「現代日本のネット2001-2016」のために|大澤聡+さやわか+東浩紀

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初出:2016年9月9日刊行『ゲンロンβ6』

 ここに掲載するのは、11月刊行の『ゲンロン4』に掲載予定の共同討議「平成批評の諸問題 2001-2016」に先立って収録された、大澤聡、さやわか両氏と東浩紀による、この15年間のネット批評史を主題とした鼎談である。本鼎談は、本来は掲載を前提としたものではなかったが、議論が予想外に白熱したために急遽、本メルマガに収録することとなった。共同討議の内容を補う性格があるため、『ゲンロン4』にも掲載される予定である。また、『ゲンロン』シリーズで今後予定されている特集「現代日本のネット 2001-2016」のパイロット版としての位置づけをもつ鼎談でもある。(編集部)
 

はてなダイアリーの時代


東浩紀 共同討議でも述べているように、「現代日本の批評」第3回の時代の批評史は、ネットとの関係抜きには語れません。そこで、その関係について3人で補足するミニ座談会を行おうと思うのだけど――まず、今回さやわかさんに作っていただいた年表★1を見て印象的だったのは、2001年がいきなり「インパク(インターネット博覧会)」の開催に始まり、「侍魂」「カトゆー家断絶」と懐かしい名前が並んでいること。あのころはたしかに「個人ニュースサイト」の時代だった。

さやわか インパクから2000年代のネット史が始まるのは象徴的ですね。もちろん悪い意味で、ですが(笑)。いまではみな忘れてますけど、インターネットは場所に依存しないことが特徴であるにもかかわらず、それを博覧会会場に見立てるという発想がダサいし、しかも博覧会なんて近代の権化みたいなものですからね。あまりに前時代的だった。個人ニュースサイトも、当時爆発的なページビューを集めていましたが、ほとんど現在のシーンには残っていません。

 年表にはネットに関係が深い社会的な事象も入れています。たとえば2001年の「吉野家オフ」はかなり重要です。ネットで呼びかけたひとたちが集まって牛丼を食べるというだけのもので、これはいまでいうフラッシュモブのはしりでした。このときは政治的な意図はないんだけど、翌年の日韓ワールドカップのときに嫌韓ムードと吉野家オフの手法が結びついてしまう。なんでもいいから祭りがしたいという雰囲気と韓国を嫌う感情がオフ会というかたちでつながり、リアルな空間に出てきてしまった。遠くSEALDsなどのネット動員による運動論にも通じている。2001年はその後長く続く流れが準備された年でした。

 実際、翌2002年の2月に、津田大介の「音楽配信メモ」と宇野常寛の「惑星開発委員会」がともに開設される。2003年には切込隊長こと山本一郎(やまもといちろう)のブログが始まり、前後して「きっこの日記」と「極東ブログ」が開設。ほか、「はてなダイアリー」が盛り上がり始め、速水健朗、栗原裕一郎、仲俣暁生、町山智浩、荻上チキとつぎつぎに日記を開設。ぼくがはてなダイアリーに参入したのもこの時期ですね。

さやわか 他方で政治的なサイトも増えていきます。同じ2003年には、のち在特会の会長となる桜井誠がサイトを開設しています。前年に日韓の自動翻訳掲示板「enjoy korea」ができ、日本人と韓国人が掲示板で直接争うようになっていたんですが、桜井氏はそこに投稿したコメントを、自分のサイトで公開し始める。さきほどのワールドカップも含め、このあたりにいまのネトウヨ勢の萌芽が見られます。

 2002年から2003年にかけて、急速にいまの「ネット論壇」の主要プレイヤーが出そろってますね。

大澤聡 佐々木俊尚『ブログ論壇の誕生』(2008年)の巻末の「著名ブロガーリスト」には、10頁以上にわたってかなりの数のサイトURLが一覧化されているわけですが、2008年の本であるにもかかわらず、結局のところ2000年代初頭にサイトを開設したひとたちがリストの大半。アーリーアダプターたちがゼロ年代後半に「アルファブロガー」と化していくわけですね。それから、プラットフォームとしては、はてなダイアリーのプレゼンスが圧倒的に高かった。

 それは当時の実感にあっています。でもまだ人数は少ない。2004年ごろのはてなダイアリーは、たしかアクティブユーザーが3000人くらいだった。でもそのぶん全体が見渡せた。そのため議論や応答がたいへん活発で、ぼく自身ほとんど自分の読者のIDを覚えていた。そこらへんの空気については、この座談会と同じ号で、「はてな村村長」こと加野瀬未友さんにエッセイを書いてもらう予定です。

さやわか 2005年4月号で、『ユリイカ』が「ブログ作法」を特集するんですね。ぼくは当時、編集の一部を担当した栗原裕一郎さんに対して、ブログといってもはてなの内輪ノリの話ばかりじゃないかと批判した記憶があるのだけど、いま振り返れば逆に、はてなが中心で正しい。

 はてながコミュニティを維持できなくなってきたときに、ほかの要素がわっと出てきて急速に「ブログ論壇」が壊れていったのがよくわかります。ネトウヨだとか、「きっこの日記」的なものが増える。あるいはケータイ小説や「電車男」が登場し、どんどん商業性を前面化した、現在につながるインターネットに変わっていく。2004年が転機かなという気がします。眞鍋かをりが「ブログの女王」なんて呼ばれ始める。

大澤 キャズムではないけど、ムラ的共同体の閾値がそのあたりで踏み越えられたわけですね。

 そもそもはてなダイアリーの隆盛には前史があって、日本のネットにはもともと静的HTMLで書かれる日記サイト文化があった。大森望さんなんかはそのころからの古参の書き手です。それが90年代後半で、それを受けて2000年代のはじめに日記を書きやすくするサービスが出てくる。「さるさる日記」や「tDiary」、そしてはてなダイアリーですね。

 これは、同時期にカリフォルニアから入ってきた、いわゆる意識の高い「ウェブログ」――ブログツールのMovable Typeを自分でサーバーにインストールして使うもの――とは、外見こそ似ているものの、出自はまったくちがう。初期にはその認識がかなり共有されていて、はてなダイアリーも当初はブログとは言っていなかった。またそこに集まるひとたちも、ネットユーザーというよりも「物書き」のように自分たちをとらえていた。ちなみに余談ですが、濱野智史はそのころ慶應SFCのサーバーでMovable Typeを使った「意識の高い」ほうのウェブログを個人でやっていて、ぼくはそれをきっかけに知り合いました。

さやわか 日本発の日記サイトとカリフォルニア由来のウェブログの差異が顕在化したのが、2002年の「ブログ騒動」ですね。伊藤穰一や武邑光裕が日本の日記サイトを無視してブログ論を展開し、叩かれました。でも結局、2004年から2005年にかけて、日本でも「ココログ」のような商用ブログサービスが出てきて「ブログ」のほうが認知されることになります。そして、これによって日記サイト時代とはぜんぜんちがう層のユーザーが、大量にブログ界に流れ込むことになる。だれもが簡単に文章を投稿し、情報を発信できるようになり、ウェブ2.0と呼ばれる現象が起きる。そのイデオローグとして活躍したのが梅田望夫ですね。書籍としては『ウェブ進化論』(2006年)がベストセラーになる。

 この動きは実際にビジネスの成功とも連動し、2000年代のなかばになると、ライブドアやサイバーエージェントのようなブログ運営企業が企業買収をさかんに行うようになり、渋谷がビットバレーと呼ばれたノリになっていきます。堀江貴文が衆院選に出るのが2005年。逮捕されるのが2006年の頭。

大澤 近代文学の拡散期にツールとしての私小説や日記文学がはたした役割を、ネット上でブログサービスが辿り直したと言ってみてもいい。

 日本のネット史を考えるうえで、HTMLの日記からはてなダイアリーへという部分はあまり強調されない。普通は、「2ちゃんねる」からSNSという感じで、ゴミ溜めだったネットがみなも便利に使う表舞台の場所へと変化してきたというストーリーで語られるのだけれど、そのあいだに、一部の出版人のアジールとして機能していた時期があるんですよね。2003年くらいに、短い「人文系の時代」があった。政治的には小泉政権の前半ですね。

大澤 2002年あたりを下限として、出版ベースでは論争らしい論争が見られなくなっていきます。文学でいえば大塚英志と笙野頼子の「純文学論争」、思想でいえば、高橋哲哉と加藤典洋の「歴史認識論争」の終盤あたり。だけど、もちろん論争それ自体が消滅したわけではなくて、紙からネットへと主戦場が移行したんですね。

 『批評メディア論』(2015年)にもすこし書きましたが、討議メディアの発展法則としては、即時性と無媒介性の追求が指摘できます。それに照らすなら、即時的なコメント機能やトラックバック機能の充実によって、ブログ(のちにはSNS)が論争の場となるのは必然でしょう。その先に訪れる変化はふたつ。ひとつは、応酬の短期集中によって議論が深まるまえに事態が収束してしまうということ。もうひとつは、無媒介性の効果として外野や一般からの参入が容易になるため、収拾がつかなくなるということ。そして、もはやそれらは「論争」とは呼ばれない。とくに後者は「炎上」と名指されます。

 話を戻すと、論争の炎上化の直前に、人文系の時代があったわけですね。そのあたりまでは、ネットがサービスとして未成熟であるがゆえに参入者もかなり限定されていて、出版文化や物書き意識とも親和性を保っていた。だからこそ、論争らしさもかろうじて成立していたわけです。

 ぼくは2004年に波状言論の発行するメルマガで、はてな創業者の近藤淳也さんにインタビューを取っています。彼にはisedの議論にも参加してもらっています。当時すでに出版人がはてなダイアリーへ参入していて、ぼくにはそのインパクトは大きいように見えた。だから話をむけたんだけど、近藤さん自身がそのことにまったく興味を抱かなかったんですよね。代わりに彼が関心をむけていたのは「主婦が使うようなサービスを作りたい」だとか、そういう方向だった。

 もしあのころ近藤さんが、はてなダイアリーが作った新しい人文系コミュニティに関心をむけていれば、いまのネットの状況もすこしはちがったかもしれない。

大澤 それは佐々木俊尚の「ブログ論壇」論の限界でもありますね。あの議論はアメリカ型のブロゴスフィアの萌芽を時評的に日本のネット空間からピックアップして回るものでしかなかった。それだと、ネット言論の一断面しかとらえられない。本当は、あの時期に日本的言論とネットの、幸福なクロスポイントがあったはずです。とにもかくにも、ネットの批評空間を語るとき、参照可能な文献がいまだに『ブログ論壇の誕生』しかないという状況はちょっとまずい。

 まったくそのとおりで、伊藤穰一、梅田望夫、佐々木俊尚といったひとたちが理想としたブログ論壇のイメージは日本では虚構でしかなかった。そもそも単純すぎる。けれども、かといって2ちゃんねるがすべてだったわけでもなくて、じつはそのまんなかにはてなダイアリーという人文系に近い世界があった。そこではまさに批評とネットが接点を持ち、貴重なコミュニティが生まれていたのに、ある時期から育たなくなってしまった。それはブログのせいでも2ちゃんねるのせいでもなく、はてなダイアリーというプラットフォームの失敗で、そこにこそ日本のブログ論壇の悲劇があったんだと思う。

大澤 「たけくまメモ」にも残っているはずだけど、竹熊健太郎は一時期、ひろゆきに過度な期待をしていましたね。マスコミなり言論人なりが2ちゃんねるの功罪にばかりとらわれてしまったことが、実際の遠近をゆがめる結果につながったのでしょう。

昭和から平成の言論史を徹底総括、批評を未来に開く

ゲンロン4』 2016年11月15日発行 A5判並製 本体370頁 ISBN:978-4-907188-19-1 ゲンロンショップ:物理書籍版電子書籍(ePub)版 Amazon:物理書籍版電子書籍(Kindle)版

大澤聡

1978年生まれ。批評家、メディア史研究者。近畿大学文芸学部准教授。博士(学術)。著書に『批評メディア論』(岩波書店)、『教養主義のリハビリテーション』(筑摩選書)、『1990年代論』(編著、河出ブックス)など。講談社文芸文庫の『三木清教養論集』『三木清大学論集』『三木清文芸批評集』の編者。『群像』にて「国家と批評」を連載中。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。

さやわか

1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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