観(光)客公共論(12)|東浩紀

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初出:2017年01月13日刊行『ゲンロンβ10』

「観(光)客公共論」と題したこの連載、連載とは名ばかりで休載が続いていた。バックナンバーを遡ってみたところ、昨年8月の『ゲンロンβ5』を最後に掲載が途絶えていたようだ。しかもその最後の回は「批評とはなにか(3)」と題した尻切れトンボの文章で、次回は柄谷行人について語るなどと続きが予告されているのだが、実際にはその続きは『ゲンロン4』の巻頭言で書いてしまった。なんとも手詰まりの雰囲気である。
 
 というわけであらためて仕切りなおしたいのだが、そもそもなぜこんな混乱に陥ってしまったのか。その理由は、ぼくがこの半年ほど『ゲンロン0』の書き下ろしに捕まっていることに尽きる。『ゲンロン0』の原稿を書く、それが最優先の仕事で、どうしても連載は後回しになる。おまけに内容も被っている。本連載は「観(光)客公共論」と題されているが、『ゲンロン0』のサブタイトルは「観光客の哲学」である。それでも連載開始当初は、こちらの連載をうまくまとめて『ゲンロン0』の一部に組み込むなどとムシのいいことを考えていたのだが、実際に執筆が始まってみればそんなことができるわけもない。結果的に、『ゲンロン0』を書き進めれば書き進めるほど、連載ではなにを書けばよいのかわからなくなり、迷走するというテイタラクになってしまった。

 とはいえ、その混乱も終わりが近づいている。『ゲンロン0』の制作が大詰めを迎えているからだ。本誌配信の翌週には、某所で2回目のカンヅメに入る(1回目のカンヅメは昨年秋に行った)。会社経営をしていると雑事が多く原稿に集中できないのだが、カンヅメのあいだは社内メーリングリストからも外され、否応なく原稿だけに向き合わなければならなくなる。うまくいけば2月はじめには原稿が完成し、3月中旬にはみなさんのお手元に本が届けられるはずである。

 ところでこの『ゲンロン0』だが、いったいなんのことだかよくわからんという読者も多いかもしれない。そこで軽く説明しておきたい。

『ゲンロン0』は、要はぼくの新著である。形式的には『ゲンロン』の創刊準備号という位置づけで雑誌の体裁で出版されるが、掲載されるのはぼくの文章のみであり、実質は単行本と考えてさしつかえない。つまりは、『一般意志2.0』(2011年)、『セカイからもっと近くに』(2013年)以来の新著が、この3月に出るのである。しかも今回は完全な書き下ろしだ。

 書き下ろした長さは原稿用紙300枚ほど。主題は「観光客の哲学」。目次は第1部と第2部にわかれ、前者はどちらかと言えば哲学論文を意識した文章で、後者は文芸批評に近い文章で書かれている。出てくる固有名は、第1部では、ヴォルテール、カント、シュミット、アーレント、ネグリ、クリプキなど、第2部では、フィリップ・K・ディック、ジジェク、トッド、ジラール、ドストエフスキーなどだ。さまざまな時代のさまざまな内容のテクストが自由自在に登場し、それを横断してひとつの「批評」を紡ぐというこのスタイルは、柄谷行人の『探究』を強く意識している。ぼくはかねてより、いちど『探究』のような本を書きたいと思っていた。そしてまた、『ゲンロン4』の巻頭言でも記したように、最近は、いまこそ『探究』のような思弁的なスタイルの本が必要だとも考えるようになった。それゆえ自分で書くことにした。それが『ゲンロン0』である。

 具体的な内容としては、『ゲンロン0』は、「グローバリズムが世界を覆い尽くしたこの時代に、新しい政治思想の足がかりはどこにあるか」をテーマとしている。あるいは、別の角度から言い換えれば、「世界中で多くの人々が他者とつきあうのはうんざりだと言い始めた時代に、それでも他者への寛容を政治思想に組み込むためにはなにを手がかりとすればよいか」をテーマとしている。そのまわりに、「動物化」「ポストモダンの二層構造」「観光客」といったこの数年散発的に述べてきた概念や、ゲンロンカフェの座談会で口頭で述べるだけだったドストエフスキーの読解などが配置されている。ぼくのむかしからの読者は、ぼくがあちこちでばらばらに展開してきた話がこのように繋がるのかと、いろいろ発見があるはずである。『ゲンロン0』は、『存在論的、郵便的』『動物化するポストモダン』『一般意志2.0』のすべてを統合しつつも、その3冊のいずれよりも普遍的なテーマを追求した、公衆に開かれた本を目指している。ご期待いただきたい。

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 というわけで、いまのぼくは『ゲンロン0』で頭がいっぱいなのだが、それにしても、ぼくはなぜこんな本を書こうとしてしまっているのか。執筆が終わりつつあるいま、じつはぼくは自分でも驚いているところがある。

『ゲンロン0』は、本当はこんな長い書き下ろしになるはずではなかった。前述のとおり、同書は本来は『ゲンロン』の創刊準備号にすぎず、目次ももっと雑誌的な構成を考えていたし、内容も『弱いつながり』と近い軽い読みものを想定していた(ぼくの長い語りおろしに対して、ゼロアカ世代の批評家にいろいろ注でツッコミを入れてもらう構成などを考えていた)。そもそも、ぼくはもう本なんて書きたくなかった。ゼロ年代のあいだ、こむずかしい批評は急速に読まれなくなった。震災のあとは、そもそも文章自体が読まれなくなった。いまや、デマを素早くばらまいたほうが勝ちの「ポスト真実」の時代である。世の中に「影響」を与えるだけならば、本なんて出版するより、ニコ生やツイッターで極論をぶちあげ炎上したほうがよほど効率がいい。

 けれども、『ゲンロン0』の出版がずるずると遅れ(詳しく説明すると煩雑になるが、『ゲンロン0』はもともと『思想地図β5』でもあり、本来は2014年に出版されるべき本だった)、そのあいだにカフェでさまざまなひとに出会い、『ゲンロン』本誌の刊行も始まり、「現代日本の批評」シリーズも完結するなかで、いささか考えが変わってきた。もうだれもむずかしい文章なんて読まない、影響力が欲しいならニコ生やツイッターで十分という現状認識は、いまもさして変わっていない。というより、その状況への絶望はますます深まっている。

 けれどその絶望と平行するようにして、ぼくはあるときから、それならば現在の読者を無視すればいいではないか、過去の読者あるいは未来の読者に向けて書けばいいではないか、そのような「時代錯誤」(アナクロニック)なコミュニケーションの空間を開くことこそが思想あるいは批評の力のはずではないか、と考えるようになってきたのである。ゲンロンとゲンロンカフェの運営こそが、ぼくに、そのようなアナクロニックな空間の具体性と豊かさを教えてくれた。誤解を避けるため補足しておこう。現在の読者など無視すればいいのだ、批評は時代錯誤なものなのだ、といまの言葉だけを聞くと、そうか、大事なのは世の中に背を向けて自分の世界に閉じこもることなのかと誤解するひともいるかもしれない。けれどもぼくがここで言いたいのはそういうことではない。むしろ逆である。批評でも創作でもよいが、読者が見えないまま孤独に自分のなかに沈潜し、文章を虚空に投げかけているとき、ひとはたやすくその虚空に自分の似姿を発見し、単調な顔のないシンクロニックな時間に捕らわれる。言い換えれば、ぼくがこう言ったら、あいつはこう反応し、それに対してまたこちらはこのように反応し返して……と連鎖する無限の鏡、あるいは欲望の弁証法に捕らわれることになる。これは抽象的な話ではない。実際、ぼくがかつてもう本を書きたくないと思ったのは、日本の批評界にはそんな鏡しかないような気がしたからである。批評界には市場がない。だから業界しかない。なにを書いたとしても、表面的にいくら大きく高尚なことを論じていたとしても、結局大事なのは編集者のコネや出版社の力関係で、人々が噂することと言えば賞レースや書評委員のギブアンドテイクばかりである。ぼくはその世界にうんざりした。

 そんな不毛な閉域からひとを引き離してくれるのは、最終的には読者たちの顔の複数性しかない。いろいろな読者がいる、いろいろな読み方があるという複数性の実感しかない。時間の複数性(アナクロ性)とは、要は顔の複数性である。ひとはみな違う時間を生きている。そのことに気づくことで、ひとははじめてアナクロニックな空間に触れることができる。だから、逆説的に響くかもしれないが、現実の現在の読者に数多く触れることでこそ、ひとは「現在の読者」などどこにもいないことに気がつく。そして、そこにはじつは、過去の読者たちと未来の読者たちしかいないことに気がつくのである。

 つまりは『ゲンロン0』が書けたのは、ぼくがゲンロンを経営していたからにほかならない。ぼくは『ゲンロン4』の巻頭言で、批評には観客が必要だと記した。『ゲンロン0』の経験はその実例となっている。

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 ぼくの読者のなかには、いまでもときおり、東さん、会社の経営で執筆の時間がとれないのはもったいなくないですか、もっと批評に注力したほうがよくないですか、と忠告してくるひとがいる。善意で言ってくれているとは思うのだが、残念ながら、その認識は端的にまちがっている。もしぼくが、ゲンロンを起業することなく、ひとり孤独に書き手として、編集者や業界人に囲まれて批評家を続けていたのなら、ぼくはおそらく、二度と思想や批評の本を書くことはなかっただろう。

 いまの時代、批評に力はない。そもそも言葉に力がない。だから現代の批評家はたやすく孤独になる。そして、業界をうまく渡るぐらいしかやることがなくなる。

 それでも、批評家になりたいと思う若者はいまでも多い。本誌読者にもいるかもしれない(ここのところの批評ブームでまた増えているかもしれない)。そんな人々に伝えたいのだが、批評はたしかにむずかしいし、おもしろいテクストを書ける人間もごく一部である。デビューには才能と運が必要になるだろう。けれども、本当はそれ以上にむずかしいのは、テクストを書きたいと思い続けることである。批評の欲望を持続することである。そのような欲望を維持する環境を作り続けることである。だって、批評なんて、本当はだれも(現在の読者は)必要としていないのだ。でもそれでも(過去あるいは未来の読者のために)書き続けなければならないのだ。それができなければ批評家にはなれない。そしてたいていのひとはそこで脱落する。ぼくも一時は脱落していた。ぼくはいま、40代も半ばになって、ようやくゲンロンでその欲望を取り戻しつつある。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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