきた美術の文脈への挑戦状でもある。

宮野かおり《シスター》
 

 絵本や童話の主人公を担わされる9人の少女たちは、この絵画の中では各々の役割を脱ぎ捨てて解放されながらも、顔のパーツや色によってそのキャラクター性を再び規定されている。活発な性格(であろう)少女の大きな目は丸みを帯びていて赤く塗られており、逆に物静かでクールな性格(であろう)少女の目は切れ長で涼しく、青く塗られている、というように、少女たちのバックグラウンドを知らなくてもなんとなく彼女たちのキャラクターを読み取れてしまうのは、 "美少女戦士もの" で少しずつ刷り込まれてきたある種の文脈のおかげであろう。

 宮野自身の価値観を形成してきたキャラクター表現を、現代美術の舞台で包み隠さずに発表した際にどのような評価が下されるのか。少女たちが脱ぎ捨てたものは、そのまま宮野が自分を誤魔化してきた呪縛に通じるのである。

 

  宮野祐は、宗教的なものにどうしようもなく惹かれながらもそのどれにも属せない自らの無宗教性にもどかしさを覚えていた。幼少期から関心の赴くままに模写をしたり現地に行ったりと様々なアプローチを繰り返し、その断片の集積により宗教観を少しずつ形成していった。いずれの作品も、山や動物、神殿のようなものなど形の判別できるものと、そうでないものとが入り混じり、色の法則性もなくランダムに貼られたパッチワークのようであり、継ぎ接ぎだらけである。このパッチワークの支持体は薄っぺらいダンボールでどれも自信なげで頼りなく見えるが、それこそが嘘偽りのない宮野の宗教性を指し示した作品だと言えよう。各作品のモチーフについても、その継ぎ接ぎだらけの宗教性が見て取れる。《偽扉》は古代エジプト人が信仰した、死者の国へと通じる象徴として作られた "偽扉" を取り上げたものであるし、小品として提示された山の風景は、死者が山を通って霊界とを行き来するという山形県の月山近辺の信仰に由来するものである。描かれた対象は地域も形も異なるが、宮野の中では生と死、彼方と此方をつなぐ境として等しい価値が与えられている。宮野はここに展示した作品で、暫定のオリジナル宗教、いわば "無宗教的宗教" を信仰し、現世と死後の世界との折り合いをつけている。

宮野祐(左から)《庭園》《偽扉》《粘菌と胞子》
 

 コロナ禍により様々な行動が制限され、オンラインによって代替される中、「かむかふ」行為は、より痛切に作家たちを突き動かした。ただ頭の中で「考え」ているだけでは何も起こらない。作家たちの作品は紛れもなく、他者の思考・感情とフィジカルに結びつこうとする、媒介としての「かむかふ装置」であった。

 なお、本展は新芸術校各期の集大成である最終成果展への出品に向けた、予選会の意味合いも兼ねていた。ゲスト講師の椹木野衣氏とグループA担当講師の堀氏と和田氏による審査の結果、グループAからは堀江理人と宮野祐が選抜された。選抜から漏れた作家たちにも敗者復活の機会が設けられており、本展の経験を踏まえた各人の更なる成長に期待していただきたい。
撮影=宮野祐

金子弘幸

1984年山形生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。ゲンロン新芸術校第6期生CL課程。
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