いま雑誌の意義はどこにあるのか ──「ゲンロンで働く大学院生で『思想』と『現代思想』を読んでみた」イベント直前レポート #学問のミライ

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webゲンロン 2023年1月16日配信
 2023年2月1日に、ゲンロンカフェは開業10周年を迎えます。それを記念してゲンロンカフェでは、ふたつの新企画、「ゲンロン・セミナー」と「学問のミライ」が始動します。どちらも「学問の面白さ」を引き出すことを目的とした対話形式の学術イベントで、お招きするのは前者は各分野の専門家、後者は若手研究者。聞き手を務めるのは、ゲンロンで働く大学院生たちです。
 1月25日(水)には、「学問のミライ」のプレイベントとして、「ゲンロンで働く大学院生で『思想』と『現代思想』を読んでみた」が開催されます。タイトルの通り、弊社編集部で勤務している大学院生たちで『思想』・『現代思想』という2つの思想誌を読みながら、雑誌メディアや学問についてさまざまに語りあうイベントです。
 以下に公開するのは、イベントの大きな論点になるであろう「雑誌を読むことの意義」や「これからの雑誌メディアには何が求められるのか」ということをテーマにした、登壇者の一人・植田将暉によるレポート。イベントの予習に、どうぞご覧ください。
 
青山俊之×植田将暉×國安孝具×住本賢一×栁田詩織「ゲンロンで働く大学院生で『思想』と『現代思想』を読んでみた」【学問のミライ#0】
(URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20230125
 雑誌といえばすぐに思い出すことがある。ゲンロンで自分が働くことになるとは想像もしていなかった時期に目にした、とある雑誌の一節だ。

 2019年12月、『群像』に掲載された新人評論賞の選評に、選考委員の東浩紀がつぎのような一文を書いている。

アカデミズムと批評はさまざまな点で異なるけれども、評者自身が批評文を書くときもっとも気にしているのは、視点の多様性というか話題の豊富さというか、ぶっちゃけていえば「手数の多さ」である。★1


 当時ぼくは学部の2年生で、まだ批評というものに憧れや期待をいだいていた。だから将来にそなえて勉強しておこうと、文芸誌の新人賞の選評に目をつけたのだろう。大学の図書館に行き、何年ぶんかの『群像』を取り出し読みあさったのをおぼえている。そのなかで、2019年がいちばん記憶に残った。

 その年、群像新人評論賞は「当選作なし」という結果に終わっている。とうぜん選評には選考委員たちの辛口のコメントが並んでいる。応募者には厳しい結果だが、「新人」未満だった大学生にとっては幸運なできごとだった。

 批評とはいかなるものかと鋭く問い直してみせる選考委員たちのコメントは、若い学部生にとってまたとない勉強の機会となった。たとえば「批評家になりたいなら、もっと手数を増やさないと通用しない」★2という東のひとことは、夢みがちな若い学部生の気を引き締めるには十分だった。

 けれども、問題は残っている。批評の手数を増やすためには、具体的になにをすることが必要なのだろうか。

手数の多さと雑誌の条件


 答えはすぐそばに見つかった。

 選評が掲載された翌々号の『群像』2020年2月号に、新人評論賞の選考委員をつとめていた東浩紀・大澤真幸・山城むつみの鼎談「いま批評を書くとはどういうことか」がおさめられている。そのなかで、批評の手数を増やすための方法として、東がこんなアドバイスを口にしている。

こういう現代思想を踏まえた文芸評論をやるのだったら、「思想」とか「現代思想」の表紙を毎月見るだけでも随分違うと思います。それだけで参照にする固有名が変わるので。大きな話をする以前に、そういう小さな努力が必要ではないか。★3


 この言葉は、学部生のぼくの脳裏にいたく焼き付いた。じっさい、ぼくはそれ以来、毎月、主要な雑誌の目次くらいはチェックするようになる。くわえて、手にとる本の幅も意識的に増やしている。よく売れている本や賞をとった本には、興味にかかわらず、とりあえず目を通しておくようになった。座談会のなかで東が述べた、つぎの言葉が突き刺さったからだ。「自分の好きな本ばかり読んでいるから、こういう文章になってしまう。評論や思想を志すのならば、最低限、幾つかの雑誌の表紙だけでも見ておけと言いたい」★4

 東の言葉は、批評家志望の新人たちにむけて語られている。ぼくもその一人だった。けれども、いま読み返してみると少し違った印象も受ける。批評を書くなら主要な雑誌くらいは毎号チェックして使える手数を増やしておけ、という東の言葉は、じつは、雑誌を読む者にとどまらず、雑誌を編む者にたいしても向けられていたのではないか。

 それは、東浩紀という批評家について考えてみれば、すぐさま納得のゆくことである。東自身、出版社を立ち上げ、『ゲンロン』という「批評誌」の編集長をつとめてきた。だから、かれが「批評」について語る言葉がそのまま「雑誌」について当てはまることは当然だとも言える。
 手数の多さは、批評の条件であるだけでなく、雑誌の条件である。1月25日のイベントでは、そのことを考えながら、『思想』と『現代思想』という──東のアドバイスにも登場した──ふたつの雑誌を読んでみたい。

 イベントにむけて道筋をつけておくために、ここでもうすこしだけ東の文章を読んでおきたい。冒頭に引用した選評で、東は「批評」をこのようにも定義づけている。

フランス哲学の話かと思ったら日本美術の話、そうかと思ったらドイツの歴史の話、そうかと思ったら……と意外なかたちで思考と連想の線がつながるのが批評文の醍醐味であり、その自由さこそが批評とアカデミズムを分かつもっとも重要な特徴でもある。


 これを雑誌の特徴として読み替えてみたい。すなわち、「意外なかたちで思考と連想の線がつながるのが雑誌の醍醐味であり、その自由さこそが雑誌のもっとも重要な特徴である」というぐあいに。

 あるいは、雑誌とは、さまざまな手で書かれた文章をひとつの冊子体にまとめ、読者に意外な思考のつながりを立ち上げるメディアであると定義できるのかもしれない。たとえば目次に目を通してみるだけで、いま世界では何が関心を集めており、どのようなことが論じられているのか、ある程度の見通しを得ることができる。雑誌は思考の地図を与えてくれるのだ。そしてその地図は、さらに新たな思考の線にもつながっていく。

 意図して雑多なテクストをあつめ、そこに新たな文脈や思考が立ち上がってくることをこころざすという条件を引き受ける「雑誌」。それは知の歴史にとって決定的に新しい装置や場であったのかもしれない★5。けれども、この思いつきを展開するのは別の機会にしよう──あるいはイベントで口走ってしまうのかもしれないが、ひとまず、ここでの問題はそのイベントである。

『思想』と『現代思想』はどこにつながるか


 1月25日(水)のイベントでは、ゲンロンで働く5人の大学院生で、『思想』と『現代思想』というふたつの雑誌を読んでみる。それらの雑誌は、どのような思考の線をつなげているのだろうか。

 たしかに『思想』と『現代思想』はその名のとおり「思想誌」と呼ばれるジャンルの雑誌である。けれども、両誌とも「思想」や「哲学」という専門分野に閉じこもってはいない。

 まず、1921年(大正10年)に創刊された『思想』(岩波書店)は、その創刊号の冒頭で以下のように宣言する。

 時好に投じ流行の問題を捕へて読者の意を迎える雑誌は少なくありませぬ。また専門の学術雑誌も今以上に殖える必要はなさそうに思はれます。しかし時流に媚びずしかも永遠の問題を一般の読者に近づけようとする雑誌は、今の日本に最も必要であって同時に最も欠けているものではありますまいか。[……]
「思想」は或一つの主張を宣伝しようとするのではありませぬ。苟くも真と善と美に奉仕する労作は、いかなる立場いかなる領域であっても、これを集録してわが国人の一般教養に資したいと考えて居ります。★6


 つづいて、1973年(昭和48年)に創刊された『現代思想』(青土社)では、「編集後記」がつぎの文章で始まっている。

いま、ぼくらの周囲には、さまざまな価値観、さまざまな真理像がバラバラなかたちで、脈絡もなく併存しあっている。そして、このごろ、そのことの不自然さが多くの人びとに指摘されはじめている。★7


 そのうえで言及されるのは、「個別科学を通底する真理のBoden[基盤]が失われつつあることへの危機感」や「人文科学的原理と自然科学的原理の底を通じて流れる地下水をどうにかして掘り当てようとする」問題意識などである。
 『思想』と『現代思想』は、出版社も、創刊時期も、掲載される論考の雰囲気も、かなり異なる雑誌である。しかしながらどちらの雑誌も、学問や思想が細分化されていく時代にあって、その状況にあらがい、「思考の線をつなげる」ことをこころざして創刊されている。

 さらに踏み込むなら、『思想』と『現代思想』はどちらも、思想分野の「総合誌」を目指してつくられた雑誌であると言えるかもしれない。『現代思想』にはその方向性がより強くあらわれているようにも見える。創刊号のテーマは「現代思想の総展望」であり、それは以降、いくつかの年の1月号にも受け継がれている。そこでは、人文学のみならず、社会科学や自然科学の書き手たちが集まり、幅広い分野の知のありようが紹介される。

 同時代の思考について、分野をこえた見通しを与えること。それはまさしく、雑誌の条件を引き受けた誌面づくりである。

 それでは2022年の『思想』と『現代思想』はどうなっているのか。

 感染症や戦争、経済不安など、社会が揺さぶられ、目まぐるしく変化する時代にあって、思想誌はいかなる目次を組み、どのような論考を載せてきたのか。いま思想や哲学の分野では何が論じられ、または何が論じられていないのか。雑誌はどのような役割を果たすのか。

 そのさきに、わたしたちの社会や思想、はたまた「学問の未来」も見えてくるように思われる(25日のイベントは「学問のミライ」というゲンロンカフェの新企画の第0回でもあるのだ)。2022年の『思想』と『現代思想』を読んでみながら、そんな大きな問いについても話し合ってみたい。

 



 繰り返すまでもなく、これらの問いはゲンロン自身のものでもある。

 25日のイベントに登壇する5人の大学院生は、みなゲンロン編集部に勤務しており、批評誌『ゲンロン』の編集に(補佐的に)かかわっている。そしてゲンロンは、領域横断的な「知のプラットフォーム」の構築を目指してつくられた会社と雑誌である。

 だから、「いかにして読者の思考の線を意外なかたちでつなげるか」という問いは、ゲンロンで働く大学院生たちが実際に頭を悩ませていることでもある。今回のイベントは、「思想誌を読んでみた」という抽象的なタイトルとは裏腹に、じつは意外とアクチュアルな内容になりそうなのだ。

 そのようなわけで、『ゲンロン』の読者諸氏、ゲンロンカフェの観客のみなさまに、ぜひコメント欄から議論に参加していただきたいとも考えています。雑誌や学問の未来について、ぞんぶんに語り合おうではありませんか。みなさまのご視聴をお待ちしています!(植田将暉)

 




★1 東浩紀「選評」(第63回 群像新人評論賞)、『群像』2019年12月号、148頁。

★2 同上。

★3 東浩紀、大澤真幸、山城むつみ「いま批評を書くとはどういうことか」、『群像』2020年2月号、203頁。

★4 同上。

★5 一般的に近代の政治や公共性を支えたメディアは新聞であると言われる。しかし、より決定的な影響を近代の言説空間に与えたのは、「新聞の批評」としての雑誌メディアの登場だったのではないかと筆者は考えている。たとえば、「雑誌 magazine」という単語をはじめて定期刊行物に用いた1731年創刊のThe Gentleman’s Magazineはロンドン中の新聞から、ニュース自体だけでなく、出来事への論評をあつめ掲載している。そのような抜粋や要約、批評といった実践の果たした役割は、より注意深く検討されるべきだろう。また雑誌メディアが学問に与えてきた影響の無視できなさは、まず研究者なら誰しも直感的に理解できることのように思われる。

★6 『思想』創刊号(1921年10月)、岩波書店、1921年、表紙裏。

★7 N「編集後記」、『現代思想』創刊号(1973年1月)、青土社、1973年、318頁。
 
青山俊之×植田将暉×國安孝具×住本賢一×栁田詩織「ゲンロンで働く大学院生で『思想』と『現代思想』を読んでみた」【学問のミライ#0】
(URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20230125

1 コメント

  • teppeki772023/01/25 02:18

    本を読んでいると偏りがでて、自分の関心がない分野も手を出したいと思うものの結局また自分の関心のあるものに手を出してしまうというのを繰り返している。最近になって雑誌を手にとるようして、いろんな角度から社会を見てみようと試みているので、雑誌の役割や思想誌の変遷など聞ける有意義なイベントになるのではないかと期待しています。

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