アートと生の力――新芸術校 金賞受賞者対談|磯村暖(第2期金賞)×弓指寛治(第1期金賞)

シェア

初出:2017年3月17日刊行『ゲンロンβ12』

 ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校標準コース第2期最終講評会でみごと金賞を受賞した磯村暖さんと、同じく第1期の金賞受賞者弓指寛治さん。2月25日、上級コース成果展の最中の五反田アトリエにて、おふたりに対談していただきました。新芸術校の運営を担当するゲンロンの上田洋子の司会のもと、制作に対する考え、美術を始めたきっかけ、今後の活動方針などを存分に語り合っていただきました。(編集部より)

パーティーピープルとサッカー部


――磯村暖くん、最終講評会金賞おめでとうございます。暖くんは秋学期からの受講生でしたが、東京藝術大学を卒業し、すでにアーティストとしても活躍している、いわばエリートなわけです。にもかかわらず新芸術校に来たのは、最初から金賞を、具体的には副賞のワタリウム美術館地下のギャラリー、onSundaysでの展示を視野においていたのでしょうか。

磯村暖 それはちょっと違います。

弓指寛治 え、違うの(笑)?

磯村 違いますよ(笑)。藝大での4年間は絵画をメインに制作していました。新芸術校に入学してからの作品は絵画ではなく、新しい試みとして制作したものばかりなので、もともと持っていたスキルで金賞を狙おうというような、なまぬるい気持ちはありませんでした。金賞はもちろん嬉しいですが、成果としてあの作品を出せたということのほうがぼくとしては大きいですね。

弓指 でも、やっぱり狙いにはいったんちゃう?onSundaysでの展示の存在はものすごく大きい。それがないと新芸術校の金賞って、なにもないようなもんやから。

磯村 受賞する前から勝手にonSundaysを見学したりとかはしていました(笑)

弓指 それはとる気やん(笑)

――逆に、弓指くんは絶対に金賞をとるんだ、という意気込みを持って新芸術校に入学した。

弓指 はい、そうです。

――暖くん、受賞作品について、簡単に説明してもらえますか。

磯村 受賞作の《homeparty》は、ぼくの自宅でのホームパーティーにネパール人移民を招き入れ、東京に住むパーティーピープルたちとネパールの祭事「ティハール」を再現するプロジェクトと、それと並行して作られた映像、インスタレーション、ハプニングから構成されています。ティハールはもとはヒンドゥ教のものですが、文化の融和が進んだネパールでは、仏教徒をはじめ、ほかの宗教の信者も一緒に祝う大規模な祭です。この祭では、ヤマ王(閻魔大王)の遣いとして、ネパールの人々が悪事を働いていないかを日々監視しているとされる犬やカラスを、ご馳走を与え、ティカ(額に塗ることで神や死者と通じることのできる色粉)をほどこし、マリーゴールドの花輪を首にかけるなどして崇め奉ります。そして、ヤマ王に悪いことを伝えないようにお祈りするのです。

 ネパール人の友人は、ティハールを日本で実行するのが難しいと言っていました。「そもそも自分達の家を持っていないし、犬も飼えない」「コミュニティドッグ(地域一帯で世話をしている野良犬)もいなければ日本人との交流もなく、飼い犬に触れ合うこともない」「文化的にカラスに餌をやることはできない」などがその理由です。作品では犬やカラスの着ぐるみを被った日本人のパーティーピープルたちに代行してもらって、ティハールの儀式を実行しました。

【図1】提供=磯村暖
 五反田アトリエでは、自宅でのパーティー空間を再構成し、そこにネパール人への取材やパーティーの記録をもとに作られた映像作品、体についたティカをシャワーで洗い流す犬の着ぐるみの映像、犬の着ぐるみを被った人間とパネルの上を循環しながら水を流し続ける装置を設置しました。水の循環装置は犬の着ぐるみについたティカや人間についた汚れなどを洗い落とす。その濁った水により、パネルの上にさまざまな粒子が蓄積し、絵を生成していきます。犬の被りものにはビデオカメラが付いていて、ヤマ王に代わって人々を監視する視点が間接的に再現されていました。さらに、犬の視点で撮られた映像がリアルタイムで展示空間外に設置されたディスプレイから観られるようになっていました。

【図2】撮影=松尾宇人


【図3】提供=磯村暖


【図4】撮影=松尾宇人


弓指 パーティーをインスタレーションとして展示するという着想がすごい。

――移民のテーマも非常に複雑で、見どころの多い作品でした。onSundaysでの展示が楽しみですね。さて、弓指くんは受賞後も精力的に作品を発表していますね。暖くんは今後どのような活動をする予定ですか。また、金賞だけを狙っていたわけではないとすると、入学当初、新芸術校にどういったことを求めていたのでしょうか。

磯村 じつは今年の6、7月に「London Tokyo Y-AIR Exchange Program」というレジデンス・プログラムでロンドンへ行く予定があって、その関係で、以前からポストグローバリスムと移民問題を扱った作品を作ってみたいと思っていました。9月ごろ開催される予定のonSundaysでの展示にも、ロンドンでのリサーチや制作が反映されると思います。むしろ、レジデンスのプランのほうが新芸術校の成果展より先に手をつけていた。だから成果展という場で日本にいる移民をテーマにした作品を制作しフィードバックを得ることができたのは嬉しかったし、これからも発展させていきたいと思っています。

――先に移民というテーマがあり、それをいかに作品にしていくか、この半年間考え続けていたということですか?

磯村 もっと前からです。このテーマに対してはもっと根本的に取り組んでおり、その上で自分の作品を見直したいという思いがありました。ただやはり、昨年のBrexitとトランプの大統領当選があって、いよいよ「やるぞ」と作り始めたというのはあります。たとえば昨年8月に企画した個展でも、移民問題やグローバリズム以降の世界風景というのを考えながら制作を行いました。その後、新芸術校に入学し、さまざまな見識に触れて強化されていった。

弓指 子どものころの海外生活の経験がベースにあり、移民の問題を扱うようになったと話していたよね。たんなる時事性ではない。



磯村 中学生のときにオーストラリアに留学したことがありました。ぼくは小さいころ小児喘息で苦しんでいたのですが、小学5年か6年生のときに旅行でオーストラリアに行ったら、症状が出なかった。そのあとも日本では、不眠を併発し、夜は寝られないし昼も起きてられない、小6の後半からは不登校にもなってしまった。こんな状態で過ごしているくらいならオーストラリアに行ったほうがいいということになり、留学しました。そうしたら初日からすっかり元気で、そのまましばらくオーストラリアにいました。その後はたまに日本に帰っても喘息の症状が出なくなっていき、高校受験前には完全に帰国しました。

 中学生は凶暴な生き物で、オーストラリアにいたときはアジア人差別を受けました。それは大人になってから受けるような差別とはたぶん種類が違う、低俗な差別です。でもそんななか、ぼくを遊びに誘ってくれたのが、すごく「イケイケ」なやつだったんですね。それも、いじめられっ子とも仲良くしてそれをアピールしてやろう、とかそういう感じのひとではなくて、イケイケにはぼくのおもしろさを引き出す能力があった。ジェットスキーとかクリスマスパーティーとかホームパーティーとか、いろいろなことに誘ってくれました。すごく「いいやつ」だったんです。

弓指 まさにパーティーピープル。倫理的に、とかではなく、本当に受け入れられる経験をしたわけやね。

――「パーティー」というテーマの原点はそこにあるのですね!

弓指 「俺はイケイケにならないかん」って、このまえも言ってたよね。

磯村 はい、ぼくはイケイケにならなきゃいけないんです!

【図5】イケイケのパーティーピープルを目指すと語る磯村さん
――その一方で弓指くんはいわばヤンキー的なふるまいをしますよね。



弓指 ヤンキー的なことはしてないですよ(笑)!

――新芸術校1期生のY戊个堂さんと弓塲勇作さんの3人で、グラフィティを描いたという話を耳にしたことが……。

弓指 その話はいろいろ尾ひれがつきまくってるんです。母が亡くなったという話をしたときに、ふたりもショックを受けたみたいで、ぼくが「いまは鳥しか描けない」と言ったら、「大人な」ふたりが、励ましの意味をこめて「なんかしよう!」と言ってくれて。そこで弓塲さんが突然「グラフィティをやりたい」と言い出したんですね。ぼくは全然やりたくなかったけど(笑)。でも、落ち込んでいるぼくを救ってくれようとしてる感じがあったので、「ありがとうございます」って言って一緒にやることになった。Y戊个堂さんも、「俺が全部金を出す!」って言って乗ってくれて。

――まさにヤンキー的行動!

磯村 まんまですよね(笑)

弓指 よく言われることですけど、カオス*ラウンジのひとたちって、基本的にオタク系と見られてるじゃないですか。それでChim↑Pomがヤンキー系だと。でも、そういう分け方だけじゃないと思ってて。で、ぼくがどこに分類されるかと考えると、「サッカー部」やと思うんですよ。ぼくずっとサッカー部だったんです。

磯村 ああサッカー部っぽい!

――サッカー部って、一番モテるイケイケ系じゃないですか!

弓指 ほんまは違ってて、サッカー部って上手いやつと下手なやつがおるんです。下手なやつはずっと悲しい思いをし続ける。レギュラーにもなれへんし、練習しても、上手くない、足が遅い自分をずっと見せつけられる。サッカーはルールがあるから、そのルールのなかで、上のやつはすごい、でもそのルールにうまく乗っていけないやつは、相当下に見られる。で、ぼくは下手やった(笑)。体育会系のなかでも、押さえつけられる位置にいた。ぼくが言うのはそういうサッカー部です。サッカー部で上のやつは、マジでイケイケになっていくか、タバコとか吸って違う方向にいくか、どちらかなんですけど、タバコも吸ってないし悪いこともしてない。たんに、サッカーを一生懸命やる下手なやつ。

磯村 なるほど(笑)

弓指 だからぼくは、オタクでもヤンキーでもないし、パーティーピープルでもない。ただのサッカー部やと思ってます。

【図6】高校生まではサッカーに打ち込んでいたという弓指さん


美術を始めたきっかけ、絵を描く意味



――そもそも、ふたりはどうして美術を始めたのですか?

磯村 ぼくは最初の記憶があるくらいのころから、ずっと絵を描いていました。

弓指 ウルトラエリートやん!

磯村 たぶんぼくの記憶にないころから、絵を描いてるときはおとなしかったんでしょうね。だから、母親が絵を描く道具を持ち歩いてくれてて。病院の待合室でも描いてたし、父母の仕事についていってもずっとそばで絵を描いてた。

――だれかに習ったりはしていたんですか?

磯村 自分で勝手に描いてました。

――藝大の受験のときも予備校に行かなかった?

磯村 行ってないんですよ。だからデッサンも、受験用に描いただけ。たぶん5枚以上描いてない。

弓指 信じられん……。ぼくが絵を描き始めた理由なんて落ちこぼれ全開ですから。

磯村 ぼくだって、美術を志した理由、というか美大受験をすることになった理由は「挫折」ですよ。

弓指 どういうこと?

磯村 ぼくは高校3年生のギリギリまで、医学部受験の準備をさせられていました。

弓指 医学部に入るつもりやったってこと?

磯村 そうですね。12月くらいまでは。しかも、うちの母親が東大じゃなきゃだめだって言ってて。

弓指 両親がそもそも精神科医やったっけ?

磯村 父が精神科医で、母は精神科のクリニックの運営に携わっているんですけど、ふたりはぼくが5歳のころからバラバラに暮らしてて。離婚はせずに別居しています。最初は父に引き取られていたんですけど、その理由も、父は東大の医学部出身の医者で、肩書きが強い。母が言うには、「肩書きに親権を取られた」そうで。オーストラリアに留学して、帰ってきてからは母と暮らすことになった。で、10年ぶりに一緒に生活することになったんですが、母にずっと「絶対に東大の医学部に行かないと人生に棒にふる」と言われ続けるわけです。他の大学の医学部じゃだめで、「医者なんて学閥が強いんだから、絶対に東大じゃなきゃだめ」って。ぼくは文系の科目が得意だったので、「弁護士でもいいんじゃない? 法学部だったらどこの大学でもA判定だよ」と言ったんですが、やはり「弁護士なんて人生を棒にふる」と言われて。

弓指 弁護士で人生を棒にふるって! わけわからへん(笑)

磯村 ぼくにとっては弁護士でも譲歩で、本当は小さいころから美術をやりたかった。でも、それは取り合ってもらえなくて。高校3年生のクリスマスくらいまで折り合いがつかず、フラストレーションをため込み続け、それでうつ病になってしまったんです。そして首を吊ろうとしたら、その日に限って母が早く帰ってきてしまった。「死なれるよりは美術をやるほうがいい」ということで、やっと認めてもらえ、藝大を受験することになりました。
――壮絶な話ですね。文字どおり命懸けで美術をやっている……。弓指くんはどうして美術を志すことになったのでしょう?

弓指 弁護士でも譲歩なんていう話のあとに、ぼくの話をするのは恥ずかしいんですけど(笑)。ぼくはそもそも絵なんかまったく興味なかったし、中学の美術の授業も、全然おもろないと思っとった。「なんで机の上にあるレモン書かなあかんねん」って。サッカーやっとったから、高校もサッカー部に入りたかった。津工業高校という、サッカー部が強いところを受けて、機械科は落ちたんですが、後期試験で土木科には受かった。土木科はその高校の底辺で、ヤンキーしかおらへんかった。

磯村 やっぱりヤンキー(笑)

弓指 いや、でもぼくはそこでヤンキーじゃなかったですよ(笑)。学校ではみんなタバコ吸ってるし、授業中にポテトチップスとか食べてる。「来るとこ間違えたな」と思った。結局サッカーも上手くならず、土木も興味ない。もう行き先がない。ある朝たまたまニュース番組で「おもしろCM」を紹介するコーナーみたいなのをやっててCMに興味を持ち、先生に映像学科のある名古屋学芸大学を教えてもらって、行くことになった。デッサンとかせず「CMができればいいや」くらいの気持ちで入った。写真、CG、テレビ、それとインスタレーションのゼミがあったんですが、そのころはインスタレーションがなにかもよくわかってなかった。

 大学2年生のときテキサスに遊びに行ったんですね。それまで海外旅行とかしたことがなかったからという理由だけで。なんでテキサスかというと、たんに旅行代理店のひとに勧められたから(笑)。で、一応学校で美術とかやっとるんやし、ヒューストンのメニールコレクションに行ったんです。そこでサイ・トゥオンブリーの展示を見た。それでびっくりして。当時はトゥオンブリーのことなんて当然知らなかったんですけど、本当に膝から崩れ落ちた。でも友達ふたりは「なにがいいかわからん」って。たまたまメニールコレクションには「サイ・トゥオンブリー館」もあって、そこにはたとえば黒板に白チョークでぐるぐるを描いた大作群(《Untitled》1968, 1970)のような、有名な作品ばかりがあったんですけど、それももうすごくて。その日から絵を描こうと思いました。

――運命の出会いですね。旅行代理店のひと、グッジョブだ(笑)

磯村 ニューヨークとかじゃなかったんですね。

弓指 でも、通っていた大学は美大ではないので、学校で絵を描いていると怒られるんですよ。手や服に絵の具とかつけて歩いているだけで、すごい汚いやつやと思われる。インスタレーションのゼミに変更して、たんなる絵画はやったらいかんから、周りの目を気にしつつ描いてた。けど、虐げられるぶん余計にやりたくなる。進級制作展の講評会はなんとか切り抜けたけど、点数はむちゃくちゃ低かった。そういうふうにぼくは絵を描くことでずっと虐げられていて、絵画なんて終わったメディアやと思って生きてきた。なのに新芸術校に来たら平面のひとが多かったから、それにまずびっくりしました。みんななんの疑いもなく絵を描いとる。

――暖くんと逆ですね。暖くんはずっと絵を描いてきて、いまは絵じゃないメディアを使っている。

磯村 そう、ちょうど逆だなとぼくも思いました。名古屋学芸大学の映像科の話も、ぼくの行っていた油絵科の雰囲気とまったく逆です。

弓指 先生は藝大出身やから、藝大は違うという話は聞いていた。ずっと憧れやったんですよ。壁とかに作品がところ狭しと並んどるし、あちこちで彫刻を作っとるし、ぐちゃぐちゃになっとる、とかって。

磯村 いくら汚してもよかった。

弓指 そんな理想的なところがあるなんて、そんなん信じひんってずっと思っとった。

磯村 藝大の油絵科だと、絵画がメディアとして終わっているかどうかなんて心配しなくていい環境なんですよ。生徒の大半が絵を描くこと自体に疑問がなく、指導者の大半もそのことに問題意識を持っていないんじゃないでしょうか。この前のゲンロンカフェのイベント★1で国立近代美術館学芸員の蔵屋美香さんが言ってたみたいに、いまの藝大の教授陣は絵画をずっと頑張ってやってきていまの地位にいるわけじゃないですか。そういうひとたちに教わったぼくの世代の学生は、20年前、30年前の学生よりもむしろ、もっと絵画に盲目的なんじゃないかと思います。ぼくもそんな藝大の環境を半分信じ、半分疑いながら4年間在籍していたわけですが、やっぱり、あまりにもぬるま湯のなかに浸りすぎて、前が見えなくなっていたというか、そのぬるま湯のなかで成立する活動だけをしていた気がします。ぼくが主導権を握ってできる活動はそこになかったし、気持ちもふやけていた。

 卒業制作についても、いままでも絵を描いてきたし、これからも描いていくのだから卒制の時期にできあがった絵を出すだけだな、と思っていた。でも、卒業をリアルに考えたとき、自分の心構えや環境がちょっとおかしいことに気づきました。絵画への盲目的な憧れと信仰を捨てる意味をこめて、ぼくは1年生から4年生までの好評だった絵を全部並べてそれを卒業制作とし、そこで一区切りをつけた。

【図7】第65回東京藝術大学 卒業・修了作品展での磯村の展示。撮影=松尾宇人


弓指 卒業以降は絵画を描いてないんやね。

磯村 卒業してからは描かないようにしているというか、封印しているんですよ。全然描いてなくて。いや本当は4枚だけ描いてますけど(笑)。描きたい欲求はあるんですけど、本当に絵画を描く理由が見つかるまでは、描いちゃいけないと思ってます。

――日々の生活で出た排水をキャンバスを経由して循環させ、それが自動で絵を描いていく作品《Earthlings#4》は、卒業後に制作したものですか?

磯村 《Earthlings#4》は藝大卒業後、新芸術校に入ってから制作したものです。循環する液体とそれに溶けた物質で現象的に絵画が「できてくる」というのは、シリーズとして制作しています。 《Earthlings#3》は壁に描かれた地球人の絵が、循環しながら流れ続ける水に溶け、水に溶けた絵の粒子が循環する間に徐々に壁に染みをつけていく作品で、卒制提出後、卒業前というタイミングで作りました。このシリーズとして一番最初のものは、壁上に緑茶を流し続けて大きな茶渋をつける装置で、絵を描く意味、そしてぼく自身が描くことの意味を考え始めた4年生になったばかりのときのものです。膨大な時間のなかで、絵も自然に生まれてくるもののひとつにすぎないという思いで作りました。

弓指 いまの暖くんの話は「自分にとって芸術とはなにか」という話になると思うんですけど、それはぼくも大事なことやと思っとって、そうじゃないと「手癖」みたいなもので絵ができたりする。いい絵っていうのは、テクニックだけで判断されるものじゃないと思うから、暖くんがいま、必然性を見出せないから絵画を封印しているというのは、むちゃくちゃ大事なことやと思います。そういうことをぼくは新芸術校で教わりました。

――それは主任講師の黒瀬さんの力で、彼が偉大だということ?

弓指 いや、黒瀬さん偉大かなぁ。あんまりそうは思わんけど……。むしろ「ひととして大丈夫か」ということを感じるときが多い(笑)。ただ、黒瀬さんは美術マニア、絵画大好きやから、そんときに出てくる言葉は本当にすごいと思いますね。

 ぼくのお母ちゃんが死んで精神的に落ちに落ちまくってるとき、とくに絵画にするつもりもなく、たまたまキャンバスがあったから絵を描いた。そのキャンバスを鳥の絵で埋めていたんです。それを黒瀬さんに「見せろ」と言われたから渡したら、黒瀬さんはひとこと、「画面が窮屈だね」って言った。信じられへんと思ったわ、まじで(笑)! 「いまの俺が画面構成を考えて書くわけないやろ!」って。お母ちゃんが死んで1ヵ月経ってないくらいのころ、本当に悲しい気持ちのなかで自分のために描いたものですよ。見せろって言われたから見せたのに。そんときはさすがに、新芸術校なんて二度と行くかと思ったわ(笑)。けど、もう一度よく考えて、黒瀬さんは人間的にはダメでも、美術批評にかんしては一番信用できると思ったから、昨年度の最終講評に出した《挽歌》を描こうと思ったわけです。けど、ひどいと思いません?

――きっと黒瀬さんなりの優しさだったのではないでしょうか。

弓指 絶対違う(笑)! たんに絵を見て感想を言っただけです!

磯村 ひどい(笑)

芸術家としてどのように生きるか


――今後作家として、どのような作品を作り、どのように生きていきたいのか、おふたりのヴィジョンややりたいことなどを教えてください。おふたりともスケールの大きな作品を作る作家ですが、インスタレーションや大作は見応えがある反面、なかなか販売しにくい部分もあったりします。

磯村 言霊みたいになっちゃいそうで、ちょっと言いにくいですが……。そういう意味で言うと、絵画は売れますがインスタレーションは売れません。でも、インスタレーションの制作はしばらく続けると思います。もちろん「売りたくない」みたいな変なこだわりはないですし、売れるものは売っていきたいですよ。

弓指 暖くんは作品とはまた別に、自宅で定期的にホームパーティーを開催しとるけど、それはライフワークになっとるわけやろ?

磯村 そうですね、作品化する以前からやっています。

――暖くんの作品にとって「ひと」という要素はどのような意味を持っているのですか?

磯村 いつもやってるホームパーティーと、展示のためのパーティーでは、かなり違ってきます。実際のパーティーなら、ひとへの指示や禁止事項は最低限にしますし、それだって賛同が得られなければ実現できない。それぞれのひとの行動を制御せずに勝手に起こっていくことを楽しみにしています。友達が友達の友達を勝手に呼んで来たり、予測できない。ぼくはその「場」を用意して、あとは待っているという状態。でも、展示中のパーティーでは、「ひと」もメディウムなので、もっといろいろ手を加えます。



――実際のパーティーが、作品のデッサンとなっているのかもしれませんね。展示としてのパーティーでは構造がしっかり決められて、ひとやモノはそこに配置されていくでしょう。暖くんは実際のパーティーでのひとや状況の動き、空間の状態を、デッサンをしているときのキャンバス上の筆の動きや、色が混ざっていくことと同じような感覚で見ているのかもしれないなと感じます。そういう視点があの複雑なインスタレーションを作り上げているのかもしれませんね。

 弓指くんはいかがですか?

弓指 ぼくは芸術家として生きていきたい。いま30歳なので、人生はあとせいぜい50年くらい。短い。そこでやれることをやるしかない。会社に勤めていたこともありましたが、お金のためにやっとっても、違うなと思った。だから会社を辞めて、新芸術校にきて、お母ちゃんが死んでいまがあるので、残りの時間は芸術に使いたい。新芸術校の説明会のときに東さんと黒瀬さんが言われてたことですが、自分の生活にとってお金がどんだけ必要かを把握して、それさえ稼げれば、支障をきたさん程度のお金があればいい。芸術を、とくに、自殺してしまったひとたちのためにやりたいなと思います。もちろん母の影響はあるんですが、これからも死ぬひとは減らない。残された人の問題もあります。自分の人生はそのために使いたい。

 自分の名前が広まって、見てくれるひとが増えれば、これまで黙っていたひとたちも見に来てくれるかもしれない。そのひとたちが「あ、苦しみにはこういう変換の仕方があるんや」と思ってくれるかもしれない。そういうふうに見てもらいたい。

【図8】撮影=編集部


【図9】弓指は2016年度も新芸術校の上級コースに通っている。彼は上級コース成果展の連動展示として「Death Line」を企画。同じく上級コースのALI-KA、小林Aと3人で、自分たちが経験した事故と死をテーマに、絵画を中心に遺品などを絡めて生々しい空間を構成した。大塚 DUST BUNNYにて、2017年3月開催。撮影=編集部


――弓指くんは、死がテーマでも「楽しい」作品を描きますよね。

弓指 そうそう! それが大事やと思います。

――弓指くんも暖くんも、ふたりともエンターテイナー的なところがあって、「ひとを楽しませたい」という気持ちを持っている。ふたりが金賞をとっていることにも表れていますが、これは大事なことなのではないかと、2年間新芸術校の運営に携わってきて感じています。

磯村 その部分は黒瀬さんからの助言も大きくて、ひとりだとどうしても表現がミニマルになったり、俗っぽいから嫌だなと思ってブレーキをかけちゃう場合もあるのですが、黒瀬さんがそれを解放してくれた部分はあります。エンターテイナーに「なっちゃった」のかもしれません。

弓指 ぼくもそれはすごい大事なことやと思う。この点は黒瀬さんの考えと合ってたんでしょうね。

――最後に弓指くんから後輩の暖くんにひとことお願いします。

弓指 onSundaysはマジでめっちゃくちゃひとが来るから。暖くんのことを知らへんひとがワタリウム美術館の展示のついでに、自動的に見にくる。海外のひとも来る。いままでいろんなところでやってきたとは思うけど、すごい重要な展覧会になるはず。

【図10】新芸術校第1期最終講評会にて金賞を受賞し、その後onSundaysの展覧会でも大々的に展示された《挽歌》。撮影=カオス*ラウンジ


磯村 実際やってみてどうでしたか? 会場には毎日いましたか?

弓指 毎日おった。ぼくの場合はけっこうしゃべるし、作品もほぼ全部売れた。しゃべっとると、自分が思っとったところじゃないところに転がっていく。《挽歌》は、「自殺してしまった母の救済」という個人的な内容がテーマ。だから背景には故郷の伊勢の町や川を描いた。でも荒れた宮川のうねりが津波にも見えるし、金の輪を持って飛ぶ「鳥」は、エジプトの神話にも出てくる「魂を運ぶ生き物」のモチーフにも見えて、死者への鎮魂を想わせる。そう考えると、これは3.11について描いた絵として読み解くことができる。ぼくのバックグラウンドには母の死があるけど、そのさらに奥には3.11を経験しそのあとを生きる日本人がいる、そういうふうに外国人には見えるらしい。自分の母親の死よりも、もっと広い文脈で捉えられて、そしてその絵はそこで成立しているように見える。自分はそんなこと考えていないのに。そういうことをはじめて体験して、「絵が自分の手元を離れて転がっていくんやな」と感じることができた。やから普遍性を持たせることができるんやなと。こういうことが体験できる可能性がある。だから超全力でやったほうがいい。

磯村 はい、絶対に全力でやります。バチコーンと! ありがとうございます。

――おふたりとも、今後のご活躍を期待しています! 長時間ありがとうございました。




ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校標準コース標準コース第2期成果展
http://shin-geijutsu.site/



ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校標準コース上級コース成果展
http://www.maturinoatoni.jp/



ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校標準コース第1期成果展
http://shin-geijutsu.net/


http://genron-cafe.jp/event/20170124/

★1 梅津庸一×蔵屋美香×黒瀬陽平×齋藤恵汰「今、日本現代美術に何が起こっているのか――「ニューカマーアーティスト」から見る美術の地勢図」

磯村暖

1992年東京都生まれ。2016年東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。2017年ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校第2期金賞受賞)。Asian Cultural Councilニューヨークフェローシップ2019年グランティー。国内外での歴史や宗教、フォークアートに関するリサーチをベースとし、トランスナショナルな視点でインスタレーションや絵画などの制作活動を行う。近年は台湾の關渡美術館やタイのワットパイローンウア寺院での滞在制作、東京のクラブイベントとのコラボレーションなどフィールドを横断した活動を展開している。近年の主な個展に、「わたしたちの防犯グッズ」(東京、銀座蔦屋書店、2019年)、「LOVE NOW」(東京、EUKARYOTE、2018年)、「Good Neighbors」(東京、ON SUNDAYS/ワタリウム美術館、2017年)、「地獄の星」(東京、TAV GALLERY 、2016 年)。近年の主なグループ展に、「TOKYO 2021」(東京、TODA BUILDING、2019年)、「City Flip-Flop」(台北、空總臺灣當代文化實驗場、2019年)、「留洋四鏢客 」(台北、TKG+、2019年)

弓指寛治

1986年生まれ。芸術家。三重県伊勢市出身。2016年に母の自死をモチーフに描いた《挽歌》でゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校第1期金賞。2018年、第21回岡本太郎現代芸術賞岡本敏子賞。おもな個展に「Sur-Vive!」(onSundays、2016年)、「四月の人魚」(五反田アトリエ、2018年)、「ダイナマイト・トラベラー」(シープスタジオ、2019年)など。あいちトリエンナーレ2019に「輝けるこども」で参加。 撮影:小澤和哉
    コメントを残すにはログインしてください。