ゲンロンカフェ選書コメント(3)|上田洋子

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ゲンロンα 2021年3月19日配信
 2020年8月のゲンロンカフェリニューアルに際して、ゲンロンやゲンロンカフェに馴染みの深いみなさまに、カフェの本棚に置く書籍を選書いただいています。本記事では、ゲンロン代表、上田洋子の選書リストと選書コメントを公開します。ロシア文学から日本の戯曲まで、これまでに鮮烈な読書体験を与えてくれた書籍をご紹介。思わず気合いの入りすぎてしまった、本をめぐる6000字のエッセイをお楽しみください!
 ほかの選書者によるリストはこちらからご覧いただけます。

■ 上田洋子

No.書籍名著者出版社
1セカンドハンドの時代
──「赤い国」を生きた人びと
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著、松本妙子訳岩波書店
2瞳孔の中
──クルジジャノフスキイ作品集
シギズムンド・クルジジャノフスキイ著、上田洋子、秋草俊一郎訳松籟社
3ヴェネツィア・水の迷宮の夢ヨシフ・ブロツキー著、金関寿夫訳集英社
4劇的なるものをめぐって
──鈴木忠志とその世界
早稲田小劇場+工作舎編工作舎
5ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(ゲーテ著、山崎章甫訳岩波文庫
6白痴(ドストエーフスキイ著、米川正夫訳岩波文庫
7ねこのおうち柳美里河出書房新社
8ドストエフスキーの詩学ミハイル・バフチン著、望月哲男、 鈴木淳一訳ちくま学芸文庫
9プッシー・ライオットの革命
──自由のための闘い
マリヤ・アリョーヒナ著、上田洋子監修、aggiiiiiii訳DU BOOKS
10トム・ストッパード(1)
コースト・オブ・ユートピア──ユートピアの岸へ
トム・ストッパード著、広田敦郎訳ハヤカワ演劇文庫
11戦争と平和(12345・6)トルストイ著、望月哲男訳光文社古典新訳文庫
 
【上田洋子による選書コメント】

 書棚に並んでいる本たちには雑多なものが蓄積されています。物語、事実や歴史の記録や改変、思想、宗教、数式、料理のレシピや動物の骨格、美的価値観の提示、そして時空を超えた複数の読み……。わたしは子どもの頃から図書館が大好きでした。考えてみると、ものとしての本や、本を読むという行為だけでなく、本の詰まった書棚から背表紙だけをみて本を選び、取り出すという行為がすでに好きなのかもしれません。本を開いてみたとき、その本を借りたいのかすぐに判断できなくて、しばらく読んでいるうちに、気づいたら止まらなくなっていたりするあの感覚も。

 今回はわたし自身がこれまでの人生で夢中になって読み、読んだときの感覚がいまだに残っている本から何冊かを選びました。読書の後に残るものは本の内容だけではない。「夢中で読んだ」という身体的な感覚も、何十年を経ても忘れないものです。

 ここに紹介したのは、わたしの専門であるロシア文学、そして演劇を中心に、人生における強烈な読書体験として記憶に残っている本たちです。なお、リストの順番と、ここでの紹介順は対応していません。

 


 ベラルーシのノーベル賞作家アレクシエーヴィチの『セカンドハンドの時代』は、旧ソ連地域のさまざまな出自のさまざまな人々へのインタビュー集です。複数の民族からなる大国・ソ連が崩壊した後、人々が味わった喪失感や開放感、変化へのとまどいや歓迎、国が分かれて露呈した民族対立や差別などが、ひとりひとりの日常とともに描かれています。本書は1991年から2001年、2002年から2012年の二部構成になっています。つまり、ソ連崩壊直後の混乱の10年と、社会が少しずつ落ち着いていくつぎの10年に、それぞれその時代を生きる人々の思いが、率直な普段使いの言葉で語られているのです。たくさんのエピソードの中には、現在のアルメニアとアゼルバイジャンの対立の理解につながるような、虐殺の話も混ざっています。

 タイトルの「セカンドハンド」は、生活様式が一変する経験をした人間の喪失と回復を描く上でキーワードとなっています。ソ連崩壊後は経済が混乱し、そこで流通する衣類や家具、車などはセカンドハンド=中古がほとんどでした。わたし自身も1995年のペテルブルグ留学では蚤の市で安く買ったムートンのコートで極寒の冬をしのぎ、また2000年のモスクワ留学では、「手から手へ Из рук в руки」という新聞版メルカリみたいなものを介して中古の棚を手に入れたりしていました。けれども、当時の旧ソ連圏にとって中古だったのは、具体的な「もの」だけでしょうか。ずっと禁止されていた欧米文化、それに経済体制もやはり、他者がすでに使い古したものだったはずです。だから、『セカンドハンドの時代』は、他者のお古を活用することで、生活やアイデンティティを取り戻そうと努力している人々の記録だといえるのではないかと思います。国家という概念が人間にどういった意味を持つのか、ひとりひとりの人生のディテールから考えさせられる本でした。

 


 柳美里さんの『ねこのおうち』を読んだときには、アレクシエーヴィチの諸作品に描かれる「小さき人 маленький человек」の物語が、猫と人間の世界で展開されているように感じました。ロシア文学(ロシア語で書かれた文学)における「小さき人」の系譜とは、ゴーゴリからドストエフスキー、チェーホフやゴーリキーの『どん底』、そして現代へと続く、大きな物語を担わない、社会の周縁にいる人々に焦点を当てた流れです。最近全米図書賞翻訳部門を受賞した『JR上野駅公園口』や、南相馬の人々が登場する『町の形見』などもそうですが、柳さんの、現実に取材しつつ、死や喪失をとおして人間の生を強烈に突きつけてくるその言葉のあり方は、アレクシエーヴィチと比較できそうです。『ねこのおうち』では、猫と人間という異種の関わりが、人間同士の分かり合えなさと孤独、それでもともに暮らすことの意味を伝えてくれるように思います。最近の柳さんの作品を読んでいると、下級官吏が外套を新調する、という小さな、けれども本人にとっては大きな出来事を描いたゴーゴリの『外套』と、ノルシュテインによるそのアニメ映画版を想起します。

 


『瞳孔の中』のシギズムンド・クルジジャノフスキイは1920-30年代に活動した哲学的短編を得意とする作家で、その作風は西欧のモダニズムの流れにあります。ソ連のイデオロギーに迎合するタイプの作家ではなかったため、当時はまったく本を出すことができず、せいぜいエッセイが雑誌に掲載される程度でした。ところがクルジジャノフスキイは圧倒的にトークがうまく、彼が文学サロンや劇場などで行なっていたレクチャーや自作の朗読は人々の記憶に残り続けます。活字化されたいくつかの論考やエッセイとトークの力がそうした記憶をつなぎ、加えて彼を信じた妻アンナ・ボフシェクの尽力で手稿が国立文書館に保管されたいたおかげで、ペレストロイカ期についにこの作家の本が出版され始めました。わたしの目下唯一の翻訳書です。

 


 ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』は、女優に恋をした若きヴィルヘルムが、旅の劇団に入って、俳優兼演出家のようなことをしながら人生を学ぶ話です。子どもの頃の人形芝居上演の試み、同時代ドイツの演劇状況、『ハムレット』の解釈など、要所要所で演劇をめぐるエピソードを交えて、物語が展開されていきます。しかし、天真爛漫なヴィルヘルムは失敗の連続をとおして現実に目を向け、演劇を捨てて、社会のあるべき理想の姿を追求するようになります。この作品では、主人公が演劇の道に入って旅に出るきっかけとなったのも女性であれば、また、社会の理想を体現する役割を果たすのも女性たちです。その中のひとりであるミニヨンという孤児の少女の名前は、『白痴』を構想していた頃のドストエフスキーのノートでも主人公のひとりの名前として言及されています。『ミニヨン』という小説の構想もあったようですが、実現されませんでした。

 


 時代は変わりますが、現代ロシアのアクティヴィスト、マリヤ・アリョーヒナの自伝『プッシー・ライオットの革命』も、主人公の成長の物語として読むことができます。「プッシー・ライオット」はフェミニストのアート・アクティヴィズムのグループです。2012年、クレムリンのお膝元の教会で反プーチン政権・反キリル府主教のパンクソングを歌うパフォーマンスを行い、その動画をネットで流したことで主要メンバーが逮捕されます。アリョーヒナはもうひとりの主要メンバー、ナジェージダ・トロコンニコワとともに、宗教信者を侮辱したフーリガン行為の咎で2年の実刑判決を受けました。この本では、パフォーマンスの稽古から釈放までの様子が詩的に語られています。拘置所や収容所で他の囚人たちと出会い、思索し、先人に学び、行動するアリョーヒナの等身大の模索には誰もが勇気づけられるでしょう。獄中の現実空間と彼女の夢想が交錯する中、そこに読書の話が散りばめられるのも魅力です。

 


 ロシアには囚人になった知識人が少なくありません。ドストエフスキーもそのひとりですが、ドストエフスキー論の白眉『ドストエフスキーの詩学』の著者ミハイル・バフチンもやはり流刑の憂き目にあい、長いあいだ首都圏で活動することができませんでした。この本は流刑直後の1929年に初版が刊行されるも、時代の問題で限定的な影響しか持たなかったのが、ポスト・スターリンの雪解け期、1963年に大幅に加筆した増補版が出て、世界各国で翻訳されることになります。複数の声が等価に並立する「ポリフォニー」や、両義的な価値観が提示される「対話」「カーニヴァル」などの概念は、文学解釈のみならず、現実の社会におけるなんらかの意見や自分の立ち位置を考える上でも参照できるものです。ちなみにわたしは学部では語学を学んでおり、文学の授業はほぼなく、文学理論に触れたのはこの本がはじめてでした。修士論文は「『白痴』と笑い」というテーマで書いたのですが、無意識だったものの、テーマの選択の時点で完全にバフチンの影響下にあったようです。大学院の試験にむかう新幹線の中で『饗宴』を読んだ記憶がありますが、思えばこれもバフチンの影響でした。

 


『白痴』は、ドストエフスキーがルナン『イエス伝』などにも影響を受けつつキリストのような人間を描こうとした作品で、「人が人を救えるか」がひとつのテーマになっています。人間関係、とくに若者たちの恋愛の描かれ方が巧みで、かつ、「とにかく素晴らしい人 положительно прекрасный человек」としての理念的な主人公が繊細に具現化されています。さらに、ペテルブルクと郊外の別荘地ツァールスコエ・セロという二つの街を行き来しながら、偶然にまた唐突に人が出会ったり集まったりして対話が展開されるのがなんとも演劇的です。

 ドストエフスキーはデビュー作の書簡小説『貧しき人々』からすでに、恋愛の幸せと滑稽さ、小さな非日常感とその喪失を巧みに描いています。おなじくペテルブルクを舞台にした悲恋の物語『貧しき人々』も、『白痴』とあわせて読んでみて欲しい一冊です。

 


『劇的なるものをめぐって』は、早稲田小劇場の伝説的な演劇作品の記録です。鈴木忠志さん演出、白石加代子さん主演のこの劇では、狂気に陥った女性が、鶴屋南北の『桜姫東文章』の桜姫と自分を重ねていく。そこにベケットや歌謡曲がコラージュされ、極限状態の人間の情念がギュッと詰まったポストモダンな作品です。台本には頭注と脚注があり、頭注には原作との比較や音楽などの具体的な注記が、脚注には演出上のコメントが書かれています。この作品の上演をめぐる演出家の言葉、主演俳優の言葉、対談、劇評、さらには同時代の世界演劇史年表(貴重!)も収録されており、作品の記録に対する強い執念が伝わってきます。

 気軽に動画撮影ができるようになった現在、演劇をいかに記録するかという問題がとくに意識される機会は減っているのかもしれません。しかし、たとえば20世紀前半のロシア・ソ連の演出家メイエルホリドは、演劇上演に関する記録を猛烈に取り続け、膨大なアーカイブを残しています。その中には、観客が公演中、どこで拍手をしたか、どこで笑い、どこで咳をしたかなどの記録も含まれていました。上演をいかに記録するかという問題は、演劇というジャンルの存在論の根幹に関わるものであり続けているように思います。ちなみに、歌舞伎の演目を現代劇として上演する「木ノ下歌舞伎」は、演目ごとに上演台本・補綴・注釈を記録して書籍化しています(木ノ下歌舞伎叢書)。この、歌舞伎の戯曲を現代によみがえらせる劇団が、『劇的なるものをめぐって』と近い形式の本を作っているのは興味深いです。

 


 戯曲からトム・ストッパード『コースト・オブ・ユートピア』を紹介します。トム・ストッパードといえば、ハムレットのパロディである『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』が有名です。彼が監督をつとめ、ゲイリー・オールドマンとティム・ロスが主演した同作の映画版は高い評価を得ました。『コースト・オブ・ユートピア』は、19世紀ロシアの亡命思想家たちを主人公にした長編群像劇です。亡命してロンドンで出版社を営んでいたゲルツェンが主人公で、『向こう岸から С того берега』という彼の著書がタイトルの由来です。検閲の厳しいロシアでは、知識人は亡命を余儀なくされることがしばしばあります。じつは晩年のトルストイも、社会的な影響が大きくなりすぎたせいで政府に疎まれ、ロシア正教からは破門されています。作家の秘書チェルトコフは亡命を余儀なくされ、ロシアでは発禁となったトルストイの文章をロンドンで出版していました。『コースト・オブ・ユートピア』は三部構成で、1833年から68年までの35年を描いています。ゲルツェンやベリンスキー、バクーニンら歴史上の人物が生き生きと対話をする中で歴史を味わうことができる佳作で、上演ではなく読書でも楽しめます。

 


 そして最後に、詩人ヨシフ・ブロツキー『ヴェネツィア・水の迷宮の夢』を。アレクシエーヴィチもそうですが、ブロツキーもノーベル賞作家です。そして、ブロツキーも亡命作家です。1960年代に、職を持たずぶらぶらしているとして逮捕されます。その後、1970年には亡命を余儀なくされて、アメリカに移住することになります。昨年公開された『ドヴラートフ レニングラードの作家たち』という映画にブロツキーが登場していますが、この作品に寄せたエッセイで亡命の歴史的な事情を紹介しているので、よければ読んでみてください。

その夜は強い風が吹いていた。なにに目を留めたというわけでもないのに、突然恐ろしいほどの幸福感につつまれた。ぼくにとっては「幸せ」と同じ意味を持つ、凍った藻の匂いを吸い込んだのだ。ある人にとってはそれは刈り取ったばかりの草、あるいは干し草の匂いかもしれない。また別の人にとってはクリスマスの樅の木やオレンジの香りかもしれない。ぼくにとってはそれは凍った藻の匂いだ――その言葉の結合から生まれる擬声的な響きのせいだろうか(ロシア語で、藻はあの素晴らしい vodrosiliヴォドロスリという言葉)★1


 藻の匂いは、海と水路の街の匂い、ブロツキーの故郷レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の匂いです。原題は「Watermark」。水の標を読みながら、ヴェネツィアとペテルブルクを同時にめぐる旅。英語で書かれたものですが、英語の裏にはロシア語があり、散文の言葉の裏には詩がある。金関寿夫さんの翻訳も素晴らしい、珠玉のエッセイです。

 


 本当に最後にもうひとつ、トルストイ『戦争と平和』をリストに追加したいと思います。わたしは中学3年生のときに宝塚歌劇をつうじてこの作品に出会いました。本で読んだのは高校1年ですが、なによりも、人類のすべての個人が歴史の歯車に参加しているという壮大な思想にすっかり取り憑かれ、授業中もやめられずに本を読み続けたのを覚えています。先日、ゲンロンカフェのイベントで鴻巣友季子さんにお話しいただいたミッチェルの『風と共に去りぬ』もそうですが、恋愛の物語を読んでいるはずが、気がついたら人類の問題を考えていた。月並みかもしれませんが、それこそが文学、そして文化の力でしょう。文学や文化的なコンテンツは、さまざまな誤配を生み出すことができる世界、予期せぬ出会いをつねに秘めているワンダーランドで、アクセスしさえすれば、莫大かつ複雑な世界がそこに広がっているのです。

★1 ヨシフ・ブロツキー『ヴェネツィア』、金関寿夫訳、集英社、1996年、8頁。

上田洋子

1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。著書に『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β4-1』(調査・監修、ゲンロン)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社)、『歌舞伎と革命ロシア』(共編著、森話社)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010年)など。2023年度日本ロシア文学会大賞受賞。
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