『ゲンロン戦記』とゲンロンは誰のためにあるのか 與那覇潤×東浩紀(司会=石戸諭) 「平成の鬱と新しい知性の実践」イベントレポート

ゲンロンα 2021年1月4日配信
 12月19日、東浩紀の新著『ゲンロン戦記――「知の観客」をつくる』(中公新書ラクレ)の刊行記念イベントが行なわれた。本書は、東がゲンロンを経営するなかでぶちあたった挫折の数々を赤裸々に語った本として話題沸騰中だ。失敗からこそ導き出されるその哲学に共感する読者の声も多く聞かれる。
 イベントはお祝いムードのなか進んだが、たんなる「ゲンロン礼賛」だけでも終わらなかった。東の対談相手を務めた歴史学者の與那覇潤が、『ゲンロン戦記』を評価すると同時にいくつかの批判的な問いを投げかけたからだ。司会として、同書で聞き手・構成を務めた石戸諭がふたりの議論を橋渡しするかたちで議論は展開した。
 さまざまな問題が縦横無尽に語られた充実の7時間のなかから、ここではゲンロンの観客や読者をめぐって議論が行われた場面を取り上げる。「ゲンロンって結局は東浩紀信者の集まりでしょ?」という見方が仮にあるとして、東はそれにどう返答するのか――。(ゲンロン編集部)

 

『ゲンロン戦記』の読者層

 イベントの冒頭、與那覇が『ゲンロン戦記』の特徴として真っ先に挙げたのが、その読者層の問題だった。ポイントは、それがいまのヒット本の法則に当てはまらないということである。

 與那覇いわく、いまの出版業界で売れるのは基本的に「若者本」か「晩年本」のどちらかである。前者は、成功した若手実業家が「起業して〇〇すれば成功する!」と若者を啓発する本。後者は、晩年にさしかかった文化人などが「人生は思い通りにいかないのだから流されるしかない、しかしそれでいいのです」と説く癒し本のこと。その両極端しか売れない状況はどこか不健康なのではないかと與那覇は前から感じていたという★1

 そんななか、『ゲンロン戦記』はそのどちらにも当てはまらない「中年本」として売れている。同書で繰り返し語られているのは、経営上のリアルな失敗談と地道な事務仕事の大切さである。急辞職した経理担当社員の代わりに領収書をひたすら打ち込むはめになったエピソードや、書類整理のためにIKEAの棚を徹夜で組み立てたエピソードがそれを象徴している。そのような内容がひろく好意的に受け止められていることは、上で見たような「若者本」か「晩年本」ばかりの状況に違和感を抱いてきた読者層の存在を明るみに出したのではないかと與那覇は言う。

 

 東も似たような感触をもっており、おなじくそのことをポジティブに捉えているという。『ゲンロン戦記』で使われていることばで言えば、この本は丸山眞男の言う「亜インテリ」に届いている。つまり、大学教授やマスコミ人のような「インテリ」ではない、じっさいに手を動かして働く人びとに多く読まれ支持されている。ゲンロンが「亜インテリ」にリーチしている会社だということは同書でも触れられているが、この本の売れかた自体がそれを体現していると言い換えることもできるだろう。

 さらに東は、読者から寄せられる声の多くが「力づけられた」とか「やる気が出た」という内容であることについて、ほんとうにうれしく思うと素直に語った。東いわく、知識人や言論人がほんらいやるべきことの半分はそちらにある。むしろ、ある時期から知識人の役割が「なにかを批判すること」にばかり偏りすぎていることのほうが問題で、そのせいでその空白を埋めるかのように金儲け至上主義の「自己啓発本」ばかり売れる現状がある。それとはちがう地に足のついたかたちで人びとを元気づけること。それは意義のある仕事であり、これからもどんどんやっていきたいと東は言う。

ホモソーシャル性と観客

 與那覇の批判的な問いかけのひとつは、『ゲンロン戦記』の読みどころのひとつである「ホモソーシャル性との決別」をめぐってなされた。東がある時期まで自分と近い世代の似たような考えをもつ男性ばかりで集まって組織を運営しようと考えていたこと、その排他性を反省するという内容の箇所である。

 ここも大きな反響を呼んでいる部分であり、もちろんそこで書かれていることの正しさには與那覇も共感したという。しかし、なぜ東はその問題に気づくのにこれほど時間がかかったのか。そして数多くの批判にもかかわらず、どうしてこの社会からはホモソーシャル性がなかなか消えないのか。これを問わなければ、「ホモソーシャル性との決別」は完成しないのではないかと與那覇は言う。

 東にとって、この問題の多くは論壇の読者層の問題と重なる。「論壇プロレス」(大塚英志)ということばに象徴されるように、論壇にはホモソーシャルなものを書き手に求める読者が一定数いる。ひらたく言えば、「〇〇と××がケンカした」「○○と××がタッグを組んだ」という書き手のバトル演出や関係性をよろこんで消費する読者だ。

 このタイプの読者の期待に応えることは、短期的には経済的な利益につながる。しかし、その層をあえて無視して多様な観客にむけて場を開くことが、長期的な利益や健全な運営には不可欠だ。ゲンロンの場合で言えば、代表が女性の上田洋子に交代したことで、読者の期待も登壇者の構えもがらりと変化した。このことの重要性を東は強調する。いまやゲンロンは、東浩紀に興味がないひとも多く集まる場となっている。

 他方で與那覇は、ホモソーシャル性の問題をより広く能力主義社会の問題として分析した。ホモソーシャル性は能力主義(メリトクラシー)の緩衝装置として機能しているのではないかという仮説である。

 たとえば、飲み会で行われる「○○は仕事はできるかもしれないけど、ぜんぜん飲めないじゃないか(あるいはモテないじゃないか)」というやりとり。一見バカげたものに思えるコミュニケーションだ。しかしその意義は、「給与や待遇で格差があったとしてもわれわれはみなおなじ地平にいるのだ」というメッセージの交換にある。それが能力主義競争で傷ついた人びとを癒して共同体の維持につなげる機能を担って(しまって)いるからこそ、とうになくなっていてもいいはずのホモソーシャル性が社会に残存しつづけているのではないか。

 東もこの意見には同意を示す。しかし一方で、社会を維持するための友愛や連帯が必ずしもホモソーシャルなものである必要はないことも東は指摘する。われわれの社会に必要なのは、等質的ではない友愛のありかたを模索することである。すくなくともゲンロンにとっては、上述の運営体制変更や読者層の変化がそのための大きな一歩だ。社会変革はあくまでひとつひとつの具体的な歩みの先で達成される。

 

誤配の原理は能力主義なのか

 與那覇が提起した能力主義の問題は、彼が東に投げかけたもっとも鋭い問いにもつながる。その問いを一言でまとめるとこうである。東の「等価交換こそが人びとを自由にする」という主張は、能力をもたないひと=他人と「交換」するものがないひとにとっては、一種の残酷さを孕んでしまうのではないか――。

 まずは補足が必要だろう。上述の東の主張は、ゲンロンの「観客」とオンラインサロンの「信者」のちがいをめぐる議論と密接にむすびついている(以下、『ゲンロン戦記』第6章の3を参照)。

 

 東によれば、信者とはカリスマに論理的な判断ではなく感情でつながる存在である。信者はカリスマを愛しているあいだはどんな発言でも許し受け入れるが、嫌いになると突然全否定の「アンチ」になる。オンラインサロンは、そんな彼らが信者であるあいだにできるだけ効率よく「お布施」を回収するビジネスモデルである。

 一方で、ゲンロンが提供するのはあくまでも「商品」だ。ひとつひとつの商品に対して観客は貨幣を支払う。そこには等価交換の原理が働いている。たしかに観客はゲンロンの活動に注目しているが、コンテンツがつまらなければ買わなくなるし、店にも足を運ばなくなる。その緊張関係の有無こそが観客と信者を分かつものである。そして、等価交換の原理が前提にあってこそ、事前に予想もしなかった対価以上のものを得ること=「誤配」の余地が生まれる。はじめから「贈与」を前提としている場では、そのようなことは起きない。これは、東が『観光客の哲学』以来(あるいはそれ以前から)一貫して述べてきた主張でもある。

 與那覇も、もとは東とおなじく等価交換の原理、ないし互酬性を重視する立場だったという。そのおおもとには、彼が大学教員時代に目の当たりにした負のスパイラルがある。そこで起こっていたのは、①学生は「どうせ授業なんてつまらない」と思って適当に聞き流す→②教員も「どうせ学生は勉強しない」と思って手抜きの授業をする(→①→②→……)という悪循環だ。両者はともに、「自分が積極的に差し出すからこそ、相手も多くを返してくれる」という発想を欠いている。だとすれば互酬性や等価交換の意義を強調し、啓発することが事態の改善につながるはずである。

 しかし、そんな與那覇の考えをゆるがせたのは、双極性障害による激しいうつ状態に陥った経験だ。うつ状態にあるとき、ひとは等価交換の元手として差し出せるものを失う。與那覇の場合は、しゃべること、読むこと、考えることがままならなくなり、それまで自身を価値づけていると思っていた知的能力を一時的に失った。その経験によって発想の転換をせまられたというのだ。

 東の主張する「交換が原則であり、贈与はその失敗としてある(=結果的に「贈った」かたちになる)」という発想は、そもそも等価交換に差し出せるものをもたないひとにとっては、東の意図とは逆にディスカレッジ(生きる力の喪失)をもたらしてしまうのではないか。むしろ「贈与こそが原則であり、交換の方が失敗形態だ(=ついつい人は「返してしまう」)」と考える正反対の立場もあり得るが、それとの対話ないし架橋はどのようになしえるだろうか。與那覇は、東の思想や実践に深く共感する部分があること、自身もまだその着地点を見つけられていないことを認めたうえで、そう問いかけた。

 東はこの問いかけを重く受け止め、等価交換の原理についての自身の直感をあらためて理論的に練り上げる必要があると語った。等価交換にはある種の倫理が宿る。しかし、そこにはなにか落とし穴があるのかもしれない。それとも、それさえ乗り越えるなにかをこの「商人の倫理」に見出すことができるのだろうか。

 じつは、このことは東が最近取り組んでいる問題とも関連している。たとえば、最近の論考「無料という病、あるいはシラスと柄谷行人について」で、東はマルクスに言及している。労働、貨幣、価値といった問題をいまの時代にアップデートするかたちで根本的に考え直すこと。それがゲンロンとその観客による次なる戦いの始点なのかもしれない。

 このまとめはイベントのほんの一部を切り取ったものに過ぎない。イベントではほかにも、司会の石戸や制作サイドをめぐる『ゲンロン戦記』の裏話から、日本学術会議問題やDHC問題などの時事的なトピック、新型コロナウィルス禍での機能不全に帰着した2010年代の知的状況の問題など、多様な議題が俎上にのぼった。長時間イベントの随所にちりばめられた「誤配」の種もゲンロンの売りである。ぜひ確認してほしい。(住本賢一)

 

 シラスでは2021年6月18日までアーカイブ公開中(税込880円)。ニコニコ生放送では、今後の再放送の機会をお待ちください。

與那覇潤×東浩紀(司会=石戸諭)「平成の鬱と新しい知性の実践──『ゲンロン戦記』刊行記念」
(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20201219/

 

★1 この話題は、斎藤環との共著『心を病んだらいけないの?』のもとになった対談で議論されたが、字数の関係で本からはカットされたとのこと。

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