ひろがりアジア(2) コロナゼロの島──「要塞」は「安息の地」になれるか|吉澤あすな

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ゲンロンα 2020年12月4日配信
 私たちは、いかに「コロナと共に生きる」ことができるだろうか。2020年3月以降、感染が急速に拡大していった時期、どの国も経済を停滞させることを厭わず、厳しい対策を講じて感染リスクを抑え込むことを目指した。しかし、一旦対策を緩め、経済と社会を動かす段階において問題になるのが、感染リスク、そして感染対策の適用とそれらがもたらす負担の「不平等さ」だ。日本では、経済振興策として「Go Toトラベル」や「Go Toイート」といったキャンペーンが導入され、観光や外食を楽しむ人が増える一方、そうした行動ができない人たちの間で不平等感や閉塞感が一層強まる結果が生じている。また、観光地の住民が、観光客の「自由な行動」を実現するために、地域に感染が拡大するリスクを引き受けたり、行動の自粛を求められたりする現実もある。

 本稿では、日本よりもはるかに厳しい罰則付きの感染対策を実施しているフィリピンにおいて、一時期「コロナゼロ」を実現していたボホール州の経験に焦点を当てる。この島は、「コロナゼロ」から島内への感染拡大を経て、国をあげた観光業回復の実験場として観光地をオープンさせようとしている。島が経験した「コロナゼロ」から「with コロナ」への移行、そして、経済回復と感染リスク抑制の両立において顕わになった「不平等さ」の問題から、「コロナと共に生きる」困難と可能性について考えてみたい。筆者は、学術研究の調査のため、2019年9月から1年間の予定で現地に滞在していた。本稿の記述は、2020年8月に筆者が帰国するまでに現地で見聞きした内容と、新聞記事等オンラインで収集した情報に基づく。

 フィリピンの中央ビサヤ地域に位置するボホール州=ボホール島【図1赤色部分】は、新型コロナウイルスの感染拡大後、州境の封鎖によって4月末まで新規感染者が確認されず、「コロナゼロ」を実現していた。まるで強固な「要塞」と化した島★1は、5月に入り、他地域に足止めされていた地元出身者の帰郷が始まると、間もなく島中に感染が広まった。現在に至るまで、島の内外を結ぶ交通は特別便などに限定され、入州のための健康証明書提出や到着後14日間の隔離が義務付けられるなど、人の往来は制限されたままだ。

 住民が不自由な生活を強いられるなか、政府は、この崩れかけた「要塞」を、「tourist haven」つまり観光客の「安息の地」へとつくりかえようとしている。長らく新規感染ゼロを維持した実績を中央政府に買われ、ボホールは観光産業回復のモデルとして抜擢されたのだ。州境の水際対策を維持しつつ、国内外から観光客を迎え入れる計画は上手くいくのだろうか。

【図1】ボホール州(赤色部分)は、セブ市から高速船で2時間ほどの距離にある。国際空港を備え、白い砂浜に並ぶリゾート群は3月まで外国人観光客で賑わっていた 地図作成=吉澤あすな
 

閉じ込められた島での「不自由」で「平和」な生活


 2020年3月12日、新型コロナウイルス感染がマニラ首都圏を中心に拡大するなか、フィリピン政府はマニラでロックダウン★2を実施すると発表し、地方政府もこれに追随した。ボホール州政府は最初の防疫措置として、島と外部をつなぐ全ての船と飛行機の運行停止命令と夜間外出禁止令を出した。筆者がこのニュースを知ったのは防疫措置開始日だったので、突如島から出る手段がなくなってしまった。筆者と同様に州内に足止めされた者、また州外から帰ってこられなくなった地元民が数多くいた。ボホールは感染リスクが内部に入り込まないよう、州境を閉じて島を「要塞化」する戦略をとったといえる。

 ボホールは、この時点で新規感染ゼロを維持していたのにもかかわらず★3、マニラと同様に厳しい防疫措置が実施された。州境封鎖によって島への出入りが原則禁止されると共に、全ての未成年(18歳未満)と高齢者に対する24時間の外出禁止、不要不急の事業所(スーパーや薬局以外の商店等)に対する一時営業停止が命じられた。さらに、全ての住民が外出時に防疫パスを携帯しなくてはならなくなった【図2、3】。その他、幼稚園から大学に至るまで全ての教育機関の休校、公共の場での飲酒禁止、マスクの使用義務化、バイクの2人乗り禁止などの数多くの事項が追加され、違反者には罰則が課された。

【図2】家族に1枚のみHome Quarantine Pass(防疫パス)が発行され、外出時は携帯必須となった。そのため、家族2人以上での外出が原則できなくなった 撮影=吉澤あすな
 

【図3】州都タグビララン市内のショッピングモールでは、入り口で防疫パスのチェックと入場制限が行われていた 撮影=吉澤あすな
 
 当初、生活が激変したことに筆者を含む住民は驚き、強いストレスを感じた。街から人通りが消え、スーパーや薬局の他は買い物もできない。一番衝撃的だったのは、未成年および高齢者の外出禁止令であった。彼らは、散歩や近所の買い物でさえ例外とはされず、ひたすら「ステイ・ホーム」することを強いられたのだ。街中が感染リスクで溢れているわけでもなく、島内の感染者がゼロで島外への人の往来もほぼないにもかかわらず、行動の自由が著しく制限されることに不条理を感じた。

 しかし数週間が経ち、私たちは新たな生活に馴れ、静かにルールに従うようになる。日常は様変わりしたが、州の内部では「平和」が保たれているように見えた。スーパーの品薄は解消され、マスクや消毒液でさえ、しばらくすると店頭に並ぶようになった。犯罪率は低下していると発表された★4。トライシクル(サイドカー付きのバイクタクシー)は家族同士であっても1名ずつの乗車、以前は乗客が鮨詰めだったジープニー(乗合タクシー)は半分の乗客で街を走るのが当たり前になった。

 また、当初は規則を厳守していた住民も、状況を伺いながら自らの判断でルールを少しずつ緩めていった。例えば、熱心なカトリック信徒の多いフィリピンでは、教会での礼拝や宗教行事ができないことは大きな問題であり、FacebookやTV配信によるオンラインミサが代替的に行われていた。筆者の住んでいたカトリック教区ではそれに加え、教会に集まる代わりに、聖像を乗せた車が近所の道を走る祈祷(プロセッション)が毎晩行われた。短い時間であっても、子どもたちにとって近所の友達と顔を合わせ、交流する貴重な機会となった【図4、5】。

【図4】キリストの聖像を乗せたプロセッションの車を迎える人々 撮影=日下渉
 

【図5】キャンドルを並べてプロセッションの準備をする子どもたち 撮影=日下渉
 

「要塞」の崩壊


 しかし、5月に入ると、「要塞」の中の平和な生活は、たんなる時間稼ぎでしかなかったことが露呈した。島をコロナゼロに保つことは、実は、国内の他地域に足止めされた9000人以上と推定されるボホール人と、膨大な数の海外への出稼ぎ労働者(Overseas Filipino Workers: OFW)の帰郷を阻むことで成り立っていたからだ。特に、フィリピンは国民人口の1割がOFWと試算される海外出稼ぎ大国である★5。彼らの入州をパンデミック終了時まで拒否し続けることはできなかった。

吉澤あすな

京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士後期課程。主な専門は、南部フィリピンにおける草の根の平和構築とムスリム-クリスチャン関係。異宗教間結婚や改宗といった、異なる人々が交わる日常実践に着目している。著書に『消えない差異と生きる―南部フィリピンのイスラームとキリスト教』(風響社)、共著に『日常生活と政治: 国家中心的政治像の再検討』(岩波書店)など。
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