「ひとと会いたい」は暴力か──道徳律化するウイルス対策|斎藤環 聞き手=吉川浩満

ゲンロンα 2021年2月2日配信
 2020年4月7日に発出された第1回目の緊急事態宣言。5月の末には宣言が解除されたが、コロナ禍下で生まれた「新しい生活様式」にもとづく所作とそれを支える思考は、意識的にも、無意識的にもわたしたちを支配している。
 精神科医・批評家の斎藤環氏は、SNSやウェブメディアを通して、COVID-19のパンデミックがもたらすこころと社会の問題について発信を続けてきた。noteに投稿された「コロナ・ピューリタニズムの懸念」をはじめとする一連の記事で斎藤氏は、コロナ禍を通じて変容していくわたしたちの倫理観、行動規範、記憶のあり方に警鐘を鳴らした。
 これを受けて、2020年6月1日、ゲンロンカフェで斎藤氏のお話をうかがった。聞き手は吉川浩満氏。コロナによって失われるかもしれない「ひとと会う」ことの臨場性・暴力・欲望。その変化は、わたしたちの命や社会に新しい多様性を生み出すかもしれない。
 本日のゲンロンαでは当日の対話の模様を記事化してお届けします。第2回目の緊急事態宣言が延長されたいま、「ひとと会う」ことについて考える機会となる貴重な対談です。(編集部)
 
※本イベントのようすは、Vimeoにて全篇をご視聴いただけます。どうぞご覧ください。
URL= https://vimeo.com/ondemand/genron20200601

 

 

吉川浩満 本日は精神科医の斎藤環さんにお話をうかがいます。斎藤さんはブログサービスのnoteにコロナ禍における人間社会について、一連の論考を発表していらっしゃいます。2020年4月20日にアップロードされた「コロナ・ピューリタニズムの懸念」をはじめとして、5月に続けて公開された「失われた『環状島』」「“感染”した時間」「人と人は出会うべきなのか」はいずれも、SNSを中心として大きな話題となりました。コロナ禍がひとの心と社会をどう変えたのか、そんななか、われわれはどう振る舞えばいいのか、考えていきたいと思います。斎藤さん、今日はどうぞよろしくお願いします。

斎藤環 よろしくお願いします。

ミクロなレベルでコロナ禍を語る

吉川 話題となった一連の論考ですが、わたしも拝読し、非常に感銘を受けました。そもそもこの文章をどうして書こうと思われたのですか?

斎藤 コロナウイルスに関しては、さまざまな立場のひとがさまざまな意見を発信しています。複数の論考を読みましたが、多くのひとが「グローバリゼーション」などの言葉とともにマクロな視点からコロナ禍を語っている印象を持ちました。そうした視点も重要ですが、わたしはコロナ禍での人間の変化をもっとミクロなレベルで知りたいと思った。ウイルス自体についてはわたしは専門外ですが、精神科医として、コロナ禍に伴う自粛がメンタルに及ぼす影響なら語れると思いました。

 とはいえ、ミクロなレベルでコロナウイルスを語ろうとしても、それに適するデータや研究がほとんどなかった。なので、自分自身が感じたことを敷衍して書きました。個人的な記述にもかかわらず、多くのひとに共感をいただいて驚きました。

吉川 わたしも斎藤さんの文章に共感する部分がありました。斎藤さんの論考はいわゆる「パワーワード」がたくさんあって、それらの言葉がコロナ禍でわれわれを圧迫するものの正体にかたちを与えてくれたような感じがするんです。

コロナ禍と「原罪」意識

吉川 noteの第1回目のタイトルにもなっている「コロナ・ピューリタニズム」という言葉はとくにそうですね。とてもしっくりきたので、まるで以前からその言葉を知っていたかのような気分になりました。

斎藤 そういう感想はすごくうれしいです。「コロナ・ピューリタニズム」に関しては、先に述べたように、わたし自身の非常に身近な問題として捉えています。いまは、「三密回避」や「ソーシャル・ディスタンス」といった言葉が用いられ、ひととひとが接触しないことが疫学的に正しいと認識されていますよね。だからスーパーに行っても、ひとが近くに寄ってくると避けたくなる。わたしも気づけばそういう身体反応を示していて驚きました。これはかつては存在しなかった感受性で、自分の身体の兆候として非常に危ういと感じています。

 どういうことかというと、このコロナ禍における一時的な接触の拒否がコロナ以後も続き、ひとと接触することそのものが好ましくないという感覚がだんだん浸透するんじゃないかと思っているんです。疫学的な問題がいつの間にか倫理的な問題にすりかわってしまうのではないか。わたしはそれを「コロナ・ピューリタニズム」と呼びました。

 3月にロンドン大学のグラハム・メドレーという疫学者が、コロナ禍におけるふるまい方についてコメントしているのを動画で見たんですね。彼によれば、つねに自分が感染していると想定して、それをひとに感染させないように行動せよ、と。これは行動変容の原理としては「伝染されまい」とするよりはいいのかもしれない。でもややもすると、キリスト教で言う原罪意識にとても近い発想になるのではないか。罪は犯してないけれども、犯している前提で振る舞う、というのが原罪意識です。メドレーの提起したコロナ禍での行動規範にたいへん近い。つまり、疫学者が疫学的根拠にもとづいて推奨する行動規範は、繰り返されるうちに、あたかも原罪のような道徳律として受けとられていくのではないか。そもそも「三密」という言葉ももとは仏教用語ですからね。

吉川 わたしもそうした実感があります。わたしはもともとマスクが嫌いで、これまでの人生でほとんどマスクをしてこなかったんです。他人の飛沫は気にしませんから。でも、自分が感染している前提で行動しろと言われると、やはり倫理感に訴えかけられてしまう。今回のコロナ禍では積極的にマスクをつけています。

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1961年岩手県生まれ。1990年、筑波大学医学専門学群環境生態学卒業。医学博士。爽風会佐々木病院精神科診療部長(1987年より勤務)を経て、2013年より筑波大学社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理、および病跡学。『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『戦闘美少女の精神分析』(ちくま文庫)など著書多数。『世界が土曜の夜の夢なら』(角川文庫)で、第11回角川財団学芸賞受賞。

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1972年生まれ。文筆業。国書刊行会、ヤフーを経て、現職。関心領域は哲学・科学・芸術、犬・猫・鳥、卓球、ロック、単車、デジタルガジェットなど。著書に『理不尽な進化』(朝日出版社)、『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(河出書房新社)、共著に『脳がわかれば心がわかるか』(太田出版)、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(筑摩書房)など。近刊に「ゲンロンβ」の連載を書籍化した山本貴光との共著『人文的、あまりに人文的』(本の雑誌社)。

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