観光客の哲学の余白に(1) |東浩紀

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初出:2017年4月14日刊行『ゲンロンβ13』
 今号から本誌はリニューアルすることになった。この連載も、あわせてタイトルを変えることにする。 

 この連載は、前回まで「観(光)客公共論」と題されていた。そのタイトルには、観客あるいは観光客のつくる公共性について考えるとの意図が込められていた。しかしその意図は、「観光客の哲学」と題された『ゲンロン0』が刊行されたいま、同書の記述でほとんど実現してしまったと言える。そこで、この連載枠は、これからしばらくのあいだ、むしろ『ゲンロン0』で書き漏らしてしまったこと、まだ十分に展開できなかったことなどを中心に、思索を展開する場として活用させてもらおうと思う。 

 というわけで、タイトルは「観光客の哲学の余白に」とすることにした。業界通の読者は浅田彰っぽいと感じるかもしれないが、ここはむしろデリダの名論文集『哲学の余白』を想起してほしい。 

 というわけで『ゲンロン0』の「余白」について書いていきたいのだが、同書でもっとも大きな余白が残されているのは、おそらくは第六章である。同書第五章で記したように、第二部は全体として草稿という位置づけで、粗っぽい余白だらけの議論をしている。しかし、そのなかでも第六章はとくに飛躍が多くなっている。全体に読みやすいと評判の『ゲンロン0』だが、この章だけは躓いた読者も多かったのではないか。 

 なぜそうなっているのか。著者みずから種明かしをしてしまうと、それはじつは、この章だけが、ほかの章とは異なり、人間そのものの変容について語ろうとしているからである。 

 第一部および第五章と第七章では、ぼくは、現代の世界はどのような構造をしているか、その世界で人間はどのように生きるべきかについて語っている。そこではいろいろな議論がなされているが、人間そのものが変わるという話はしていない。ルソーの時代の人間も、アーレントの時代の人間も、いまの人間も、みな同じ人間で、ただ世界だけが変わったという前提で議論を進めている。けれども、第六章でだけ、世界のポストモダン化によって、人間の現実との接しかた、それそのものが変わると言おうとしている。そこでキーワードになるのが、「不気味なもの」であり、「インターフェイス」であり、「シンボルとイメージが共存する平面」というわけである。第六章は、『ゲンロン0』全体のなかでも異質な章なのである。 

 なぜそのような章が挿入されたのか。それはじつは『ゲンロン0』全体の設計と関わっている。いくつかの機会で言っているように、『ゲンロン0』には、ポストモダン思想をアップデートするという狙いがある。ポストモダン思想は、ポストモダンの到来によって、世界も変わるが人間もまた変わると説いていた。それゆえ、ぼくとしては、ポストモダンの世界観(リゾーム)を「郵便的」にアップデートするとともに、同じことをポストモダンの人間観(スキゾ、ノマド、あるいは「サイバースペース・カウボーイ」)に対しても行う必要があると考えた。第六章が挿入されたのは、この必要性ゆえである。 

 しかし、と読者は思うかもしれない。ポストモダンの時代が来ることで人間もまたポストモダン的になる、そんなことがありうるのだろうか。時代が変わることで人間も変わるものなのだろうか。

 この問いは本質を突いている。そしてじつはかなり答えるのがむずかしい。というのは、それはそもそもが、表象文化論なりメディア研究なりといったポストモダニズムのなかから生まれた新しい研究分野が抱える、原理的な弱点に関わる問いだからである。 

 表象文化論やメディア研究といった分野は、記号と主体の関係を研究するものだと言われている。具体的には、遠近法と主体の関係とか、映画と主体の関係とか、そういった問題を研究することになっている。そのような研究の前提となるのは、人間をとりまく記号の性質が変わることで、人間の現実との接しかた(主体性)もまた変わるという、いわば「記号と主体の連動の原則」である。その前提があるからこそ、遠近法の発明は主体を変え、映画の発明は主体を変えたのだと、研究者たちはためらいなく語ることができる。 

 そのような前提を支えているのは、人間は記号を媒介にしないと現実を認識できない、したがって記号の環境が変われば現実の認識も変わるはずだ、という記号論的で相対主義的で構造主義的な人間認識である。これまたいっけんもっともらしく聞こえるのだが、しかし、あらためて考えてみると、あまりにも大ざっぱな主張である。たしかに、革命的なメディアの誕生は、人間と現実の関係をすっかり変えてしまうように感じられる。遠近法の発明以前と以後とでは、現実の見えかたはぜんぜん異なるのだと言われれば、そうかという気持ちにもなる。とはいえ、人間の脳や視覚が、生物学的にこの数万年まったく変わっていないこともよく知られている。つまりは、網膜で電気信号に変換され、視覚中枢で再構成される視覚像そのものは、遠近法以前でも以後でもなにも変わらないのである。だとすれば、遠近法以前と以後で、変わったものはいったいなんなのか。そこで変わった「現実の見えかた」とは具体的になんなのか。この疑問に対してきちんと答えることができなければ、研究は印象論を超えることができない。 

 これは表象文化論やメディア研究が一般的にもつ弱点であり、おそらくはそれらの研究が、蓄積のわりにいまひとつ世間で信用されていない理由もまたこの弱点にある。そして、率直にいうと、『ゲンロン0』を執筆する時点では、ぼく自身もまた弱点を克服することができていなかった。ぼくは第六章で、インターネットあるいはグラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)の発明の以前と以後では人間の「なにか」が変わったと言いたかったのだが、そしてそれを前述のようなキーワードで捉えるべきだとも言いたかったのだが、その「なにか」がなにかについては、シンプルに記述することができなかったのである。第六章がほかの章ほどクリアでないのは、この欠落のためだ。 

 それゆえ、第六章にはじつに大きな穴が空いている。言い換えれば、じつに大きな余白が残されている。 

 今回からしばらくのあいだは、その欠落=余白をめぐって、つまりは、第六章で書きたかったけれども書けなかったことをめぐって、つらつらと思いつきを展開していきたいと思う。いま述べた弱点そのものについては、ぼくはいまだに克服できていない。しかし、その余白を、じわじわと具体例で埋めていくことはできる。その作業はおそらく、今号から新しく連載となった大山顕の写真論や、渡邉大輔のポストシネマ論とも響き合うものになるのではないかと考えている。


『ゲンロン0 観光客の哲学』
東浩紀 著

¥2,530(税込)|A5判・並製|本体326頁|2017/4/1刊行

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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