日常の政治と非日常の政治(8)【最終回】 「POST-TRUTH」の時代に|西田亮介

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初出:2016年12月9日刊行『ゲンロンβ9』
 2016年は激動の1年でした。イギリスでは直前まで「まさか」と思われていたEUからの離脱が国民投票で可決される、いわゆる「Brexit」があり、アメリカでは泡沫候補だと思われていたトランプが次期大統領に決定しました。これを書いている時点で、韓国では憲政史上はじめて、現職の大統領として検察の聴取を受ける事態となり、任期途中で降板するかどうかがまさに現在進行系で問われています。

 日本に目を向けてみると、7月の参院選では改憲を主張する政党が議席を伸ばし、衆参両院で憲法改正の発議が可能な3分の2を超える議席を獲得したり、一方で脱原発を主張する首長が誕生したり、世界の動きと同様、大きく揺れ動く「民意」の行方に、これまでの政治や社会に関する「常識」の妥当性と信頼性が揺らぐ事態が起きているように見えます。

 先日、英オックスフォード大学出版局は2016年を象徴する英単語として、「POST-TRUTH」という言葉を選びました。直訳すれば「脱真実」、少し意訳すれば「『客観的事実』が重要視されない時代」といったニュアンスでしょうか。

 最終回となる今回は、この「POST-TRUTH」の問題を通じて、なぜいまこの主題を取り上げるのか、それが現代日本社会や政治とどのように関係するのか、そしてこれから私たちがどのような状況に向き合っていかなければならないのか、改めて考えてみたいと思います。

メディアリテラシーの困難


 まずは、先のアメリカ大統領選挙について振り返ってみましょう。

 今回の選挙では各メディアが発信する調査報道が注目され、リアルタイムで候補者たちの発言内容に解説が入るなど、これまで以上に「客観的事実」が視聴者に提示されていました。調査報道はそのようにかつてない速度で進化しているのですが、一方で大きな話題となった「フェイク・ニュース」問題に象徴されるように、それを遥かに上回る速度で「非-客観的事実」、すなわち「POST-TRUTH」が生活者に影響を与えていたようです。

 大統領選挙を通じて広く知られるようになった「フェイク・ニュース」とは、国内の規制が適用されない海外にサーバーを置き、Googleや、FacebookといったSNSでの広告収入を目的として、生活者の興味と好奇心を刺激する虚偽を含んだ「ニュース」を制作し、全世界に向けて配信するビジネスのことです。言語の壁に阻まれ、日本ではまだ深刻な問題にはなっていませんが、国内でもDeNAが健康関連のニュース制作で過剰な検索対策を行っていたとして炎上し、社長の給料減額や関連サイトが閉鎖される事態も生じました。その他のウェブメディアにも飛び火する兆しを見せており、「POST-TRUTH」は日本社会にとっても決して他人事ではありません。

「POST-TRUTH」の世界の困難は、これまでのメディアリテラシー的なパラダイムではまったく歯が立たないことでしょう。メディアリテラシーの習得には、生活者の側に規範的で主体的な学習が要求されます。そもそもメディアリテラシーは、メディアが発信する情報は多くの場合、資本家や権力にとって都合がよい、恣意的な内容を含んでいて、それらの無批判な受容は生活者にとって必ずしも有益でないという考え方を前提にします。それゆえ、生活者は資本や権力の論理に隷従しないためには、メディアが発信する情報を冷静に読み解き腑分けする必要がある、というのがメディアリテラシーの基本的な考え方です。

 少なからず合意できる点はあるものの、メディアリテラシーの困難はその実現(不)可能性でしょう。スマートフォンやタブレットを通じて、生活者はかつてより遥かに長い時間、多くの情報に接触するようになっています。しかもネットで提供される情報はそのクオリティや提供者が玉石混交です。卓越したプロによるものもあれば、素人による発信も混ざっています。新聞やテレビのように適切な発信についての合意形成と自主規制を実施する「業界(団体)」が形成されている従来のマスメディアとは異なり、消費者庁の指導や幾つかの業界団体こそあるものの、ネットメディア全体を通した情報のクオリティ・コントロールの実現可能性は今のところ期待薄です。ネット上での行動履歴の蓄積を通じたターゲティング広告やリコメンデーション、ストレートニュースと見分けにくいネイティブ広告などのように、生活者それぞれの嗜好に最適化し、弱点や盲点を狙ったコンテンツも満ち溢れています。

 そして何より問題なのは、難しくて、勉強するのが面倒くさいメディアリテラシーを学ぼうなどという奇特な生活者は往々にして滅多にいないということです。それは、日本の教育課程における情報や国語といった科目が、メディアリテラシーにまったく対応できていない状況を物語っているともいえるでしょう。政治に関する情報の発信と受容も、似たような問題に直面しています。政治のアクターである政党や政治家と、生活者(有権者)を比較したとき、選挙に対して強いモチベーションを持っているのは圧倒的に前者です。「落選すればただの人」ですから当然でしょう。

マーケティング化する政治


 インターネットあるいはインターネットサービスには、いまでも随所に「ボトムアップで権威を倒す」というカウンターカルチャーの名残が見られます。しかし現実には、権威や統治者もその優位性に着目し、ネットを活用しようとするので、ネットが普及した現代においてはそううまくはいきません。2013年の選挙運動へのインターネットの利用(「ネット選挙」)解禁の際にも、「ネットで政治が変わる」という議論が多数見られました。しかし現実には『メディアと自民党』(角川新書)などでも指摘してきたように、インターネットの活用にもっとも積極的だったのは与党自民党でした。

 自民党はトゥルースチーム(T2)という広告代理店、IT企業を巻き込んだ特別チームを設け、マスメディアの論調にくわえて、インターネットやソーシャルメディア上の言説を分析し、それらを踏まえたうえで、具体的な対策と情報を各候補者の選対に毎朝提供していたのでした。たとえば原発再稼働に対してネガティブな論調が広がっているのが認められたときには、「原子力規制委員会の判断を尊重しながら安全に最大限注意する」という主旨の街頭演説の文言が提案されていました。

 蓋を開けてみれば、ネット選挙解禁後、初の国政選挙となった2013年の参院選で、自民をはじめ改憲を主張する政党の議席数がはじめて両院で3分の2を超えました。リベラル側の「ネット(とその活用)が大文字の政治に打ち勝つ」というテーゼはここでも具現化しなかったようです。

 日本だけではありません。たとえばマーケティング業界ではアメリカの大統領選挙はF1に喩えられることがあります。日本では一般に、マーケティング業界については、民間で技術や戦略の革新が起き、それをアカデミズムや政治がフォローするというのが常識です。ですが、アメリカの大統領選挙といえば、名実ともに世界一の権力者を決める選挙です。選挙期間も予備選から数えればおよそ2年にわたり、実は選挙研究者たちも含め、多くの業界にとって格好のビジネスチャンスでもあります。特にマーケティング業界は、選挙に大量の資本と最高の人材を投入し、新技術や新しいアプローチも実験、それがのちに民間で活用されることから、この一大政治イベントを「マーケティング業界のF1」とも呼ぶようです。

 この影響は間接的に日本にも及んでいて、T2のマスコミ向け報告書にも「アメリカの大統領選挙ではネットが主役になりはじめている。今後日本でもメディアの主流がネットに軸足を置くようになれば、T2のようなアプローチが重要になってくる」という主旨の記述が見られます。自民党に広報戦略を提案した電通は、アメリカをロールモデルとして見ていたことになります。

「POST-TRUTH」は、資本と市場の論理に実によく適合します。その前では生活者は圧倒的に無力ではないでしょうか。政治は「情と理」から構成されるといいますが、どのようにして政治の「理」の部分を生活者に届けていくのか、改めて問われる時代になりそうです。この点、すでに1987年に「公正原則 fairness doctrine」というメディアに対する中立性の努力義務を撤廃したアメリカは、大統領選挙でもメディアが各候補への支持、不支持を表明するなど、「ルールなき言論戦」がネット以前からスタンダードになっています。ネットメディア初のピューリッツァー賞を受賞した「プロパブリカ」などネット発のジャーナリズムの実践者も登場していますが、激烈なメディア間競争のなかでどれほど存在感を示せているかについては、心もとないといわざるをえないでしょう。

 それに対して日本は、放送法に規制されるテレビと、歴史的経緯のなかで(ときに過剰なまでに)強く中立公正性を志向する新聞が、メディア業界、メディア人のひとつのスタンダードであり、ロールモデルとなってきました。規制の乏しいネットがメディアの主役になってはじめて「ルールなき言論戦」の火蓋が切って落とされたともいえ、今後ますます混乱しそうです。これまでは、高額な給料とブランド力、知名度で、新聞とテレビが人材とノウハウを専有していましたが、ここにきてオールドメディアからの人材流出が続いています。

 



「混迷の(政治)状況下で、政治の意図をエビデンスとともに読み解き、生活者に届くコンテンツと経路をデザインする」。「POST-TRUTH」の時代の処方箋を言明するのは容易ですが、実践の難しさが理解いただけたかと思います。そしてすでにお気づきかと思いますが、筆者の政治に対する問題意識は主としてこのようなものであり、またこれまでの本連載も同様の問題意識に支えられてきたものでした。それはつまり、ある政治的イシューを前に、思考と政治的決定の前段階にあたる、主に現状と基本的なデータ、歴史からなる道具立てを提供するという試みでした。今回をもって、『ゲンロンβ』での連載は終わりますが、これからもそんな問題意識に基づく仕事をし続けていくと思いますので、どこかで見かけた際にはよろしくお願いします。
 

西田亮介

1983年京都生まれ。日本大学危機管理学部教授/東京工業大学リベラルアーツ研究教育院特任教授。博士(政策・メディア)。慶應義塾大学総合政策学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。同後期博士課程単位取得退学。同政策・メディア研究科助教(研究奨励Ⅱ)、(独)中小企業基盤整備機構経営支援情報センターリサーチャー、立命館大学大学院特別招聘准教授等を経て、2015年9月に東京工業大学に着任。現在に至る。 専門は社会学。著書に『コロナ危機の社会学』(朝日新聞出版)『ネット選挙——解禁がもたらす日本社会の変容』(東洋経済新報社)、『メディアと自民党』(角川新書)『情報武装する政治』(KADOKAWA)他多数。
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