ディズニーの自然すぎる自然描写――清水知子×土居伸彰×速水健朗「夢の国はいかに社会と向き合ってきたのか――『ディズニーと動物』刊行記念」イベントレポート

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ゲンロンα 2021年6月18日配信
 世界中の人々に夢と希望を与えてきたディズニー。アニメーション事業からスタートした同社は、テーマパーク事業や都市開発にまで手を広げ、絶えず進化を続けている。近年ではデジタル技術を大胆に取り入れた過去作品のリメイクなども精力的に行う。今年(2021年)『ディズニーと動物──王国の魔法をとく』を刊行したメディア文化研究者の清水知子は、ディズニーを考えることは、背後にある大衆文化を考えることにつながると言う。では、その分析から見えてくる社会の姿とはどのようなものか。 
 ゲンロンカフェでは「ディズニーと社会」をテーマに、清水知子とアニメーション研究家の土居伸彰、そして『都市と消費とディズニーの夢』の著者でもある速水健朗を招き、トークイベントを行った。同イベントの模様をお届けしよう。(ゲンロン編集部)
 

ディズニーの描く自然とは



 ディズニーについて著作を発表したばかりの清水だが、もともとは大衆文化を考えるうえでのヒントとしてディズニーに興味を持ったという。確かに、ディズニーはおよそ100年の歴史のなかで、その時々の社会情勢やテクノロジーの変化に合わせながら作品を送り出してきた。清水は『ディズニーと動物』を踏まえたプレゼンで、その分析を語り始めた。

 


 そもそも、ディズニーがアニメーションの制作を始めた1920年代は、すでにアメリカでは西部開拓がし尽くされ、人々にとって大自然が縁遠いものになってきた時代だった。そんな中、初期のディズニーアニメは、野生の動物たち、あるいは人間と親和的な関係を結ぶ動物たちの姿をスクリーンに描き出すことで、人間が切り離してきた自然/動物とのあいだの距離を解消し、融和と調和の感覚をもたらす「野生」のファンタジーとして機能することになった。

 しかし、そこで描かれる自然は倒錯している。ディズニーの『トゥルーライフアドベンチャー』(1948-1960年)は、自然の姿を写しとったドキュメンタリーではあるものの、動物たちの映像には技巧を凝らした編集が加えられていた。「自然らしさ」を演出するために、あえて人の手による演出がなされていたのだ。

 そうした態度は、「超実写版」という宣伝文句が掲げられた近年の『ライオン・キング』(2019年)にまで通底しているという。この作品では、VR空間に配置された自然や動物たちを通して臨場感あふれる「超実写」として作り直すという、二重にも三重にも倒錯した仕方で自然が描かれている。

現実をクリーンアップする



 土居はディズニーのこのスタンスを「クリーンアップされた現実を作る姿勢」と呼び、現実よりも現実らしくコンテンツを作り込んでいると分析する。現実の自然は、人間にとって脅威でもある。しかし、ディズニーはそのような厳しい自然を、人間が安心するような姿に無菌化している。そしてこれこそがディズニー特有の美学と言えるのではないか。土居はそう指摘した。そこには、社会の側の自然に対する屈折した欲望が見て取れる。

 清水のプレゼンではほかの事例も挙げながら、創成期から現代に至るディズニー作品を、社会の鏡として分析していった。『ディズニーと動物』を読む前にこのプレゼンを聞くと、同書の理解はより深まるように思う。

 速水は、ディズニーランドもまた「現実よりも現実らしい空間」を作り上げていると言う。敷地の外からは見えないように周到に設計された空間や、従業員(キャスト)に対する管理にその姿勢が表れている。また、ディズニー社がフロリダ州に創建した住宅街「セレブレーション」では、ゲーテッド・コミュニティとしての徹底した管理に加え、ゴミが人間の目に付かないような工夫などもなされている。つまり、コンテンツ以外の事業でも、ディズニーの「現実をクリーンアップする」という姿勢は一貫しているのだ。

 


 加えて速水は、ディズニーの低迷期にも関心を持っているという。現在ではピクサーやマーベルを買収し、業界のトップに位置するディズニーだが、すべてが順調に運んだわけではない。速水は、最先端のCGを取り入れたものの興行収入的には失敗に終わった『トロン』(1982年)を例に、「ディズニーの失敗」を語った。ディズニーが社会の欲望を色濃く反映し続けてきたとすれば、「暗黒時代」とも言われる80年代の低迷はなにを意味していたのか。今後さらに考えを深めていくつもりだという。

ディズニーがもたらす「ズレ」の感覚



 清水に引き続き、土居からは「ディズニー映画の名作とはなにか」と題したプレゼンがなされた。

 アニメーション史を語るうえで欠かせないディズニー映画だが、作品の方向性はさまざまで、評価基準も定まっておらず、「名作」を選ぶというのは難しい。では、ディズニー作品は歴史的にどう捉えられてきたのか。

 土居はまず、ロシアの映画監督エイゼンシュテインがディズニー作品に興味を示し、高く評価していたことを紹介した。ディズニーの作品はきわめてよく作り込まれている。それによって、観客は現実世界のことを忘却し、それぞれの世界に没入できる。エイゼンシュテインはこのように評価した。

 イベントで繰り返し話題に出たように、ディズニーは徹底して「現実をクリーンアップ」する。それを支えるのは、ディズニーが作り出す独特の世界観(=ロジック)だ。現実の世界よりも現実らしく見せるための方法論。土居はディズニー映画のその性質に、人間が自分たちが本当にいる世界とは異なる世界を現実として認識するヒントがあるのではないかという。そこに、ディズニー映画の可能性をがある。

 


 しかし土居は、そのような没入感をもたらすディズニーの魔術を評価しつつ、実際にはそのようにして徹底的に作り込まれた世界と観客の世界の間に、必然的に「ズレ」が生まれることも指摘した。どういうことか。

 たとえば、ディズニーの初期作品である『白雪姫』(1937年)は、自然描写がリアルすぎることによって、逆に現実とは異なる奇妙な世界体験を観客に与えてしまった。また『不思議の国のアリス』(1951年)の描写は、ほとんどドラッグのトリップのようで、日常とは全く異なる世界を見せる。これらの作品の「ツッコミどころ」とも言うべき特徴は、観客と作品との間のズレを表している。

 土居は、統一的な世界観を提示していると思われがちなディズニー作品のなかでも、そのような私たちの世界との「ズレ」をはっきりと認識させてくれる作品をこそ評価すべきなのではないかと結論付けた。徹底してクリーンアップされた内部空間に没入しつつも、同時にそこからのズレを認識する。そのような「没入しつつ距離を取る」態度こそが、ディズニーを真に楽しむために必要なのではないか。


 思えばこのイベント自体にも、「没入しつつ距離を取る」姿勢が見られた。清水も土居も速水も、熱狂的なディズニーファンではない。ディズニー作品を愛しつつ、そこから距離をとって客観的に論じる。イベント自体が、ディズニーとの付き合い方を提示してくれているかのようであった。

 話題は、ディズニー作品とジブリ作品、あるいはポケモンとの比較や、3人の好きなディズニー映画、ディズニーランドの楽しみ方など、さまざまに展開された。現在公開中の映画『クルエラ』やコロナ禍におけるディズニーリゾートなど、現在進行形の話題も扱われている。『ディズニーと動物』の刊行記念にふさわしく(?)、土居家の愛犬・アステちゃんが登場する一幕もあった。

 


 ディズニー好きも、ディズニーに親しめずにきたという懐疑的な人も、それぞれの発見があるイベントになっている。気になる方はぜひ動画で確認してみてほしい。(谷頭和希)


 シラスでは、2021年11月28日までアーカイブを公開。ニコニコ生放送では、再放送の機会をお待ちください。
清水知子 × 土居伸彰 × 速水健朗「夢の国はいかに社会と向き合ってきたのか――『ディズニーと動物 ――王国の魔法をとく』刊行記念」
(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20210531/
 
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