大澤聡+佐々木敦+さやわか+東浩紀「ゼロ年代以降に批評はあったのか」イベントレポート|田村正資

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初出:2016年10月07日刊行『ゲンロンβ7』

 聴衆の目の前で、大胆なフィクションが立ち上がっていく。観客へと送り届けられたフィクションは、乾いた喉から絞り出される、手探りの質問となって登壇者へと跳ね返る。するとまた、どこかはぐらかされたような、それでいて誠実さの滲んだ回答が返ってくる。イベント終盤の盛り上がりは、全編を通じて示された「批評とは、ある種のフィクションを立ち上げる営みである」「批評のアイデンティティは、実在性を持った読者=観客によって規定される」という主張を、登壇者と聴衆が実演してみせているかのように筆者の目には映った。「親鸞」と「日蓮」という二極のグラデーションで現代の思想を整理してみせようとする批評的な試みが持つスリリングな面白さと、登壇者と聴衆とのあいだの(ときにちぐはぐな)コミュニケーションの在り方は、少なからず批評とその読者の「未来」に関わっている。イベントの終盤に実現した「フィクションの創造」と、「書き手」と「読み手」のコミュニケーション。このふたつが批評の「未来」にどのように関わっているのか、それを考えるためには、イベントを通じて語られた批評の「現在」について振り返る必要があるだろう。

 本レポートでは、去る2016年8月14日、ゲンロンカフェにて行われ、上記のような熱気と予感に包まれて幕を下ろしたトークイベント「ゼロ年代以降に批評はあったのか――『現代日本の批評』2001-2016を収録直後の討議メンバーが語る批評の15年」を紹介する。このイベントは、『ゲンロン4』(2016年11月刊行)に掲載予定の共同討議「平成批評の諸問題 2001-2016」の参加メンバーを招いて開催された。批評誌『ゲンロン』でシリーズ化されている一連の特集「現代日本の批評」の核であるこの共同討議★1は、1975年から2016年現在までの日本の批評を、3つの時期に区切って全3回の討議で辿り直し、批評史年表を作成する試みである。そして、シリーズの最終回となる第3回の討議メンバーが、収録の翌日に、語り残したことをゲンロンカフェで語り尽くす、というのが本イベントの趣旨である。なお、イベントは23時ごろまで続き、語られた話題も多岐にわたっているので、割愛させて頂いた部分も数多くあることをご了承願いたい。

 当日の登壇者は、『批評メディア論』の大澤聡氏、『ニッポンの思想』の佐々木敦氏、『キャラの思考法』のさやわか氏、『動物化するポストモダン』の東浩紀氏と、いずれも現代の批評の現場で仕事をしている方々であり、批評の「書き手」であると同時に「読み手」でもある★2(以下、敬称略)。その両義的な立場を各登壇者がしっかりと引き受けて臨んでいたことが、イベントの色彩を鮮やかなものにしていた。ちなみに、このレポートを書いている筆者自身は、これまで日本の批評的な磁場からはかなり離れたところで生活していたため、当日なされた多くの議論が新鮮なものとして映った(おそらく、最近になって東の仕事をフォローし始めた人のなかには、筆者と同じような感想を抱かれた方も多いだろう)。現代の日本において、「批評」を書くことが決して自明な営みではないということ、ゼロ年代以降という時代が「批評」そのものに対する問題意識を要請しているということ。「批評」についての歴史的なスコープを持たない筆者にとって、日本の批評の現在地を示すそれらの議論は驚くべきものであった。そのような意味でも、時代に即した意味での「ライブ感」を持ったイベントになっていた。お前の感想ばかりじゃ分からんよ、と言われてしまいそうなので、以下では4つのトピックに焦点を当てて、イベントのレポートを進めていくことにする。4つのトピックとは、「オタク批評の問題」、「エビデンス主義の問題」、「ロマン主義の問題」、そして「当事者性の問題」である。「オタク批評の問題」は批評が拡散し、批評のシーンがぼやけていったことの一例として提示されている。「エビデンス主義の問題」は、批評の「書き手」と「読み手」を囲い込む環境の変化として提示されている。そして、「ロマン主義の問題」と「当事者性の問題」は、批評的な視座を欠いた現代の政治的状況のなかで、大きな「見果てぬ夢」に、あるいは小さな自分の「アイデンティティ」に過剰に固執してしまう人たちの問題として提示されている。

田村正資

1992年、東京都生まれ。東京大学特任研究員。専門は現象学、知覚の哲学。とりわけ、メルロ゠ポンティの思想。
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