世紀のエンタメを支えた戦争の記憶と文体実験――鴻巣友季子×東浩紀×上田洋子「『風と共に去りぬ』とアメリカ」イベントレポート

ゲンロンα 2021年3月24日配信
 3月12日、『風と共に去りぬ』の新潮文庫版新訳の訳者で、『謎解き「風と共に去りぬ」』の著者でもある鴻巣友季子をゲンロンカフェに迎えてイベントが行われた(鴻巣はオンライン参加)。
 聞き手となったのはゲンロンの東浩紀と上田洋子。東は正月休みになにげなく『風と共に去りぬ』を手にとり、面白さにページをめくる手が止まらなくなったという。南北戦争期のアメリカ南部を舞台に女性の自立を描く同作は、「女性向け恋愛小説」というパブリックイメージには収まらない骨太の戦争文学だ――。
 この東の指摘に鴻巣も大きくうなずく。イベントでは、現代にも通じる作品の背景から翻訳者ならではの文体分析まで、多くのことが語られた。その番組の模様をレポートする。(ゲンロン編集部)

 

戦後70年のタイミングで書かれた「敗戦文学」

 まず話題になったのは、同作の「敗戦文学」としての側面だ。

 作品の背景となる南北戦争が行われたのは1861年から1865年。『風と共に去りぬ』(以下『風とも』)の原著が出版されたのは1936年。そのあいだには約70年の隔たりがある。鴻巣によれば、作者のマーガレット・ミッチェルは新聞記者としての経歴を持ち、当時の資料に片端からあたる「リサーチ魔」。なかでも過去の戦争を扱う「戦記」を得意としていた。『風とも』出版後には、「この登場人物のモデルはわたしの親戚ではないか」という手紙が殺到し、なかには訴訟を示唆するものさえあったという。

 

 上記の「70年」という時の隔たりは、いまの日本にとってもアクチュアルな意味を持つ。同作が刊行された1936年当時のアメリカ人が南北戦争に抱いていた距離感は、ちょうどいまわれわれ日本人が太平洋戦争に感じる「遠さ」と似ていたはずだと鴻巣は指摘するのだ。

 東もこの点に注目する。戦後70年というのは、戦争を体験した最後の世代が亡くなりはじめる時期。戦争の記憶が消えるか消えないかというこの微妙な時期は、記憶の美化が行われて歴史修正主義が強くなるタイミングでもある。ミッチェルが『風とも』を書いたアメリカは、南部の「大義」を再評価しようという保守反動の流れが台頭する状況にあった。

 南北戦争当時、北部と南部では工業力に大きな差があった。にもかかわらず、南部は精神論で戦争に突入し、都市や社会は徹底的に破壊された。『風とも』が生々しく描くのは、そのような精神面も含めた南部のありさまだ。「敗戦文学」という論点を提起した鴻巣は、同作で描かれる南部の精神を「竹槍論」になぞらえ、南部と日本を重ね合わせて読むという視点を提示した★1

 加えて鴻巣は、『風とも』の「都市小説」としての側面や「不動産小説」としての側面も指摘。もちろん、同作の人物描写やジェンダー観についての議論も大いに盛り上がった。それらの内容はぜひ動画を購入して確認していただきたい。

 

宝塚版『風と共に去りぬ』のぶっ飛んだ演出

『風とも』は、ヴィヴィアン・リー主演による有名なハリウッド映画(1939年、ヴィクター・フレミング監督)を含め、多くの翻案がされてきた作品でもある。そのなかで鴻巣と上田が口を揃えて「原作の精神にもっとも忠実」だと評価するのが、宝塚歌劇団によるミュージカル(1977年初演)だ。

 宝塚版のなにがすごいのか。それは、主人公・スカーレットが2人いることにある。つまり、通常の登場人物・スカーレットとその心の声を語る「スカーレットⅡ」が同時に舞台に立つのである。わかりやすいたとえで言えば、スカーレットがある会話で「そうでございますわね」と上品にうなずくシーンで、その横では「スカーレットⅡ」が「嘘ばっかり」と本心をぶちまけたりするということだ★2。そのような演出によって、心にもないことをさらりと口に出しつつ、さまざまな葛藤を抱えるスカーレットの複雑な性格を十全に描くことが可能になる。鴻巣と上田は、それが革新的かつ原作の核心を突いたものなのだという。

 ただ、そのようなうわべと本音の食い違いは多くの小説で描かれていそうなものでもある。だが、ふつう小説の舞台化でこれに似た演出が行われることはあまりない。どうして『風とも』についてはそんなことまでしなければならないのか。その理由は、後述する鴻巣による原作の文体分析に関わる。詳しくはそこで見ることにしよう。

 宝塚についてはもう一点、上田が「敗戦文学」の論点と結びつけるかたちでも議論を展開した。宝塚版『風とも』でも、戦前・戦後の南部貴族社会の描写は重要なパートを構成する。恋愛シーンだけでなくそのような側面をきちんと描く点においても、宝塚版は原作の精神を受け継いでいるという。上田によれば、これには昭和の宝塚を築いた演出家・植田紳爾しんじの存在が深く関わっている。1933年生まれで戦後の時代に10代を過ごした彼の演出作品には、ほかにも『戦争と平和』など、敗戦や銃後の人びとの描写を大切にしたものが多いと上田は指摘した。

 

ミッチェルの前衛的文体をどう訳すか

 イベント後半の焦点になったのが、鴻巣による『風とも』の文体分析である。鴻巣によれば、作者ミッチェルの文体はシンプルで読みやすいものでありながら、同時にジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフといった同世代のモダニスト作家たちと比べても引けをとらない複雑な仕掛けも施されている。そして、その中核にあるのが「自由間接話法」である。

「自由間接話法」とは、地の文に登場人物の声が溶け込む話法を指す。『風とも』は三人称で書かれた小説なので、基本的には地の文は作者ミッチェル(あるいは物語の語り手)の視点から語られている。それに対し、登場人物の発言はカギカッコでくくられる。

 しかし、ミッチェルはところどころで、三人称を主語にしたふつうの地の文に登場人物(おもにスカーレット)の心の声を忍び込ませてくるのである。それが自由間接話法だ。この話法を多用することによって、『風とも』は、作者の視点とスカーレットの視点をシームレスにつなげつつ、スカーレットの内的な心理を豊かに描いていく。先ほど見た宝塚版の「スカーレットⅡ」は、そのようなミッチェルの文体を舞台で再現するための工夫なのである。

 この自由間接話法は、文法的には一見ふつうの三人称と変わらない。文章が進むなかで視点がどこから切り替わっているのかは、口調や使われている語彙で判断するしかない。ミッチェルの文体は訳者泣かせの繊細なものでもあるのだ。さらに言えば、『風とも』ではスカーレットの心の声だけでなく、スカーレットによる「他人の心の声の推測」までもが地の文で書かれることがある(二重焦点化)。ここまで来ると識別の難易度はさらに上がり、さながら探偵のような緻密な読解が要求されることになる。

 イベントでは、鴻巣がじっさいの英文をいくつか提示しながら、どのように識別を行なっているのかを解説した。「鴻巣友季子翻訳教室」の開講である。ここで鴻巣は目から鱗の読解を連発。本記事冒頭のダイジェスト動画にもあるように、ある文章での「スカーレット・バトラー」という単語の使用についての解説に、東が思わず拍手を送る場面もあった。いったいなにがそこまですごいのか、それもまた動画で確認していただきたい★3


 このレポートでは、『風と共に去りぬ』が一般的なイメージとは裏腹にいかに複雑な作品であるかという話題に焦点を当てた。しかし他方、鴻巣訳『風と共に去りぬ』は滅法面白く読みやすいと東と上田は口を揃える。ぜひ、イベントのフル動画とともに世紀のベストセラーの世界を楽しんでみてほしい。(住本賢一)

 

★1 東いわく、この「敗戦」の論点は「現代アメリカのトランプ支持者がなぜ南軍旗を掲げたのか」という問題とも深く関わっている。それは現代の日本で一部の人びとが旭日旗に強い執着を示すこととも結びつけて考えられる。
★2 具体的な例として、小説の第2部の冒頭部、8章(アトランタ到着)から9章(バザー)に相当する場面を挙げておこう。宝塚版では、喪服に身を包んで未亡人らしく振る舞っていたスカーレットⅠの前に、華やかなドレスを着たスカーレットⅡが現れ、「その喪服が脱ぎたくてうずうずしているくせに。」と水を差す。その後、スカーレットⅡにけしかけられて、スカーレットⅠは未亡人にはふさわしくないはずのバザーに行くべく、嘘泣きまでしておばのピティパットを説き伏せる。
★3 鴻巣の具体的な読解に加えて、東は自由間接話法の問題を理論的なレベルに接続した。東によれば、自由間接話法はミハイル・バフチンが『マルクス主義と言語哲学』の最終章で主題として取り上げている。その議論はバフチン自身の「ポリフォニー」の概念とも密接に結びついており、文学と政治を結ぶきわめて重要な論点であるという。
(※★2作成:横山綾香)



シラスでは、2021年9月9日までアーカイブを公開中。ニコニコ生放送では、再放送の機会をお待ちください。

鴻巣友季子×東浩紀×上田洋子「『風と共に去りぬ』とアメリカ」
(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20210312/

 

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