日本映画と海外ドラマ、いま、どちらを見るべきなのか|黒瀬陽平+渡邉大輔

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初出:2017年2月10日刊行『ゲンロンβ11』

 美術と映画、それぞれの場所で、異なるアプローチで、批評の立脚点を探ってきた黒瀬陽平さんと渡邉大輔さん。本誌の人気連載を担うふたりの対談イベントが、今月末、2月28日[火]にゲンロンカフェにて開催されます。いま、日本映画に、海外ドラマに、彼らが描く批評の可能性とはどのようなものか。イベントへの意気込みを緊急寄稿いただきました。(編集部)
 

「にわか海外ドラマファン」の美術批評家から、みなさんへ 黒瀬陽平


「今こそ海外ドラマについて語るべきでは?」と思いはじめたのは、ちょうど今から5年くらい前、家庭の事情で静岡に移り住んだ時からだった(静岡には3年住んだ)。
 震災後、急速にTVアニメへの関心を失っていたぼくは、買い物のついでに近所のTSUTAYAに通い(田舎だったので、ブックオフとTSUTAYAくらいしか行くところがない)、海外ドラマの棚の充実っぷりに驚愕した。なんだ、みんなそんなに海外ドラマをみているのか、と。
 しかし、当時も今も、ぼくのまわりには海外ドラマをみている人がほとんどいない。語る人はもっといない。アニメを語る批評家はごまんといるし、映画を語るアーティストも少なくない。でもなぜか、海外ドラマとなると、全然いないのだ。

 ある日、カオス*ラウンジのグッズを取り扱ってくれている会社の社長さんに誘われて呑みに行った時、突然「黒瀬くん、『LOST』の最終話についてどう思う?」と聞かれた。驚いた。そういえば、批評家やアーティストの知人たちよりもむしろ、経営者や会社員の知人の方が、圧倒的に海外ドラマをみている、ということに気がついた(ちなみに、『LOST』は誰もが知る歴史的名作ドラマだが、全シーズン合わせると121話ある。しかも1話あたり40分弱)。なぜなんだろう。そのことの意味についても、考えるようになった。

 乱暴を承知で言えば、(主にアメリカの)海外ドラマは「現実を映す」ということに対して病的なまでに執着している。美術で言うところの「表象 representation」というやつだ。一般的に、「現実を映す」ことだけに執心しているようなコンテンツは、批評の世界ではあまり高く評価されない。その映像表現が、物語が、どれほど見事に現実世界を反映していようと、それは「社会反映論に過ぎない」として批判される。
 でも、もし「現実」が、作品による「表象」を許さないほどに複雑化する、あるいは過激化するなら、それでも執拗に「表象」しようとする試みは、また別の様相を帯びてくる。たとえば、9・11の同時多発テロ事件の時、ぼくたちは何度となく「現実が映画を超えた」という叫び声を聞かされた。だけど、9・11以後も映画は死んでないし、映画は9・11を経験することによって試され、新しい表現へと手をのばしたはずだ。

 ぼくなりの言い方をすれば、2016年は映像表現にとって「2度目の9・11」だったのかもしれない。そう、ぼくたちの「現実」はまた「映画を超えた」のだ。
 国内では『シン・ゴジラ』や『君の名は。』が話題になり、「社会反映論」的な批評もたくさん書かれた。でも、海外ドラマの世界では、もっとずっと、スケールの大きい「表象」が次々と試みられ、そしてその多くは盛大に失敗し、いくつかの作品は成功の手がかりをつかんでいるように見える。その地勢図全体が、現代の表現の危機をめぐる壮絶なドラマになっている、とぼくは思う。『逃げ恥』とかで喜んでる場合じゃないですよ、マジで。
 たとえば、『ハウス・オブ・カード』はなぜヌルいのか? 『ファーゴ』はなぜシーズン2から大きく演出が変わったのか? 『アメリカン・クライム・ストーリー』はなぜ今さら「O・J・シンプソン事件」を描いたのか? 『ゲーム・オブ・スローンズ』は『君の名は。』の上位互換ではないのか?…… それらは全部、この狂気じみたぼくたちの「現実」と関係している。そういう話を、今こそしよう。もしお望みなら、もっと遡って、『LOST』とセカイ系の関係とか、『デイ・ブレイク』と「ゲーム的リアリズム」の関係とか、そんなところからはじめてもいい。

 ぼくは海外ドラマの専門家でもなければ、映画評論家でもない、ただの「にわか海外ドラマファン」の美術批評家ですが、ぼくなりに思うところはたくさんある。「最近、おもしろいアニメがないな」とか「最近、映画館あんまり行ってないな」とか、そんな風に退屈している人たちにこそ、来てほしい。もちろん、海外ドラマガチ勢の方も、ぜひ揚げ足を取りに来てください。細かいところはきっと、渡邉さんがフォローしてくれるはずなので!

【図1】渡邉大輔さん(左)と黒瀬陽平さん(右)。実は今回が初対談
 

海外/日本、ドラマ/映画(そしてアート/映像?)の隠れた共鳴 渡邉大輔


 今回、黒瀬陽平さんと海外ドラマと日本映画をめぐって対談することになった。僕は映画、それも昨年、大きな話題となった邦画が専門なので、主にそちらからアプローチして話すことになるだろう。以下、僕の問題意識を何点か。

 美術評論家と映画評論家、海外ドラマと日本映画、それぞれ異なる分野からの対話になると思うが、いくつかの文脈をひいておくことは可能だと思う。

 最初に断っておくと、実は僕は海外ドラマにはあまり詳しくない。なので、この点について対談相手というより、「よい聞き手」として黒瀬さんの語りに迫ってみたい。とはいえ、海外作品に限らず、「連続ドラマ」的な映像コンテンツがいま「アツい」というのは、理論的にも実感としても、よくわかるつもりだ。

 僕の専門である映画の分野でいえば、それは例えば、ハリウッドでは「マーベル映画」、または邦画でいえば「マンガ原作実写映画」のここ数年の盛り上がりがそれに準えられるだろう。実際、国内外問わず、映画とテレビドラマを股にかけて仕事を手掛ける有名監督も目立ってきている。要するに、デジタル時代になり、コンテンツ自体の過剰流動化、メディア収束化が進行する中で、映像コンテンツのストーリーテリングや制作方法自体も、かつての映画に象徴されるように、一個一個の作品にパッケージされるのではなく、共通前提となる大きな世界観をプラットフォームとして、ノンリニア的に続き物のストーリーを紡いでいくというやり方(ワールドビルディング)が有効になりつつある。マーベル映画やマンガ実写化ものの映画は、その手法で成功している典型的な現象だ。その意味で、いま、映像コンテンツはあらゆる意味で「連続ドラマ化」しつつあるといっていい。現代ハリウッドのブロックバスター大作の先駆者となったジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』が、映画ではなく、テレビドラマ(『フラッシュ・ゴードン』)の枠組みに影響を受けているのも、いまのハリウッドでJ・J・エイブラムスが一番活きがいいのも、あるいは、岩井俊二や大根仁や園子温や松江哲明がなぜテレビドラマに積極的に関わっている(関わってきた)のかも、わりに容易に説明がつく。その点から、僕としては、最近また流行りつつある「ドキュメンタリードラマ」について考えてみたいと思っている。

 あるいは、「なぜ、日本映画なのか」という問題。もちろん、2016年は久々の「日本映画の当たり年」だった。当日も、『君の名は。』や『シン・ゴジラ』について――僕も黒瀬さんもすでに食傷気味かもしれないけれど――、改めて少しは論じてみたい。とはいえ、2000年代以降、ポップカルチャーの消費構造全体が過剰に「ドメスティック化」しつつある中で、「邦画にポテンシャルあんの?」という声も聞こえてきそうだ。だが、僕の考えでは、最近の僕と同世代のインディペンデント系の若手作家の台頭を見る限り、邦画シーンもかつての内向き志向からはかなり変わってきているように思う。『ディストラクション・ベイビーズ』の真利子哲也、『ハッピーアワー』の濱口竜介、『淵に立つ』の深田晃司、そして新作『バンコクナイツ』の公開が待たれる富田克也など、2007、08年くらいに相次いでデビューした世代がここ数年、一斉にメジャー化してきたという事情もあるだろうが、この動向には語るべき何かが、ある。そして、それはアートをはじめ、映画に限らない領域とも関係するような問題だろう。

 最後に、黒瀬さんが提起している「表象」の問題について。確かに、俯瞰してみると、映画に限らず、日本の文化産物は海外作品に較べ、現実の再生=表象が歪つであるように見える。それらは、この社会をスムースに反映せず、虚構の「繭」でくるみ、幾重ものフィルターをかけ、自閉的に消費されているように思われる。昨今の日本映画を観ていても、僕もそう思う。しかし、ここには映画やテレビドラマといった個別の事象に限らず、日本文化に固有の「表象」に対する機能不全があるのではないだろうか? むしろ、日本では表象よりも、それを可能にするインフラやモノのほうに優位性があるのではないだろうか? 海外ドラマの「政治性」と日本映画のある種の「非政治性」は、表象に対する比較文化論的な問いをも惹起するはずだ。そして、僕は日本映画のその歪さにも賭けてみたいと思っている。タイモン・スクリーチからマーク・スタインバーグまでを参照しつつ、当日はそのあたりも詳しく話してみたいと思っている。

 いずれにしろ、とにもかくにも、どこに話題が展開するかわからないイベントになりそうだ。ゲンロンカフェならではの、初対面の二人の「化学反応」にぜひ期待していてほしい。

撮影=編集部

黒瀬陽平

1983年生まれ。美術家、美術評論家。ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校主任講師。東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。博士(美術)。2010年から梅沢和木、藤城噓らとともにアーティストグループ「カオス*ラウンジ」を結成し、展覧会やイベントなどをキュレーションしている。主なキュレーション作品に「破滅*ラウンジ」(2010年)、「キャラクラッシュ!」(2014年)、瀬戸内国際芸術祭2016「鬼の家」、「カオス*ラウンジ新芸術祭2017 市街劇『百五〇年の孤独』」(2017-18年)、「TOKYO2021 美術展『un/real engine ―― 慰霊のエンジニアリング』」(2019)など。著書に『情報社会の情念』(NHK出版)。

渡邉大輔

1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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