書物から都市へ――原武史×市川紘司×長谷川香「都市と建築のポリティクスをめぐって」イベントレポート

ゲンロンα 2021年3月19日配信
 昨年(2020年)、ともに今までの研究の集大成として『天安門広場』を上梓した市川紘司と『近代天皇制と東京』を上梓した長谷川香。建築史・都市史の研究者である2人の若手研究者が、ともに大きな影響を受けたという政治学者・原武史を迎えるトークイベントがゲンロンカフェで開かれた。建築や都市計画が孕む政治性はどのように論じられてきたのか。市川と長谷川が作成した言説年表と3人が選んだブックリストをたどるうちに、空間と政治の交わりが見えてきた。(ゲンロン編集部)

 

都市というフィールド

 市川と長谷川はともに、学生の頃から原の著作に大きな影響を受けてきたという。とはいえ、2人が大学で学んでいたときには、人文・社会科学系の本を熱心に読む学生はまわりに多くはなかった。

 市川と長谷川が体感した学問の隔たりを表すかのように、「都市と建築のポリティクス*言説史年表」は、「建築・都市計画から」と「人文科学・社会科学から」の2列に分かれている。この年表をもとに前半の議論は進み、2つの領域でリストアップされた書物が結びつけられていった。

 

 原の政治学に2人が惹かれたのは、建築そのものだけではなく、都市というフィールドに注目したからかもしれない。

 ある建築を研究する場合には、建築家の思想の反映として読み解くのが定石だ。この場合には建築家という1人のアクターを考えればよい。

 いっぽう都市を研究する場合には、都市計画に様々な政治的・社会的立場のひとが関わることになる。加えて、じっさいに都市空間を使う市井の人びとなど、多様なアクターを考える必要がある。だから、都市研究は建築学というフィールドをこえて必然的に学際的になるはずだと市川は語った。空間に宿る政治性を発見する原の政治学は、そのようなときに大きな示唆を与えてくれるのだという。

 政治学者の原が空間に注目しようとしたのはなぜか。原は、丸山眞男を継承したテキスト解釈が政治学の主流であると述べながら、自分の方法論がどう形成されていったかを語った。

 大学時代に原は茨城を訪れた。そのとき原が注目していたのは昭和初期の超国家主義。血盟団事件や五・一五事件を起こしたメンバーに、なぜか茨城出身の人物が多いのが気になっていたのだという。

 血盟団の指導者・井上日召が住職をしていた護国寺(茨城県大洗町)を訪ねると、堂内には血盟団員たちの写真がずらっと並んでいた。今にも血盟団のメンバーが現れそうな空間だったと原は振り返る。しかし、そんな場所が残されていることは学者のあいだでまったく知られていなかった。

 そのとき原は、政治思想を考えるうえで、土地や場所のもっている磁力を考えなければならないのではないかと気づいたのだという。テキスト解釈だけでは捉えられない空間の力を、原はフィールドワークによって発見したのだ。

 

今に生きる江戸東京論

 日本では80年代に都市や都市史の研究が盛んになった。そのきっかけのひとつに、江戸・東京論ブームがあると市川はいう。

 東京を近代に新しく作り上げられたものと考えるのではなく、江戸からの連続で捉える視点。それが当時斬新にうけとめられたのではないか。江戸・東京論の一冊として陣内秀信『東京の空間人類学』を取り上げながら、長谷川はそう指摘した。『ブラタモリ』のような番組もその派生と捉えることができる。江戸と東京を重ねて見るのは、いまやポピュラーな文化になっている。

 

 こうした江戸・東京論からの影響を長谷川に問われると、原はそれとはむしろ距離を取っていたと答えた。原はむしろ、日本には様々な都市があり、江戸・東京を日本的な都市の代表と捉えるのは一面的ではないかと感じていたという。日本と西洋を比較するだけでなく、中国や韓国といった東アジアの国と比較する視点が必要なのではないかと原は付け加えた。

 江戸に対するロマンは現代にも息づいている。日本橋と首都高地下化の問題を市川が話題にあげた。日本橋には江戸の情緒というイメージが重ねられがちだ。

 1964年の東京オリンピックに合わせて建設された首都高速道路(首都高)は、日本橋の上を通っている。その景観が醜いとして、首都高の地下化を求める運動が起こった。いっぽう専門家の間では、首都高を高度経済成長期の重要なモニュメントとして捉え、醜さも含めてひとつの歴史的景観だと位置づける見方もあった。

 市川は、都市空間や景観についての議論が専門家と一般の人びとのあいだですれ違ってしまったことが気にかかるという。醜さも含めて歴史であるというロジックでは、「日本橋から空が見えたら気持ちいいよね」という一般的な感覚を説得できない。じっさい首都高の日本橋区域は地下化が決まり、2020年から工事も始まった(既存の高速の撤去は2040年を予定している)。

 加えて原は、そもそも日本橋が「江戸的なもの」としてイメージされることの不思議さも指摘した。現在の日本橋が完成したのは1911(明治44)年のこと。ほんとうに江戸の情緒を取り戻したいのならば、当時架かっていた太鼓橋でなくてはならない。

皇居前広場が見えなくなる東京

 イベントの後半では、3人それぞれがセレクトした本が取り上げられた。原は「『御威光』と象徴」(渡辺浩『東アジアの王権と思想』所収)を紹介。徳川政治体制のイデオロギーがはっきりと言説化されたものではないことを指摘していて、テキスト分析ではない政治学の方法論を示した仕事として重要だという。

 続いて市川が取り上げたのは貝島桃代・黒田潤三・塚本由晴『メイド・イン・トーキョー』だ。長谷川は、市川と原が寄稿した『atプラス25』を選んだ。特集は建築家・磯崎新の「東京祝祭都市構想」。次第に、議論は現代の東京に向かっていった。

 

 皇居前広場を知っているか。原は毎年ゼミでそう学生に尋ねるという。SEALDsの学生にも「デモをするならなぜ皇居前広場に行かないのか」と問いただしたことがあるそうだ。今やほとんどの学生は皇居前広場の存在を知らない。原はこの忘却された空間に注目し、そのものずばり『皇居前広場』という著作も発表している。

 いっぽう、長谷川によると、建築学科の卒業設計やスタジオでは皇居や皇居前広場を敷地に選ぶ学生が増えているという。卒業設計やスタジオでは、通常の授業のように課題を与えられるのではなく、学生が敷地や計画を一から考える。ただし、そこで皇居近辺が選ばれるのは、緑豊かな環境が残る場所としてであったり東京に残る巨大な空地でとしてであったりで、政治性は必ずしも意識されているわけではないという。

 なぜ皇居前広場は忘れられているのか。原は、東京から路面電車がなくなり、地下鉄が主要な交通機関になった影響が大きいという。路面電車しかない広島では、市民が原爆ドームを日常的に目にする。だから、8月6日午前8時15分、黙祷の時間になればだれもが原爆ドームの方角を向くことができる。

 市川も、電車によって作られる東京のイメージが現実と食い違っていることに同意を示した。市川はかつて東京藝術大学に勤務していた頃、藝大と東京大学(本郷キャンパス)は、電車でのアクセスを軸に考えると離れているように感じてしまうが、歩けばとても近いということを、はじめて意識したそうだ。

 見えなくなりつつある都市の政治性を発見するために、電車に頼らずに都市を歩いてみることが最初の一歩になりそうだ。都市と政治についての絶好のブックガイドにもなっている今回のイベント。書を読んで、街に出よう。(國安孝具)

 

 こちらの番組は、シラスでアーカイブを公開中。半年後の2021年8月16日まで、990円でご視聴いただけます。

原武史×市川紘司×長谷川香「都市と建築のポリティクスをめぐって――日本における空間のかたち」
(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20210216/

 

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