日本で哲学をするとは――アンスティチュ・フランセ東京「哲学の夕べ」ガーデントーク|國分功一郎+東浩紀

初出:2017年7月21日刊行『ゲンロンβ16』

 二〇一七年五月二七日、よく晴れた土曜日の昼下がり、娘の運動会の観覧を終えたぼくは神楽坂のアンスティチュ・フランセ東京(旧東京日仏学院)に向かった。同日夜に予定されていた、ベルナール・スティグレール、石田英敬両氏とのシンポジウム出席のためである。緑に包まれた中庭で、初対面のスティグレール氏に向けてブロークンな英語で『観光客の哲学』の内容を説明していると、流暢なフランス語で介入してくる人物がいる。顔をあげると、ほぼ二年ぶりの國分功一郎氏だった。
 聞けば、國分氏はこれから「中庭の哲学講義」を行うことになっているが、話す内容はほとんど決まっていないという。他方のぼくはシンポジウムまで二時間ほど時間が空いている。それならということで、急遽公開で対談が始まった。あくまで気紛れから始まった企画で、話も陽光のもとビール片手にじつにリラックスした雰囲気で行われたのだが、ふしぎなことに内容は意外なほど双方の仕事の本質に迫るものになった。そこでここであらためて活字化する次第である。哲学的対話とは、本来はこのような偶然からこそ生まれるものなのかもしれない。
 なお、スティグレール、石田両氏とのシンポジウムのほうは、スティグレール氏の講演の記録および石田氏の解題をあわせて、九月刊行の『ゲンロン6』に掲載される予定である。そちらもあわせ読まれたい。(東浩紀)

 

剣道VS異種格闘技


國分功一郎 まずは『中動態の世界』(医学書院)についての感想を聞かせてください。

東浩紀 「いまふたたび言語から哲学をやる」のがよかったですね。言語への注目はオーソドックスすぎて古いように見えるかもしれないけど、言語学的な視点にはまだまだ可能性があるはずです。ぼくも『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)でカール・シュミットの「友敵理論」に触れているのですが、それに関連して言えば、「わたしたち」という言葉も言語によっていろいろなちがいがある。よく知られているところでは「包摂的一人称複数」と「排他的一人称複数」があって、話し相手を入れる「わたしたち」と話し相手を入れない「わたしたち」がある。そういうところから友敵理論を読み直せば、また新しい視点が出てくるかもしれない。

國分 もともとフランス現代思想はものすごい言語偏重で、まさにジャック・デリダはそうでした。いまは逆に、言語の存在感がどんどん薄くなっていく傾向にあります。だからいまは、『中動態の世界』に対しても「言語がこんなふうにひとの精神に影響を及ぼすはずがない」と言われるかもしれない。そのような批判は覚悟で書きました。ある種反動的な試みだったと感じています。

 最近、千葉雅也さんの『勉強の哲学』(文藝春秋)と國分さんの『中動態の世界』、それにぼくの『ゲンロン0』がよくセットで取り上げられてますね。でもみんなかなりちがう本ですよね。そんななか國分さんは、千葉さんは自己啓発に、東は政治哲学にいってしまって、ちゃんと哲学をやっているのはおれだけだと思っているのではないか(笑)。『中動態の世界』は、まさに哲学の保守本流という本。ぼくは、出自や履歴の問題もあって、いろんな文脈を持ってきて、異種格闘技戦みたいに展開していく本しか書けなくなっている。『中動態の世界』にしても、もしぼくが同じ問題意識で論を展開したとしたら、分析哲学や京都学派、時枝文法の話なんかも入れたくなってしまうと思いました。國分さんの本は、きれいな剣道みたいに、型がしっかりしている。

國分 話を拡散するときりがなくなってしまうので、意識して禁欲したところがあります。東さんの場合、「哲学」と同時に「批評」という言葉も使いますけど、そのこと自体がハイブリッドなものを目指しているあらわれですよね。けれどもぼくは、哲学という言葉で、まさしく剣道のように、ぶれない思考をするためにはどうしたらいいかを考えている。

 ギリシャ語やラテン語を参照するところなんか、まさにそうですね。特異点がハンナ・アレントなのかな。國分さんもあとがきで、アレントは本来の構想にはなかったと書かれている。実際國分さんは、アレントを使いながらも、政治的な含意はわざと書かないようにしていますよね。ところどころに政治に接続できる箇所はあって、國分さんの仕事からすれば当然触れていてもおかしくないのに、書いていない。たとえば文中で、「政治参加する」という意味のengagedが中動態的な用法の例として出されていたでしょう★1。あそこから、アンガジュマン(engagement=政治参加)自体が中動態的な行為である、というようにも展開することができたのではないか。実際にはアレントは政治参加を中動態的なものというより……

國分 ものすごく能動的に捉えている。

 そう。だとすれば、能動的な政治参加を規範的に打ち立てようとしたアレントのその限界に対して、中動態的なアンガジュマンの可能性を打ち立て、最後の『ビリー・バッド』論の再読へつなげると、かなりきれいな議論ができるはずですよね。でも、そこも禁欲してしまった。

國分 禁欲というか、どれくらい話題を広げていいのかわからなくなってしまった。これを書かなきゃいけないという気持ちの一方で、こんなことだれも関心持たないんじゃないかという気持ちがあった。

 実際、哲学はいまなにを書いても興味をもたれない。ぼくも今回はめずらしく、だれにも読まれなくていいと思って書きました。

國分 それは意外ですね。読まれないだろう、ではなく?

★1 國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』、医学書院、二〇一七年、一九三頁。



 

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