なぜ人間にとって「遊び」は「要」で「急」なのか?──ゲンロン・セミナー第1回「遊びを哲学する」事前レポート

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webゲンロン 2023年2月2日配信
 5人の先生方の講義によって一つのテーマを深めていく新たな教養講座「ゲンロン・セミナー」。お招きするのは各分野の第一線で活躍する研究者のみなさまで、その聞き手を務めるのはゲンロンで働く大学院生たちです。「webゲンロン」では、各回の開催前に聞き手による「事前」レポートを公開していきます。
 第1回は2023年2月11日、古田徹也先生による「遊びを哲学する──日常に息づく言語ゲーム」。聞き手を務める栁田詩織による事前レポートです。
 
古田徹也 聞き手=栁田詩織「遊びを哲学する──日常に息づく言語ゲーム」(URL=https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20230211
「ゲンロン・セミナー」第1回の聞き手の栁田と申します。

「webゲンロン」ではこれまで、さまざまなイベントの熱をより多くの方にお伝えするためにイベントレポートを公開してきました。しかし今回の企画は新たな「教養講座」。むしろかんたんな「予習」ができたほうがよいのでは?という考えから、毎回セミナーの「事前」レポートをお届けすることになりました。

 



 昨年、まだ残暑の厳しい某月のこと。東浩紀と上田洋子も交えた社内会議で、セミナーの立て付けとテーマが決まりました。つぎに、どなたにどのような講義をしていただくかを考えたとき、やはりウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」は外せないだろう、との声が。第1回は、満場一致でこのテーマに決まりました。

 遊びといえばゲーム、ゲームといえばウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」……というと、単純な連想のように思われるかもしれません。しかしこの「言語ゲーム」という概念は、今回のセミナーのテーマである「遊び」全体を見わたすポテンシャルを秘めています。古田先生からいただいたメッセージをお読みください。

【講師の古田徹也先生より】
「遊び」は、私たちにとってきわめて身近なものですが、「遊びとは何か」とか、あるいは、「遊びは私たちの生活や社会においてどのような意味をもつのか」などとあらためて問われると、それに答えるのは決して容易ではありません。
 
〈1000分で「遊び」学〉の第一回目となる本講座では、まず前半で、「遊び」研究のまさに画期を成したホイジンガとカイヨワの著作、『ホモ・ルーデンス』および『遊びと人間』を主に読み解きながら、「遊び」の特徴とはどのようなものか、その基本を探っていきます。
 
そのうえで、後半では、言葉が織り込まれた私たちの日々の実践を「シュプラッハ・シュピール(Sprachspiel)」と名づけて探究するウィトゲンシュタイン哲学の核心を解説します。
「シュプラッハ・シュピール」は一般に「言語ゲーム」と訳されますが、「シュピール」は狭義の「ゲーム」だけではなく、それこそ「遊び」や、あるいは「演技」なども意味する、非常に多義的な概念です。そして、ウィトゲンシュタインの議論にも、この多義性が強く響いています。
 
私たちの言語的実践を「シュピール」として理解することは、私たちの生活を「遊び」とそれ以外のものとの境界ないし〈あわい〉において捉えることにつながります。その道筋を具体的にたどることにより、人間という存在に関して何が見えてくるのかを、聞き手の栁田詩織さん、それから参加者の皆さんと一緒に確かめ、考えたいと思っています。


「遊び」は、人によって持つイメージが大きく異なることばかもしれません。「あいつは遊び人だ」のように悪い意味で使われることもあれば、コロナ禍下においては「不要不急のもの」として退けられるものともなりました。いっぽうで、古田先生が講義前半で取り上げられる予定のホイジンガやカイヨワは、人間の文化全体が花開いた根幹に「遊び」があると喝破しています。

 すこし寄り道をしますと、私の専門である近代ドイツの哲学者・カントもまた、私たちが美しいものを美しいと思うのは、「想像力と悟性の自由なたわむれ(Spiel, 遊び)」が生じるからだと述べました。私たちが通常、ものを見て「これは机だ」と判断するときには、ものを判断する力である「悟性」がそれをきちっと客観的に見分けます。けれども、必ずしもものが目の前になくてもなにかを想像できる「想像力」が関わることで、それを「美しい」とも感じることもできる、とカントはいうのです。たとえば、ある花を見て「この花は白い」「花びらが6枚ある」というふうに認識するだけでなく、想像力とともに受け取ることで、「この花びらの曲線は、客観的な概念ではうまくいいあらわせないがとにかく美しくてきれいだ」と思うことができます。

 ものをあるがままに受け取るだけではなく、想像力による「揺らぎ」や「余地」がくわわってこそ美が生まれてくるのだとすれば、「遊び」は美術や芸術にも関わってくるテーマであるといえるでしょう★1

 



 その「余剰」とも捉えられる遊びを、私たちの日常の実践にも見出したのがウィトゲンシュタインです。彼の後期の著作『哲学探究』では、次のような例がすべて「言語ゲーム」に含まれるとされています。

命令する、そして命令に従って行動する──
対象をよく見て、あるいは測定して、記述する──
仮説を立て、検証する──
物語を創作し、朗読する──
輪舞をしながら歌う──
冗談を言う、小話をする──
ある言語を別の言語に翻訳する──
頼む、感謝する、呪う、挨拶する、祈る。
(鬼界彰夫訳『哲学探究』§23より一部抜粋)


「小話をする」や「歌う」は、ことばと「遊び」の範疇に入るといえるかもしれませんが、「検証をする」「翻訳する」などの知的活動や「感謝する」「挨拶する」といった日常のなにげない振る舞いまでも言語ゲームに当たるとは、いったいどういうことでしょうか。これだけ多様な例が「言語ゲーム」の一部であるなら、私たちの日常のあちこちに「遊び」がひそんでいるということができそうです。

 古田先生のコメントによると、そもそも「シュピール(Spiel, 英語ではplay)」という言葉には、「遊び」だけでなく「ゲーム」や「演技」などさまざまな要素が含まれるそうです。当日は古田先生とともに、言語ゲームの特徴を確認しながら、ひとつの側面に還元されない「遊び」の多様さ、ひいては人間のあり方を考えていければと思います。

 



 以上、聞き手の栁田が講義の見どころをお伝えしました。私は哲学・倫理学を専門としていますが、「遊び」については詳しくありません。思いつくのは、昨年のゲンロン社員旅行に向けておぼえ始めた麻雀や、最近飼い始めた猫と遊ぶこと……ですが、そんな身の回りの出来事から哲学を始めることもきっとできるはず。

 古田先生もまた、『いつもの言葉を哲学する』『このゲームにはゴールがない』などの著作で知られているように、いつもの日常の光景から哲学を始められています。「最近遊んでないなあ」という方も、いままさに何かに熱中しているという方も、それぞれの日常や実践につながるヒントが得られる回になると思います。みなさんのご参加をお待ちしております。

 


★1 カントの「美」について気になった方は、こちらのイベントレポートもぜひお読みください。「近代の謎としての「美的なもの」に迫る 小田部胤久×宮﨑裕助「カント『判断力批判』からみる美学史と現代思想」イベントレポート(関西弁)」URL=https://webgenron.com/articles/article20201209_03/

1000分で「遊び」学 #1

遊びを哲学する──日常に息づく言語ゲーム
2023年2月11日
ゲンロン・セミナー第1期
遊びを哲学する─日常に息づく言語ゲーム
No.開催日登壇者講義テーマ
第1回2/11(土)古田徹也「遊びと哲学」
第2回3/26(日)山本真也「遊びと動物」
第3回4/22(土)梅山いつき「遊びと演劇」
第4回5/13(土)池上俊一「遊びと歴史」
第5回6/17(土)三宅陽一郎「遊びとAI」
第6回7/1(土)全講義をふり返るアフターセッション

※各回とも14時開始予定

第2回~第6回の通し券・配信つき通し券を購入する(Peatixへ)
「ゲンロン・セミナー」全体の情報は、こちらの特設ページをご覧ください!
https://webgenron.com/articles/genron-seminar-1st/

栁田詩織

1993年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。駿河台大学などで非常勤講師。専門は哲学・倫理学。ゲンロン編集部所属。

1 コメント

  • teppeki772023/02/03 13:47

    当日は現地で参加予定です。 このシリーズには学問の「正しさ」を超えて、「楽しさ」が得られるような機会になるのではと期待しています。当日が大変楽しみです!

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