浜通り通信(最終回) 誤配なき復興|小松理虔

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初出:2017年5月26日刊行『ゲンロンβ14』

 ついこの間の日曜日、地元の小名浜で開催された町歩きイベントに参加してきた。小名浜の神白(かじろ)地区のポイントを巡りながら、同地区の歴史を学びつつ、気ままにフォトシューティングしようじゃないかというイベントで、わたしの仲間たちが企画している「小名浜本町通り芸術祭」というアートプロジェクトの関連企画の一つとして開催された。ガイド役は小名浜在住のリサーチャー、江尻浩二郎。江尻はカオスラウンジがいわきで開催してきた「市街劇」のシリーズでもリサーチを担当している。いわきの日常に埋もれた「歴史の潮目」を探し出してくる名手だ。

 最初のポイントは、神白地区の権現山という小高い丘の頂上にある福島県漁業無線局。漁業無線とは、沖合漁業の安全を図るため、操業や天候などの情報をやり取りする無線である。無線局は、その送受信と管理を行っている。漁業に関わる人でなければその存在を知ることはほとんどないと思うが、全国各地にこうした漁業無線局は点在しているそうだ。どこそこの天候はどう、どんな魚をどのくらい水揚げした、といった情報のほか、事故や災害の情報もやり取りされる。実はとても重要な漁業インフラなのだ。

【図1】権現山の頂上に見えるアンテナ群が、ツアーの最初の目的地だ


【図2】小名浜民なのに、一度も通ったことのない道を歩く


 ウェブサイトを開くと、漁船から届けられた情報が毎日更新されている。例えばこんな具合に。



2017/05/10 入出港船情報
【鮪船】
第37金栄丸 0800時入港
第77祐喜丸 昨気仙沼発続航中

【旋網船】
第31日東丸 昨夕刻より北上、早朝より石巻に仮泊中
第2八興丸 今夜20時焼津入る
第28常磐丸 夕刻焼津に入る
第1寿和丸 凪悪く八丈に仮泊中
第81共徳丸 昨夜 小名浜発 大津沖2回目操業 僅かに終わり 0830時 小名浜入港
第8共徳丸 昨21時小名浜発2回オカズに終わり08時小名浜入港
北勝丸 昨日青ヶ島沖オカズに終わり08時三崎入港

【鰹船】
第28亀洋丸 06時焼津着★1



 船上で魚たちと闘う漁師の皆さんには申し訳ないけれど、なんだかとてもほのぼのとする情報だ。シミュレーションゲームのように、海図と船のシルエット、次々に情報を寄越す船長の画像が思い浮かぶ。そして、あの船は調子がいいみたいだ、おおお、あと少ししたらカツオが食べられそうだ、なんて、勝手に漁の状況を思い浮かべては、水揚げを心待ちにしている自分がいる。震災後、福島の漁業や水産業に関わることが増えたこともあってか、ぼくもすっかり港町の人間になってしまった。

 福島県漁業無線局は、開局七三年の歴史を誇る。主に福島県に籍を置く漁船が登録している。震災後は甚大な被害を受けた宮城県の漁業無線局の業務を引き継いでいることもあり、この白いアンテナが情報を送受信する漁船の数は、今や日本一を誇るそうだ。日本有数の水産県である宮城県の無線を引き受けることの重みを感じつつも、やはり「日本一」という言葉のインパクトは大きく、アンテナも心なしか輝いて見える。実はこの漁業無線、そのシステム自体が日本だけにしかないそうだ。つまり、無理矢理こじつければ、この無線局は「世界一」の規模だと言うこともできる。

【図3】小名浜が誇る「世界一」の漁業無線アンテナ


 しかし、誇らしさを感じると同時に、二〇一一年の三月一一日はどのような情報がやり取りされたのだろうかと、あの日に思いを馳せずにはいられなくなる。漁船の多くは津波を避けるために沖に退避した。陸にいる家族の安全を願いながら、不安な一夜を過ごしたことだろう。真っ暗な海で、無線を頼りに何らかの情報をやり取りしたのかもしれない。その時の不安や絶望感や焦燥はいかばかりか。大混乱に陥る小名浜の町の上を、大勢の漁師たちの思いが電波となって飛び交ったその痕跡を思い浮かべた。

 ”世界一”の無線局には、もう一つ興味深いものが存在している。無線局の駐車場の手前に、こんもりと盛り土がされているような塚がある。実はこれ、小名浜を代表する古墳時代の遺跡の一つ「千速(せんぞく)古墳」である。真ん中に道路があり、その道路の両サイドに一つずつ、もっさりと盛り上がった塚。それぞれ直径二〇メートル×高さ四メートルほどの円墳だそうだ。神白地区を流れる神白川流域を支配していた有力者の墓と考えられているそうだが、詳しい学術的調査や詳細な測量は行われていない。

【図4】道路の両側が二基の古墳である。もともとは1つだったのかもしれない


【図5】古墳の上にはお宮様がしつらえられていた


 小名浜の市街地から見れば、この神白地区は海と川と山しかない僻地だ。しかし江尻によれば、平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』のなかに、磐城郡の地名として「神城(カシロ)」が紹介されていて、それが後世になって「神白」と表記されるようになったのではないかという。そういえば、同じ神白地区にある「国元屋」という温泉は、胃の不調に効き目があると神代より愛飲されてきたという鉱泉をウリにしている。やはり地名に「神」がつくくらいだから、由緒ある土地なのだろう。

 その神白地区にある千速古墳。ここでは「センゾク」と読むが、訓読みすれば「ちはや」である。古文で「ちはやぶる」とは、まさに神にかかる枕詞。いろいろと妄想の膨らむところだ。僻地とバカにしていたこの場所が、小名浜のルーツなのかもしれない。小名浜に長年暮らしているのに、こんな場所がノーマークだったとは自分の節穴を恥じるほかない。

歴史文化への無自覚の裏側にある周縁化


 小名浜にはもう一つ、大きな古墳がある。その古墳で、地域史をゆるがす大発見があった。いわき市小名浜林城(りんじょう)地区にある「塚前古墳」が、福島大学の調査によって、古墳時代後期に造られた全長一〇〇メートル級の前方後円墳だったことがわかったのだ。新聞報道などによれば、後期古墳としては東北地方最大で、調査した福島大の菊地芳朗教授は「当時、東北にも大和政権とのつながりがある首長がいたことを示すものだ。6世紀の東北の繁栄や有力者の存在を再考する必要性が生じた」と語ったという★2

 河北新報に記載されていた、東北大総合学術博物館館長の藤沢敦教授のコメントも転載しておく。「古墳の大きさや形から考えて、東北など地方の有力者が、古墳時代後期(6世紀)に大和政権の運営を支えていた可能性を示すものではないか。6世紀には近畿地方の大王による地方支配が強まり、7世紀の律令(りつりょう)国家形成につながったという直線的な歴史観が支配的だが、そうした定説に一石を投じる発見だ」。それだけ価値のある大発見だったのだ★3

 ただこの大発見、いわき市民として心から喜べない事情がある。実はこの古墳、かなり前に発見されていたにもかかわらず、詳しい調査が行われずに放っておかれていたからだ。宅地の造成に伴い、昨年になっていわき市が再調査。結果をまとめた冊子一冊を発行しただけだった。その後、福島大学がさらに詳細な調査を行い、「巨大な前方後円墳」だという見方が示されたのである。いわき市は、巨大な前方後円墳であることを知っていた。しかし、その価値を世に問い、地域の財産として守ろうという意識がなかったのだ。

 同じ福島県の南相馬市にある「桜井古墳」で、充実した保存整備事業が行われ、桜井古墳公園として生まれ変わったのと対照的である。もちろん、その公園が実際に大勢の市民に親しまれているのかは分からないけれども、貴重な文化財を後世まで保存し、市民の憩いの場として活用しようとした人たちがいたことは間違いない。いわき市は、何の情熱もなく文化財を放置し、ある意味では福島大学という外圧によって、初めてその重い腰を上げたわけだ。歴史や文化というものに対する評価・理解の低さが、大発見の根底にある。

 原発事故以降、双葉郡からの移住者、避難者を受け入れてきたいわき市では「土地が足りない」状態が続いてきた。この塚前古墳も「塚なんて崩して宅地にしっちめえ(そっちのほうが金になる)」という状況だったのかもしれない。地元感覚だと、たぶんそんなものだろうと思う。むしろ「古墳」なんて邪魔なものでしかないはずだ。一銭にもならない。観光地になるわけでもないし、むしろ雑草が生えて見た目にもよくない。そんなものは早く崩して宅地にして売ってしまいたい、と。

 いわき市の、文化や歴史に対する関心の低さ(あるいは「魂の欠落」と言っていいかもしれない)は、過去の浜通り通信でも「文化の潮目」や「常磐」という言葉を使って解説してきた。この地帯(いわき市や浜通りを含む常磐地区)は、黒潮と親潮の潮目であり、ヤマトとエミシの潮目であり、関東と東北の境目であった。よく言えば、多様な文化が流れ着く場所だとも言えるが、悪く言えば緩衝地帯だ。度重なる敗戦(関ヶ原と戊辰)や領地替え、中央のエネルギー政策に翻弄され、自分たちの誇るべき歴史を失ってきた土地でもあるだろう(世界では、こうした緩衝地帯からテロリストが生まれている)。

 わたしたちは、本来、誇るべき歴史や文化を有しているはずだ。しかし、国家の発展のための犠牲を押し付けられ、その過程で、過去の歴史を自ら葬ってきた。町の誇りは、歴史や文化ではなく、「炭鉱」や「火力」や「原子力」であり続けた。それは、日本を支えているという自負でもあっただろう。しかし、その自負は、ぼくたちが支えているはずの日本によって裏切られるという歴史を繰り返している。近世、近代、そして現代。かくも寡黙に日本を支え、それでも裏切られ続けている土地をぼくは知らない。しかしそれでも、多くの人たちはあっけらかんとしているわけだが。

 自分たちの土地の軸となる歴史や文化を取り戻すことができず、地域づくりに失敗し、その結果、中央への依存を余儀なくされ、やがてその依存構造をいつの間にか忘れ、自らを周縁化させていき、ついには中央に裏切られる。この地で繰り返されたのは、そのような歴史でもある。それを繰り返さないためには、自らを東北でも関東でもない「潮目の地」と自覚し、文化や歴史、芸術といった領域の活動を再起動して、地域の軸を取り戻さなければならないのではないか。小名浜の二つの古墳は、そんなことを訴えているように感じられた。

沿岸地域の衰退を早めた復興


 この「浜通り通信」では、いささか主観的に、そして批判的に震災復興の裏側を取り上げてきた。甚大な津波被害を受けた、いわき市豊間地区の町づくりに関する文章を覚えている読者もいるかもしれない★4。厚く取り上げたのは、そこに復興の実像をまざまざと見た気がしたからだ。宅地造成のために里山が削られ、何重にも築かれた防災緑地と防潮堤が視界を塞ぐ様は、いわき市民のわたしからしても「やりすぎ」と感じてしまう光景だった。何しろ震災前の町の姿が跡形もないのだ。

 防災のためには仕方ないのかもしれない。スピーディーな復興のためには目をつぶらなければいけなかったのだろう。だからこそ、こうした「二度目の喪失」に目をつぶってもきた。しかし、復興は果たしてスピーディーだったのか。誰が、どの大臣が、どの政治家が、復興をスピーディーに進めようとして来ただろうか。震災から六年が経過した今、ぼくの目の前に広がっている景色は果たして「まだ復興の途中にある」と言えるのだろうか。考えれば考えるほど疑問だらけだ。

 復興は「地域づくり」のはずだ。観光や物産や風景や食文化がなければ、魅力的な地域は生まれない。その源泉を破壊して、形だけが整えられた安全な町のどこに魅力があるだろうか。地域復興の名の下に、中身のない、がらんとした器のような町を地域の人たちに手渡して「あとは皆さんの努力でなんとかせい」と放り投げてしまう、そのどこが復興なのだろうか。衰退を早めているだけじゃないか。復興とは、被災地を切り捨てるための方便なのか。

 震災からもう六年以上が経過している。もともとそこに住んでいた若い世代は、仕事と子育てのため、その土地を離れて中心部に移住した。町が再建されたとして、そこに暮らす人たちの多くは高齢者である。皆さんもそれを理解している。だから、もっともっと若者に移住してもらわなければならない、魅力をどんどん作っていこう、子育てしやすい地区にしていこうと、いろいろなアイデアを考えている。

 しかし、かつてロックバンドのくるりが「ばらの花」を撮影した美しい薄磯の景色は、もう失われてしまっているのだった。自然環境と地域が共生していない、町と海が断絶した要塞のような町に、地方移住を考えているような若者が来るだろうか。彼らは「東京から三時間」だったら、静岡や房総を目指すのではないだろうか。これから厳しい地域間競争をしていかなければならないのに、彼らに訴えかけるものが、もうほとんどなくなってしまったのだ。

 防潮堤で町は安全になった。公共事業で地域も多少は潤った。しかしもう三〇年もしたら、その町に住む人はいない。町の人たちは「この町が未来も続いていくように」と、一生懸命に魅力を創出しようとしている。しかし、その思いとは裏腹に、未来は切り取られているようにも見える。防潮堤は、津波ではなく「外部」や「未来」を遮断してしまったように思えてならない。

誤配なき復興


 沿岸部の被災地では、記憶の継承も大きな問題になった。しかし、そもそも文化や歴史を大切にできない地域が、今あるものを未来に残していけるだろうか。古墳をつぶして宅地を作りたい町に震災遺構を残すことは難しいだろう。保存するノウハウも人も人脈も、思想も理念もないのだ。文化や歴史の軽視、あるいは「今ここ」への過度な依存。それは震災後の「記憶の継承」にも大きな影響を及ぼしてしまった。

 私たちのこの六年の選択は、つねに「今、この私たちが苦痛だから」という視点で決められてきた。私たちの苦しみはあなたにはわからない。当事者ではない人間は口を出すな。こんなものと向き合っていきたくない。そんなふうに。震災復興における「当事者」語りは、外部の切り捨てに拍車をかけた。防潮堤の話も同じだろう。そこには「被災した人」の視点はあっても「これから住むことになるかもしれない人」の視点はない。外部への眼差し、未来への視点がないのだ。

「風評」への対応も同じかもしれない。当事者語りは、確かに「今ここにいる人」を癒してきたかもしれない。傷つけられた心を多少は回復する効果もあっただろう。しかし、ただでさえ外部が関わりにくい当事者論争に「左翼叩き」が加えられ、議論は政治化し、福島はさらに話題にしにくい場所になってしまった。確かに原発事故直後の反原発左翼の言動は酷かったが、今自分自身の言動を振り返ってみれば、左翼を切り捨てているようで、外部そのものを切り捨てていたのかもしれない。

 当事者語りはマジメな人しか生産しない。マジメな人は、ずっと福島のことを考え、復興のことを考え、地域振興を考える。それはそれで評価されるべきだし、そういう人たちも必要なのはわかる。一方で、高校生たちが「福島復興に寄与したい」などと言うのを聞くと、頼もしさよりも「おまえ、戻ってくるのはもっと外を見てからでいいぞ。それまでは楽しんでこいよ」とも思ってしまう。福島に関わることによって、なにか十字架を背負わせてしまっているようにも思えるのだ。

 事情を知らないなら語るな。本当の苦しみを知らないのなら関わるな。気軽な気持ちで関わってもらったら困る。もっと勉強をしてから関われ。それは、差別的な発言を多少抑制もしただろう。ぼくたちの心にひっかかった溜飲を下げることにもなったはずだ。しかし、その裏で「未来」をも失ってきたのだということを、ぼくたちは数十年後に知ることになるのかもしれない。
 ぼくは福島の情報発信について、もう何年も前から「マーケティング思考」「商売人根性」を大事にしたいと語ってきた。敵味方ではなく「お客になるかもしれない人」を見据えよう、そんなつもりだった。「お客になるかもしれない人」なんて、いるかいないかは分からない。それでも、目の前の人の奥にもっとたくさんの「お客になるかもしれない人」を想像できずにモノが売れるはずがない。未来の、どこかのだれかに届くかもしれない。それを考えたら、出てくる言葉は変わる。

 そうした思考は、時として苦しいし、悔しい思いをすることもある。しかし、未来を、そして自分の子や孫たちを見据えれば、「今この苦しさ」を多少は和らげることはできるはずだ。どこかの県の、名前も知らない、会ったこともない誰かに、偶然、自分たちの思いや商品が届き、共感してくれたときの喜びを、ぼくはかまぼこメーカーに勤務していた頃に何度も味わった。目の前の苦しみや悔しさを超えて、未来に、そして外に向かって、だからこそ気軽に、福島を考え続けること。それしかないのではないか。

 今に至って、ようやくぼくは気づかされた。復興には誤配がないのだ。復興は分かりきった人たちに、分かりきった答えしかもたらさない。そこには未来がない。外部がない。つまり、どこにも行けないのだ。

 地域づくりも同じだろう。地域づくりに必要な人を「ヨソモノ・ワカモノ・バカモノ」と言う。この三つを言い換えれば、そのまま「外部・未来・ふまじめ」ではないか。当然、被災した土地の未来は、そこに暮らす人たちが決めるべきだし、怪しいコンサルの話を聞けというわけでもない。しかし、地域の決断は、「今このわたし」と「外部・未来・ふまじめ」を何度も何度も往復した末にあるべきだ。未来と外部を切り捨ててはならない。なぜなら私たちの地域は「今このわたし」だけのものではないからだ。これは、小名浜という地域で、地域づくりや食に関わるわたしの、実践者としての信念でもある。偶然に移り住むかもしれない人たち、震災のことなんてわからない未来の子どもたち、本当は関心を持っていたのに言葉を発するのをためらっていた人たち、そのような人たちを切り捨てた復興であってはならないのだ。

 浜通り通信の最終回、ぼくはようやく「誤配なき復興」という問題の本質に辿り着いた。というより、言いたいことを言うのに五〇回もかかってしまったということかもしれない。誤配という言葉は使わずとも、似たようなことは何度も伝えてきた。ただ、最後の最後で「誤配」という言葉を使ったとき、ああ、ぼくが言いたかったのはつまりそういうことなんだと気づかされた。そう思い切ることができた。今はとても視界がクリアだ。最終回という感慨もあるだろう。

 浜通り通信の第一回は二〇一四年五月に公開された。もう丸三年も書き続けてきたことになる。酒のこと、食い物のこと、そして復興の負の側面や、いわき・浜通り・常磐という土地の宿命。さまざまに書き散らしてきた。まるでぼく自身が福島を「観光」するかのように、いろいろな人に怒られながら、炎上しながら、それでも楽しさだけは見失わずに書いてきたつもりだ。福島が誤配される可能性を信じて、ぼくに五〇回もの場をくれた東さん、そして編集部の皆さんには感謝しかない。

 批評を求めて本書を手にした読者は、ぼくのつたない語り口にだいぶ戸惑ったかもしれない。でも、心のどこかに、ぼくの書いた何かしらがひっかかっていてくれたら、それはやはり書き手冥利に尽きるというものだ。浜通り通信を書き続けること。それは、ぼくにとってはあなたに「ひっかかり」という名の未来をつくることであった。五〇回のうちの何回か、一つか二つでも、パンチラインがひょいっとひっかかってくれていたら幸いである。ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。

防潮堤のスタンドで


 小名浜で参加した神白地区の町歩きツアー。川沿いを歩いて海岸へと出て、砂浜を南に歩き、再び海側から防潮堤に登ってみると、意外な光景が目の前に広がった。防潮堤の下が、ちょうどいわき海星高校のグラウンドになっていて、高校生たちが野球の練習試合をしていたのだ。高校の敷地だとは思っていたが、それにしても防潮堤のすぐ下がグラウンドになっているとは。

 上に登って見てみると、防潮堤そのものが三塁側スタンドになっていて、保護者や下級生たちが陣取っている。その光景が、ぼくには心地よかった。国や土木の思惑なんて関係なく、ましてや復興なんて気にもとめることなく、高校生たちがちゃっかりその防潮堤を利用している。そこには、被災地に生きる高校生たちのしたたかさがあった。無意識にせよ、ぼくたちの求める「ゲリラ」があった。

 いわき海星高校の球児たちと試合をしていたのは、双葉郡広野町にある「ふたば未来学園」の選手たちだった。練習着の背中に「FUTURE」と大書してある。ぼくはてっきり「FUTABA」と書かれているのだと思った。しかし、FUの次をよく見ると、それは未来そのものだった。彼らは、福島の復興の最前線を進むことになるだろう。死ぬまで復興と付き合わねばならない、いわば「マジメに」復興に関わるエースたちだ。そんな未来学園の球児たちが、小名浜の水産高校のクソガキたちと防潮堤のスタジアムで相見える。それがとても痛快だったし、なにかとても必然的なもののように思えた。

【図6】防潮堤を体よくスタンドとして使っているいわき海星高校の野球場


【図7】練習試合を繰り広げるいわき海星高校とふたば未来学園高校


 ぼくは、この防潮堤を、やはり震災復興に批判的な文脈のなかで伝えていくだろう。しかし同時に、球児のように防潮堤を遊び尽くしたいとも思った。気軽に遊び、悪ふざけをし、楽しみ尽くす日常のなかでこそ、歴史の再発見は価値を持ち、批評性が生まれ、世代を超えて考え続ける回路になると思うからだ。ぼくはこれからも、福島を遊び、福島を楽しみ続ける。皆さんも、この福島を軽薄なまでに遊び尽くして欲しい。そこにはきっと誤配の種が生まれるはずだ。

 ふと校舎の奥を見上げると、さきほど訪れた漁業無線局のアンテナが見えた。いわき海星高校は水産高校だ。この球児のなかから、もしかしたら何人かは漁師になり、沖の船から様々な情報をこの無線局に届けることになるのかもしれない。アンテナからも、四方八方に無線電波が飛ぶ。どこの誰が受け取るかわからない。受け取られないかもしれない。それでも、誰かが何かを受け取ってくれるかもしれないと信じて、このアンテナは知らせを飛ばし続けることだろう。そうして発信された電波こそ、被災地の希望そのものなのではないか。白球を追いかける「FUTURE」の文字が、そう告げているような気がした。

【図8】いわき海星高校そばの防潮堤はまだ完成していない

★1 「2017/05/10 入出港船情報」、「福島県無線漁業協同組合」、二〇一七年五月一〇日。 URL=http://www.gurutto-iwaki.com/detail/newsdetail_1365_279947.html
★2 「いわき・塚前古墳:東北最大の後期古墳 大和政権とのつながり示す 福島大調査 /福島」、「毎日新聞」、二〇一七年五月一一日。 URL=https://mainichi.jp/articles/20170511/ddl/k07/040/020000c
★3 「〈塚前古墳〉全長120m 後期東北最大か」、「河北新報オンラインニュース」、二〇一七年五月一一日。 URL=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201705/20170511_63011.html
★4 小松理虔「浜通り通信 41 豊間から『当事者として』復興を考える」、『ゲンロンβ5』、二〇一六年八月。 http://amzn.to/2qGqj2G
「本書は、この増補によってようやく完結する」。

ゲンロン叢書|009
『新復興論 増補版』
小松理虔 著

¥2,750(税込)|四六判・並製|本体448頁+グラビア8頁|2021/3/11刊行

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
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