「ひとと会いたい」は暴力か──道徳律化するウイルス対策|斎藤環 聞き手=吉川浩満

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ゲンロンα 2021年2月2日配信
 2020年4月7日に発出された第1回目の緊急事態宣言。5月の末には宣言が解除されたが、コロナ禍下で生まれた「新しい生活様式」にもとづく所作とそれを支える思考は、意識的にも、無意識的にもわたしたちを支配している。
 精神科医・批評家の斎藤環氏は、SNSやウェブメディアを通して、COVID-19のパンデミックがもたらすこころと社会の問題について発信を続けてきた。noteに投稿された「コロナ・ピューリタニズムの懸念」をはじめとする一連の記事で斎藤氏は、コロナ禍を通じて変容していくわたしたちの倫理観、行動規範、記憶のあり方に警鐘を鳴らした。
 これを受けて、2020年6月1日、ゲンロンカフェで斎藤氏のお話をうかがった。聞き手は吉川浩満氏。コロナによって失われるかもしれない「ひとと会う」ことの臨場性・暴力・欲望。その変化は、わたしたちの命や社会に新しい多様性を生み出すかもしれない。
 本日のゲンロンαでは当日の対話の模様を記事化してお届けします。第2回目の緊急事態宣言が延長されたいま、「ひとと会う」ことについて考える機会となる貴重な対談です。(編集部)
 
※本イベントのようすは、Vimeoにて全篇をご視聴いただけます。どうぞご覧ください。
URL= https://vimeo.com/ondemand/genron20200601
   
吉川浩満 本日は精神科医の斎藤環さんにお話をうかがいます。斎藤さんはブログサービスのnoteにコロナ禍における人間社会について、一連の論考を発表していらっしゃいます。2020年4月20日にアップロードされた「コロナ・ピューリタニズムの懸念」をはじめとして、5月に続けて公開された「失われた『環状島』」「"感染"した時間」「人と人は出会うべきなのか」はいずれも、SNSを中心として大きな話題となりました。コロナ禍がひとの心と社会をどう変えたのか、そんななか、われわれはどう振る舞えばいいのか、考えていきたいと思います。斎藤さん、今日はどうぞよろしくお願いします。

斎藤環 よろしくお願いします。

ミクロなレベルでコロナ禍を語る


吉川 話題となった一連の論考ですが、わたしも拝読し、非常に感銘を受けました。そもそもこの文章をどうして書こうと思われたのですか?

斎藤 コロナウイルスに関しては、さまざまな立場のひとがさまざまな意見を発信しています。複数の論考を読みましたが、多くのひとが「グローバリゼーション」などの言葉とともにマクロな視点からコロナ禍を語っている印象を持ちました。そうした視点も重要ですが、わたしはコロナ禍での人間の変化をもっとミクロなレベルで知りたいと思った。ウイルス自体についてはわたしは専門外ですが、精神科医として、コロナ禍に伴う自粛がメンタルに及ぼす影響なら語れると思いました。

 とはいえ、ミクロなレベルでコロナウイルスを語ろうとしても、それに適するデータや研究がほとんどなかった。なので、自分自身が感じたことを敷衍して書きました。個人的な記述にもかかわらず、多くのひとに共感をいただいて驚きました。

吉川 わたしも斎藤さんの文章に共感する部分がありました。斎藤さんの論考はいわゆる「パワーワード」がたくさんあって、それらの言葉がコロナ禍でわれわれを圧迫するものの正体にかたちを与えてくれたような感じがするんです。

コロナ禍と「原罪」意識


吉川 noteの第1回目のタイトルにもなっている「コロナ・ピューリタニズム」という言葉はとくにそうですね。とてもしっくりきたので、まるで以前からその言葉を知っていたかのような気分になりました。

斎藤 そういう感想はすごくうれしいです。「コロナ・ピューリタニズム」に関しては、先に述べたように、わたし自身の非常に身近な問題として捉えています。いまは、「三密回避」や「ソーシャル・ディスタンス」といった言葉が用いられ、ひととひとが接触しないことが疫学的に正しいと認識されていますよね。だからスーパーに行っても、ひとが近くに寄ってくると避けたくなる。わたしも気づけばそういう身体反応を示していて驚きました。これはかつては存在しなかった感受性で、自分の身体の兆候として非常に危ういと感じています。

 どういうことかというと、このコロナ禍における一時的な接触の拒否がコロナ以後も続き、ひとと接触することそのものが好ましくないという感覚がだんだん浸透するんじゃないかと思っているんです。疫学的な問題がいつの間にか倫理的な問題にすりかわってしまうのではないか。わたしはそれを「コロナ・ピューリタニズム」と呼びました。

 3月にロンドン大学のグラハム・メドレーという疫学者が、コロナ禍におけるふるまい方についてコメントしているのを動画で見たんですね。彼によれば、つねに自分が感染していると想定して、それをひとに感染させないように行動せよ、と。これは行動変容の原理としては「伝染されまい」とするよりはいいのかもしれない。でもややもすると、キリスト教で言う原罪意識にとても近い発想になるのではないか。罪は犯してないけれども、犯している前提で振る舞う、というのが原罪意識です。メドレーの提起したコロナ禍での行動規範にたいへん近い。つまり、疫学者が疫学的根拠にもとづいて推奨する行動規範は、繰り返されるうちに、あたかも原罪のような道徳律として受けとられていくのではないか。そもそも「三密」という言葉ももとは仏教用語ですからね。

吉川 わたしもそうした実感があります。わたしはもともとマスクが嫌いで、これまでの人生でほとんどマスクをしてこなかったんです。他人の飛沫は気にしませんから。でも、自分が感染している前提で行動しろと言われると、やはり倫理感に訴えかけられてしまう。今回のコロナ禍では積極的にマスクをつけています。

コロナ・ピューリタニズムと自粛警察


斎藤 これは仮説ですが、15世紀の梅毒の流行がイギリスのピューリタニズムの勃興に影響を与えたという話もあります。梅毒に感染しないために、自己を律して清く正しく生活をしなければならないという禁欲主義です。ピューリタニズムもまた、疫学を背景にした提言が宗教的な道徳律につなげられたケースのひとつであったのかもしれない。

 今回のコロナ禍で考えれば、禁欲生活とはひきこもること、つまり「ステイ・ホーム」だと言える。自粛生活では清貧思想のように、ひとと交わらず地道にテレワークをして暮らすのがよいとされます。でも、ひきこもりの禁欲生活の思想をつきつめていくと、たとえばエジプトのコプト教徒が典型ですが、いっさいの人間関係を絶ってひとりで死ぬのがいちばんすばらしいという倫理観にゆきつくのではないか。コロナ禍に乗じてそういう倫理観さえ浸透していく嫌な気配も感じています。

 現に、この「コロナ・ピューリタニズム」の新しい道徳にもとづいて暴走しているのが「自粛警察」です。とくに日本人はこういう動きが出始めると、行き過ぎる傾向がある。たとえば、明治の廃仏毀釈や第二次世界大戦中の敵性語使用の禁止を推し進めたのは大部分が一般の人々です。日本ではお上がちょっと示唆しただけで、忖度や同調圧力によってこうした疑似道徳律がたやすく暴走する。もちろん疫学的にいえば、政府が強権的に振る舞わずとも感染拡大を抑止できるというプラス面もあるわけで、少なくともコロナ禍初期には「自粛」のひとことでロックダウンに等しい変化が起きました。

 パンデミックそのものはおそらくすぐに忘れられてしまうでしょう。より深刻な問題は、そのときに成立してしまった道徳律が、パンデミックの記憶が曖昧なために無意識化されてしまうことなのではないか。起源が忘却されて形骸化した道徳律だけが生き残ってしまうという懸念がある。

吉川 たしかに、現象的なパンデミックの危険が去ったあとも、そういうミクロな身体所作は澱のように溜まってあとを引きますよね。

斎藤 だからこそ、まずは自分たちがおかしな道徳律に取り囲まれていないかを意識する。もしすでにそういう道徳律に囲まれていたとしても、その身体所作はコロナ禍における限定的なものだと認識することが大切です。

コロナ禍は「失われた環状島」だ


吉川 いま、パンデミックの忘却についてお話が出ましたが、その主題はnote記事の2本目である「失われた『環状島』」にもつながりますよね。パンデミックは始まりも終わりもないからこそ記憶から抜け落ちやすく、後世に語られにくいという議論です。

斎藤 そうです。前提から説明すると、「環状島」というのは精神科医の宮地尚子氏が提唱したトラウマ理論です。もとの意味は海に浮かぶドーナツ状の島のことで、多くは休火山からできています。火山が盛り上がって海に突き出し、死火山になって火口に水が溜まる。それを上から見るとリング状に見えて、それが環状島と呼ばれるのです。大きな災害や事件についての個人的・社会的なトラウマが、この環状島のかたちをとるというのが宮地さんの説です。

 被災地を例に考えると、被災地は震源地、つまりグラウンドゼロがあって、その周辺に被災地ではない地域に住む人々がいる。宮地さんの説によれば、被災地の中心にいる人々は喪失感やトラウマ、その他さまざまな事情によって言葉を奪われてしまう。被災地をめぐる語りはちょうどこの構図に近い。つまり火口の内海に沈んでいる部分がトラウマで、ここにいるひとには言葉がないんですね。

 けれどもその周辺は山になっていて、稜線部分からは言葉がどんどん出てくるわけです。つまり、被災地の人々は体験に圧倒されて言葉を奪われる代わりに、被災地周辺の人々はどんどん饒舌になる。この現象はわれわれも東日本大震災で目にしました。3・11では、被災地からすこし離れた東京を中心に風評被害を含む膨大な論評が湧き起こり、震災をテーマとした映画やアートなどの無数の表現が生まれました。けれどもそこからさらに遠ざかっていくとだんだん無関心が広がっていくわけです。3・11で言えば関西より西では他人事感が強かったと思いますが、これは阪神淡路大震災に対する関東以北のひとの距離感に近いでしょう。

 3・11のように震源地がはっきりとわかる場合には、この環状島が形成されやすい。ここでわたしが想起したのが『史上最悪のインフルエンザ』というスペイン風邪の本でした。この本では、スペイン風邪という巨大なパンデミックについての記録が、その被害の割に驚くほど少ないということが指摘されている。たしかにアメリカ近現代史にも記載がほとんどない。小説家もほとんどスペイン風邪について書いていない。日本でもある推定によれば45万人ほどのひとが亡くなっているというのに、与謝野晶子や武者小路実篤ぐらいしかスペイン風邪についての文章を書いていない。ふしぎなことです。それはなぜか。この本では複数の仮説が提示されていますが、そこに書かれていない可能性のひとつとして、「環状島」の問題がありえるのではないか、と思いいたったんです。

 パンデミックと震災の差異を挙げるとするなら、前者にはグラウンドゼロがない点が、まず指摘できると思います。つまり環状島ができにくい。コロナに関しては武漢がそれにあたると指摘するひともいるでしょうが、欧米で感染拡大が深刻化して以降は、そうした認識はもはや希薄でしょう。そしてなにより、パンデミックは始まった日がわからない。中国でコロナ患者が最初に発生した日付を覚えているひとはほとんどいませんよね。それは当然で、震災ならば起こった日のインパクトがいきなり最大になりますが、パンデミックは徐々に始まり、曖昧なピークを何度か繰り返して、終わるときもフェードアウトするわけですから、「出来事」としての性格が希薄なんです。

 ある意味、パンデミックにおいてはすべてのひとが当事者であるということです。でも逆にそれは、すべてのひとが当事者じゃないとも言える。なので、環状島を構成しようがない。だからこそ、パンデミックは、社会的なトラウマとして記憶されにくいんです。

コロナ禍をトラウマ化するために人文科学を再考する


斎藤 以上はあくまでも仮説ですが、わたしたちは今回の経験を社会的トラウマとして後世に残すために、意識的な努力をしなければならない。

 震災であれば遺構を残せますが、パンデミックは遺構も残りません。そこでわたしが提案するのは、コロナ禍の終息を祭祀化することです。パンデミックはWHOが終息宣言を行うので、その日を全世界共通で終息記念日とするのはどうか。

 コロナを機会に全世界が連帯すべきだという掛け声はありますが、EUでさえもバラバラになってしまったように、実際に起こっていることは真逆です。しかしわたしは、犠牲者を悼む日付を新たに設置するその終息記念日においてこそ、世界は連帯できると思う。そういう継承をしていくことが大事です。わたしが頼まれもしないのにnoteで論考を書いているのも、パンデミックに対する言説をすこしでも増やそうという目論見があるからです。

吉川 斎藤さんの言葉でいえば、コロナ禍をマイルドに祭祀化することで、適切な外傷化を試みるということですね。

斎藤 もちろん個人の記憶がトラウマになるのはよくないことだし、そもそもトラウマはコントロールできません。しかし社会のトラウマ化に関しては、ある程度は可能なのではないか。であるなら、このパンデミックについての記憶も、科学的な記録だけでなく祭祀のような文化的なものとともに残すべきだと思います。今後もパンデミックは繰り返すことが予想されるので、「つぎ」に備えるという意味からも。

吉川 それは通常の意味での科学的な方法ではないですが、たとえばわれわれが宗教や霊的なものを信じて必要とする、そういう人間の本性へのアプローチであるわけですね。

斎藤 社会的なトラウマ化の必要性を考えるなら、祭祀化の案やコロナ禍にまつわる表現の価値について、人文知はこれらに関する知恵やアイディアをいくらでも提供できると思います。物質的な基盤のない、幻想と象徴の領域ですからね。しかし、実際にはコロナ禍においては統計と科学の有意性ばかりが強調され、人文科学はまるで無価値であるかのような扱いを受けてしまった。しかし科学に確定的な根拠があるのかといえば、そうではない。わたしが専門とする精神医学は人文科学と科学の中間領域にありますから、やはり文化的、人文的なものは自分自身にとっても非常に大事なものだと思っています。この機に、人文科学の価値を再考すべきです。

吉川 なるほど。当初「失われた『環状島』」というタイトルを見たときはいったいなんのことだろうと思いましたが、拝読すると、非常に理念的なことと現実的な提案とが併せて書かれていて、斎藤さんらしい文章だなと腑に落ちました。

斎藤 抽象と具象の振幅を大きくするのがわたしの文章の意図なので、うれしいです。

コロナ禍の時間


斎藤 続いてnoteに書いた「"感染"した時間」と「人は人と出会うべきなのか」と題されたふたつの文章は、より具体的なわたし自身の感覚を書いたものですね。これはどちらも自身についてのことを症例として分析する、というコンセプトの文章です。

 「"感染"した時間」では、コロナ禍以降の時間感覚の違和感について書きました。コロナ禍が始まってから、ずっと時間感覚が狂ってしまったように感じていました。時間的な遠近法がずれてしまったような。この違和感について考えながら思いいたったのは、これは「不要不急」が抑圧されたためではないか、ということです。

 思えば当時は、不要不急の用件や予定がすべてなくなり、活動は病院の診療や大学の業務など、エッセンシャルなものだけに絞り込まれてしまった。生活がシンプルになっただけだともいえますが、くわえて決定的だったのがテレビのニュースです。日本では感染者が何人で他国はどうなっているのか、そういうニュースが毎日のように報じられ、そのたびにみんなが一喜一憂していた。これは、シンプルになった生活のなかでコロナウイルス感染拡大という事象が全世界的に共有され、その進行のみが統一的な時間感覚になってしまったということなのではないか。

 本来、時間は不要不急なものも含めたいろいろな出来事から構成される束のようなものです。しかしいま、世界の人々は不要不急なものを取り払った結果、一種のコロナ時計に自分たちの時間の流れを一元化させ、同期してしまっている。そこで起きた時間の単純化が時間感覚の平板さにつながっているのではないかと考えたわけです。

吉川 イベントのまえにこの記事についての反応を調べてみると、多くのひとが「自分も同じことを考えていた」といった感想をSNSなどに投稿していました。

斎藤 多くのひとに共感していただけてわたしもうれしいです。そこでnoteでは、もともとあった時間の複雑さを回復するための方法を提案しました。外向きの活動は自粛すべきだと言われていた時期だったので、代替案として、内向きに不要不急なことをやろうと。実際、アメリカでもヒヨコの飼育がブームになったりとか、日本でもシイタケ栽培が流行ったりしていましたね。それもこうした時間の複雑さを取り戻すためのひとつの試みなのだと思います。科学にもとづいた清潔で正しい生活の傍らに、文化的で雑多な生活をいっしょにやるべきだという提案です。

吉川 わたしの場合は、いまは自宅の本棚を片付けています。そのなかには、エッセンシャルブックスと名付けた、自分にとって大事な本があって、それらはぜんぶPDFにして本自体は手放してしまったんですが、1冊ずつ古本で買い直すことを始めました。すると、10代に読んだ本から最近に読んだ本まで集まり、そこに複数の時間の層ができている気がしてくるんです。

斎藤 それはいいですね。本には時間が埋まっていますから。

吉川 本棚の整理は内向きの不要不急としておすすめですね。

ひとと対面することは「暴力」だ


斎藤 4本目に書いた「人は人と出会うべきなのか」は、「"感染"した時間」以上に自身の具体的な感覚が織り込まれた文章です。目の前にひとがいることを総称して「臨場性」と称し、その価値について考えたものですね。

 わたしたちはコロナ禍ではじめて、いままで自明だった「ひとと直接会うこと」の価値、つまり臨場性の価値を考えられるようになったと思います。わたしがキーワードとして文中で出したのが「暴力」という言葉です。

吉川 その言葉がポイントですよね。

斎藤 ここで言う暴力とは哲学的な意味を含んだ言葉です。すこしでも力を使って相手に働きかけて影響を及ぼすこと、それらをすべて暴力と呼んでいます。ですから犯罪だけでなく、合法的なことももちろん含まれています。デモとか革命のような行為もまた、その正統性はともかくとして、この文脈では暴力ということになります。

 わかりにくいひとのために、あえて『鬼滅の刃』を引用して説明してみましょう。
 作中に登場する猗窩座(アカザ)という鬼はひとの闘気を感じる力にすぐれていて、「赤子にもうっすら闘気はある」と言う。暴力とは無縁そうな、むしろ弱者の最たる例である赤ん坊にすら闘気があると述べるのですが、この「闘気」こそ、わたしの言う暴力と近い。ここで言う暴力とは、ひとが目の前にいるときに漠然と感じる圧や、緊張感をぜんぶ含めた言葉だということです。

 要するに、他者が自我境界を乗り越えて自分に迫ってくることそのものが暴力だとまず仮定してみました。けれども、いったんその暴力を受け容れてしまうと、親密さの感覚が生じて楽しくなることもある。暴力を通過しなければその先の楽しみはないわけです。

 社会の起源が何であるかは社会学の重要なテーマのひとつですが、はっきりと言えるのは、社会の起源には暴力があるということです。お互いに侵入しあわないと、コミュニケーションの条件は成り立たないし、社会というものを形成する関係は生まれないと思います。

吉川 暴力を否定することは、社会の形成を否定することにもなりうる、ということですね。

斎藤 その意味で、暴力は対面における一種の通過儀礼とも言えるのかもしれません。誤解を招く表現かもしれませんが、「臨場性の暴力」は社会生活を営むうえで必要だ、とすら言いえると思う。コロナ禍以前、ひとはその暴力の程度をその都度調整しながら生活していたのではないか。

吉川 今回の自粛期間のときには、それに気づいたひとも多いと思います。社交的なひとは、これまで自分でも気づかないぐらい臨場性の暴力のなかでがんばってたわけですよね。

斎藤 社交性が高く見えるひとも、この暴力に耐えるために無理にテンションを上げていることもある。でもそれが素の状態とは限らない。わたしが予想した以上に多くのひとが、この「臨場性の暴力」という言葉に共感を示してくれて、「みんなそれぞれに我慢していたんだなあ」と、強い連帯感を覚えるきっかけにもなりました。

吉川 普遍的な議論であると感じます。

欲望を支える臨場性


斎藤 臨場性の暴力は、欲望にも関わります。ラカンは「欲望は他者の欲望である」と言いましたが、実際にそのとおりなんです。ひきこもりの人々は他者を遠ざけて何十年もひきこもるうち、だんだんと欲望をなくしていく。コロナ禍のいまは国民のほとんどがひきこもっているような状況なので、これに関しても多くの共感の声がありました。ひきこもっていたらお金がすごく貯まったとか、欲がなくなっただとかいったツイートも多くあって、やはり普遍的な現象であると感じました。

 欲望を持つことの是非はいったん措くとして、欲望がなければひとと交わりたいだとか、家族を持つために働きたいだとかを思うこともないので、社会は成立しません。仮に社会が成立することが善だとしたら、欲望もあったほうがいい。

 やや露悪的な言い回しかもしれませんが、欲望の回復のためにはやはり暴力が必要なんです。わたしの場合を例にとっても、会合などは行くまえに気が重かったりするのに、行ってみると楽しくなって、けっこう気分がアガったりするんですよね。ひきこもり生活は快適なんですが、そのままでは社会への欲望は生まれてこない。だからときどき、あえてそうした「暴力」を引き受けるような契機がないと、意欲や欲望の維持はむずかしいと思います。

吉川 わたしにとってトークイベントはそれにあたりますね(笑)。始まるまでは憂鬱なんですが、いざやってみると行かなければよかったと思うトークショーはない。

斎藤 わたしも同じです。ふしぎですよね。
 

イベント当日、斎藤環はオンラインでの登壇となった。吉川浩満がゲンロンカフェに登壇し、聞き手を務めた
 

関係性は暴力である


斎藤 くわえてこの文章では、関係性についての議論にも触れました。関係性とコミュニケーションは対義語だという考えが基本にあります。

 ネット上では匿名のコミュニケーションはいくらでもできますが、関係性は治療関係や家族関係のように、相手と対面して相手をよく知ったうえで結ぶものです。コミュニケーションは関係性なしでもできますが、関係性が重視される領域では、臨場性の暴力が不可欠です。

 それはなぜか。その理由に、すべての関係性は非対称であるというテーゼがある。唐突に思われるかもしれませんが、BLカルチャーを参照してみましょう。BLの関係には「攻め」と「受け」という役割分担がある。これが成立するためにいちばん大事なことが、位相差と言われているキャラ同士の「差」です。逆に言えば、差さえあればカップリングは成立する。これは関係性の本質です。「対等な関係」はありえず、関係性というのは多かれ少なかれ、必ず非対称の差異を孕んでいる。実はフロイトもそんな指摘をしています。「サディズムとマゾヒズムの関係のみが、無意識における唯一の関係性である」と。これは非常に大事なところで、わたしは差異がないところに関係性は発生しないと思っています。

 差異がなければおそらくコミュニケーションはできても対話はできないし、関係性の構築もありえない。ここで重要なのが、さきほども言及した臨場性です。Zoomに表示されるような等間隔で均等な画面ではなく、臨場性にもとづいた対面こそ、相手と自分の違いが最大化されるんですよ。とくに物理的な身体を持ち寄ることは、差異を際立たせるということにおいて非常に効果的です。

 したがって性的な意味に限定されない「身体性」がなければ関係性は安定的に持ちえないだろうと考えています。その意味で、医療や教育のような関係性を主軸とした業界は本質的にオンラインだけでは成立しがたい。あらかじめある関係を維持することは可能ですが。

吉川 それはわたしも痛感します。言葉だけやり取りしてればかたちだけは対話になりますから、Zoomを利用すればそれはできる。でも、なにかいちばん重要な部分が抜けてしまう。たとえば実際に対面したうえでの会話だと、微妙に言葉が重なって発話されることもあるじゃないですか。そこで微妙な対話の関係が動くと思うんですが、それがうまく行かない。

斎藤 くわえて、対話だと自分の声がちゃんと相手に届いているかがわかるのですが、オンラインだと自分の声が届いているのかがわからない。それといちばん厄介なのは、オンラインだと目が合わないことですね。そうした非言語的な情報は関係性を構築するうえで非常に大事なことですが、オンラインだとそれらがキャッチできない。

コロナ禍におけるオープンダイアローグ


斎藤 わたしは臨床医としてはオープンダイアローグという手法/思想の啓発を進めているのですが、これもコロナ禍のためにオンラインでやらざるをえない。そうすると、いま言ったような非言語的な情報がキャッチできず、どうしても言葉に頼った対話になってしまう。

 そもそもオープンダイアローグも臨場して対話するものなので、暴力的です。したがってオンラインでやるのはむずかしい。オンラインでの治療がむずかしいのは、治療にも暴力が必要だからです。誤解を招きそうな表現ですが、そう言わざるをえない。ひとを癒やすためにも暴力が必要だということです。

吉川 斎藤さんの言葉を引用すると、「臨場する他者からの、ほどほどの暴力」が、治療関係をつくるためだけでなく、欲望を維持するうえでも必要なものですよね。

斎藤 物理的な暴力になってしまったら、もちろん倫理違反です。しかし、オープンダイアローグではできるだけ、患者さんが自発性や主体性、欲望を回復できるようなタイプの「ほどほどの暴力」を駆使するところがある。むしろ対話の本来持っている暴力性を十分に自覚したうえで、それをいかに調整しケアに活かすかという点が考え抜かれています。

 診療においてこうしたオンラインツールは非常時の代替手段としては使えます。いろいろ試みた結果、いま言えることは、オープンダイアローグとZoomは案外、相性がいいかもしれないということです。これはわたしにも意外だったんですが、参加メンバーが複数いることで、対話が立体的になる、という印象を持っています。もちろん対面には及ばないのですが、遠方のひとも参加できたり、患者が自宅から参加できたり、といったメリットもあります。これからは遠隔医療なども多く試されるようになるでしょうから、オンラインでの診療やカウンセリングがどこまで可能かについても深く考えていきたい。今回のコロナ禍は、それを詳しく研究するチャンスでもあると思うので。

コロナというフィルター


斎藤 わたしが暴力という言葉にこだわるのは、暴力をめぐる多様性を理解してほしいからなんです。学校が典型的です。休校期間が終わって子どもたちはみんな学校再開を喜んでいると先生は思っているかもしれません。でも、登校が苦痛な子もいっぱいいるわけですよ。学校ほど暴力に満ちた空間はないですから。さきほども言ったとおり、教育は関係性が重要で、臨場性にもとづく暴力を必要とする場面ですからね。「指導」なんて暴力そのものです。逆にオンラインでの先生の話を集中して聞けないのは、そこに暴力が働かないからだと思います。

 だから、先生方には生徒が学校に戻ることの辛さにも思いを馳せてほしい。学校は楽しいのだと決めつけるのでなく、苦痛な子もいる。けれども、苦痛だけど行きたい子もいるし、苦痛だから行きたくない子もいる。その反応が多様だということを想像してほしい。それらに対する配慮なしでは教育現場は悪い意味でどんどん暴力的になってしまいます。

吉川 同感です。大人の世界もまったく同じですね。斎藤さんの文章を読んで考えるべきだと思うのは、オフラインとオンラインの間にはさまざまなグラデーションがあるということです。

斎藤 そうなんです。実際、オフラインのときに仕事が捗らなかったひとがオンラインになったら仕事の効率が上がったということもあります。大多数のひとにとってはオフラインのほうが仕事は捗るという現実もありながら、一部のひとにとってはオンラインのほうがはるかに効率的に仕事が進むこともあったりする。その多様性に配慮して、これからの仕事のあり方を見直してほしいですね。

吉川 コロナ禍以前では、臨場性のよさが自明なものとしてありましたが、今回のことで、人類史上ほぼはじめてそこにある多様性が可視化されましたよね。そういう意味では、この「人は人と出会うべきなのか」というタイトルはすごく象徴的です。ひととひとは「出会わなくてもいい」ではなく、「出会うべきだ」でもない。半歩下がって、そもそもひとと出会うとはどういうことだったのか、という構えで議論を始めている。

斎藤 ITがなければ臨場性は問題になりません。「会う/会わない」しかないので。ITのおかげで現代は「会う/リモート/会わない」という3択が生まれた。コロナ禍は、IT化が進むなかでのパンデミックという特殊な状況の結果として、臨場性がない世界について考えるいいきっかけだとわたしは思っています。

 今回書いた4本の論考に共通するんですが、わたしはこのコロナ禍の異常な状況のなかで、いままでわれわれがあたりまえだと思っていたことへの懐疑が浮き彫りになったと思っています。いわば、コロナというフィルターを通して、どのようにわれわれの「あたりまえ」さが浮かび上がってくるのかに興味があります。

コロナ禍の精神医療、ウイルスと人間


吉川 そろそろイベントも終わりの時間に近づいています。お答えできる範囲でいいのですが、noteの第5回目以降ではどんなことを書かれる予定なのでしょうか。

斎藤 なかなかむずかしい質問ですね。毎回noteを書くたびに燃え尽きているので、まだなにもネタが思い浮かんでいないんですよ(笑)。

 ただ、今日のイベントでいくつかヒントをいただきました。ひとつはコロナ禍において、精神療法やオープンダイアローグがどう変わるのかというテーマです。さきほどオープンダイアローグについてお話しましたが、それについてはいま論じておくべきだという気がします。
     
 くわえて、ウイルスの社会文化的な受容についても考えてみたいですね。「コロナ・ピューリタニズム」でも言ったように、ウイルスは人間にとって原罪的なポジションにあるような、非常に興味深い存在です。目に見えないけれど、ほぼ共存に近い状態で人間の身体に食い込んでいる。たとえばウイルス学では、ヒトの胎盤にある絨毛細胞を構成する遺伝子が実はウイルス由来だとされていて、それを知ったときは非常に驚きました。母親にとって胎児は異物ですから、そのままにしていたら抗原抗体反応を起こして胎児は殺されてしまう。でも、この絨毛細胞のおかげで抗体が胎盤に入らないから胎児は殺されずに済んでいるんだと。つまりウイルスは人間の生の本質に関わっているわけです。

 逆に言えば、ウイルスもまた人間によって進化している。人間による開発や医療によって新しいウイルスが世界に登場して強毒化するという歴史も多々あります。だからウイルスの存在も人間なしには考えられない。その意味で、人間とウイルスは相互依存の関係なんですよね。安易に結びつけるのは危険ですが、このあたりは人文的なロジックから検討してみるとのもおもしろいのではないかと考えています。

吉川 なるほど。それは興味深いですね。ではつぎのnoteの更新を期待しています。

斎藤 はい、がんばります。

吉川 それでは今日は長い時間、どうもありがとうございました。

斎藤 こちらこそどうもありがとうございました。
 

2020年6月1日 東京、ゲンロンカフェ
構成=編集部
編集協力=黒嵜想

本座談会は、2020年6月1日にゲンロンカフェで行われたイベント「コロナ禍はこころと社会をどう変えたのか――倫理・トラウマ・時間」を編集・改稿したものです。

斎藤環

1961年、岩手県生まれ。1990年、筑波大学医学専門学群環境生態学卒業。医学博士。爽風会佐々木病院精神科診療部長(1987年より勤務)を経て、2013年より筑波大学社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理、および病跡学。著書に『「自傷的自己愛」の精神分析』(角川新書)、『映画のまなざし転移』(青土社)など。2013年、『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店)で第11回角川財団学芸賞を受賞。2020年、『心を病んだらいけないの?』(與那覇潤との共著、新潮社)で第19回小林秀雄賞を受賞。

吉川浩満

1972年生まれ。文筆家、編集者、配信者。慶應義塾大学総合政策学部卒業。国書刊行会、ヤフーを経て、文筆業。晶文社にて編集業にも従事。山本貴光とYouTubeチャンネル「哲学の劇場」を主宰。 著書に『哲学の門前』(紀伊國屋書店)、『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である 増補新版』(ちくま文庫)、『理不尽な進化 増補新版』(ちくま文庫)、『人文的、あまりに人文的』(山本貴光との共著、本の雑誌社)、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(山本との共著、筑摩書房)、『脳がわかれば心がわかるか』(山本との共著、太田出版)、『問題がモンダイなのだ』(山本との共著、ちくまプリマー新書)ほか。翻訳に『先史学者プラトン』(山本との共訳、メアリー・セットガスト著、朝日出版社)、『マインド──心の哲学』(山本との共訳、ジョン・R・サール著、ちくま学芸文庫)など。
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