スマホの写真論(8)証明/写真|大山顕

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初出:2017年11月17日刊行『ゲンロンβ19』
 アメリカの入国審査で不思議に思うことがある。顔写真の撮影時に「眼鏡を外せ」と言われることだ。近視のため眼鏡をかけるようになって三〇年。一日の大半は眼鏡をかけて過ごしている。お風呂に入るときと眠るとき、セックスのとき以外は必ず眼鏡をかけている。ぼくの裸眼の顔を見るのは妻だけだ。そこにアメリカの入国審査官が仲間入りしたわけである。外すのが恥ずかしいわけではない。老舗眼鏡店「東京メガネ」が昔、テレビCMでうたっていたキャッチフレーズ「メガネは顔の一部です」の通り、ぼくの顔を認識するために眼鏡は欠かせない。パスポートの写真ももちろん眼鏡をかけている。だから裸眼の顔はむしろ審査に向いていないのではないかと思うのだ。ちなみに東京メガネは、日本で初めて視力測定器をアメリカから輸入した店だそうだ。あと、昔 mixi には眼鏡をかけたままお風呂に入る人が集まるコミュニティがあった。あれには驚いた。

 出入国審査で眼鏡を外さなければならない理由は、瞳が重要だからだそうだ。外務省のホームページにも「渡航先の出入国審査等において本人確認を行う際に、瞳の色は重要な識別ポイントになります」とある★1。人を特定するとき、どこに注目するかは文化や習慣によって異なる、というのは興味深い。そういえばアメリカのサスペンスドラマを見ていると、被害者や容疑者の人物説明で「眼はブルー」などというセリフがよく出てくる。

 裸眼の顔を撮られたうえに指紋も採取され、ようやく返された自分のパスポートを見て思った。そもそも顔写真が証明になるということ自体が不思議ではないか、と。今回はこの話をしよう。

 顔について論じた著作は多い。写真論もその多くが事実上顔論である。ぼくがそれらに対してここでささやかに付け加えたいのは、スマホで自撮りすることが当たり前になり、SNS上にそうした写真が大量に流れている今日の状況がもたらす変化だ。結論から言うと、顔写真が指し示すもののありかが「反転した」のではないか、という仮説である。
 まず、芸術写真におけるセルフポートレイトについてごく簡単に述べよう。ロバート・A・ソビエゼクは「セルフポートレイトの中のもうひとりの私」で、ジャスパー・ジョーンズの言葉を引きつつ「アーティストは監視員でもありスパイでもある。[中略]こうした二面性が最も顕著となるのがセルフポートレイトである」★2と述べている。「監視員」とは物事・制作された作品の見え方(あえて言うなら「客観的事実」)のみを気にかける存在のことで、「スパイ」とはその見え方の奥にあるなにものかを洞察する存在のこと。つまりこれは作品を読み解く方法論の比喩であり、写真においては、加えて「見るもの(撮影者)と見られるもの(被写体)」の構造も意味している。こうした二面性は、撮影者と被写体が同じ人物であるセルフポートレイトにおいて、よくあらわになるのだ、と。

 この見解がぼくにとって興味深いのは、セルフポートレイトは写真作品の中で特別だと述べているからだ。確かにその通りだと思うが、一方で、その特別さは、単に従来のカメラにおいてはファインダーとレンズが違う向きについていたことに由来しているだけなのでは、とも思う。ファインダーとレンズがもともと同じ面についていたら──つまりそれはスマホのインカメラのことだが──自撮りこそが写真の当たり前だったにちがいない。たぶんそのようなパラレルワールドでは、見るものと見られるものの対立構造に関する人文的思索の質が、現在ぼくらが知っているものとはだいぶ異なるだろう。実際、「見るものと見られるもの」を一致させる鏡は、画家に鏡越しにまなざしを向けることの不思議さを気づかせてきた。ベラスケスの「ラス・メニーナス」やファン・エイクの「アルノルフィーニ夫妻の肖像」などはその代表例だろう。ぼくが繰り返しスマホのインカメラが衝撃的な革命だと言っている理由はここにある。

 ソビエゼクの論考が対象としているのはスティーグリッツやエヴァンズ、スタイケン、シャーマンなど錚々たる大写真家たちのセルフポートレイト作品だが、こうした芸術作品ではなく、証明写真における「見るものと見られるもの」の特殊さはもっと別のところにある。それは、証明写真が被写体本人の前で見比べるためのものである、ということだ。しかも、本人は自分で自分の顔を直接見ることはできない。顔によって本人を証明するという行為は、その持ち主をほったらかしにして行われる。だから証明写真は居心地が悪い。

 先日発売になった iPhone X の目玉は Face ID とポートレイトモードである。ホームボタンが廃され全面ディスプレイになり、ロック解除が Face ID による顔認証になった。端末を取り出し画面に顔を向けるだけでロックが解除される。アップルは、これまでの指紋認証より本人を特定する精度が高いと言っている。かつてのパスワードより、指紋より、顔こそがその人がその人であることを最も正確に特定できる、というのはとてもおもしろい。

 この認証方法の変遷を見て、シャーロック・ホームズの一篇「ボヘミアの醜聞」を思い出した。ホームズは作中で、筆跡も封蝋も本人を特定する証拠にはならないとしているのに、一緒に撮ったポートレイトは決定的だと断定している。ちなみにこの話の中で、ホームズは変装して他人になりすました結果、調査対象者である女性の結婚式に「証人」として立ち会う羽目になる。その後、こんどは逆にその女性が変装してホームズをやりこめる。最後には依頼人から報酬として高価な宝石を差し出されたにもかかわらず、ホームズはそれを断り、代わりになんとくだんの女性のポートレイトを要求して終わる。証拠としての顔写真、変装によるなりすまし、そして想い出とロマンスのポートレイト。顔にまつわるほとんどすべてが描かれている。顔論を語る上で欠かせない名作だ。

 現代に戻ろう。顔による新たな本人証明である Face ID の精度の高さを支えているのは「True Depthカメラ」と名付けられたシステムだ。三万点のドットを照射するプロジェクターと赤外線カメラによって、顔を立体的に認識する。つまりこの新たな本人確認においては、もはや自分の顔が自分で見えないだけでなく、参照される「証明写真」すら人間の眼では見えない性質のものになったということだ。おそらく iPhone X はホームズの変装も見破るだろう。ここで興味深いのは、この「True Depthカメラ」の仕組みを使ったポートレイトモードにより、より美しく自撮り写真が撮れるようになったという点だ。優秀な証明写真と美しい自撮り写真が、同じ技術に支えられている。これは奇妙だ。美しい自撮り写真は「ありのまま」ではないのだから。
 過日 Twitter でとあるプロカメラマンによる興味深いつぶやきを目にした。ポートレイトの撮影現場でモデルの女性に、撮れたものをカメラの背面モニターで見せたところ「これは私の顔じゃない!」と不機嫌な調子で言われたという。自撮りしたものをアプリで「盛る」ことが当たり前になっている彼女たちにとって、修整される前の顔は自分の顔ではないのだ。実は一九世紀の人々も同じことを言った。ナダールは彼の肖像写真館に来た客について「人は撮られた写真をはじめて見るとかならず失望する」と言っている。ほとんどが怒りに燃えて写真館を後にした、と★3。また、他人の写真を自分のだと思って満足する客も少なくなかったという。人は自分の顔がどんななのか、おそらくいまでもほんとうはよく分かっていない。

 それまで貴族のものであった肖像が、写真の登場によってブルジョワジーにも普及した。ナダールはそれをビジネスにして成功したひとりだ。とある肖像画家は、写真の台頭によって仕事がなくなるのではないかと問われた際に「大丈夫ですよ。写真は嘘がつけませんから」と皮肉たっぷりに答えたという。つまり、昔からポートレイトに期待されるのは「盛られた」自分のイメージなのである。自撮りアプリこそポートレイトの本流というべきだろう。顔写真の修整ソフトには、その名も「Portrait Pro」というものもある。

 一九世紀にたくさんいた肖像写真家の中で、ナダールの名がいまでも語られる理由は、彼が「人の顔はそれぞれ違う」ことを発見し、それを表現したからだ。多木浩二は「ナダールは、個々の顔の視覚的な差異が人間を認識する上で最も重要なものだと考えたのであった」「その差異に注目することは新しいことだった」と言っている★4。この背景には一八世紀の終わりにヨハン・カスパー・ラヴァーターによって提唱され、その後一九世紀を通じてブームとなった観相学があると思われる。これは顔立ちの観察によって、その人がどのような性格の持ち主か知ることができるという説に基づいた学問だ。

 これが流行った理由のひとつに、都市化・近代化があった。それまでの階級社会では、服装や立ち居振る舞いによって人を区別することができたし、そもそも社交範囲が限られていた。他人と日々新たに出会う近代都市が、顔の差異を要請したのだ。鷲田清一は『見られることの権利「顔」論』の中で「もはや伝統的共同体ではあり得ないような共同性のあり方を日常の都市生活の中で具体的に形成せざるを得なかったときに、人びとはその拡張された共同体の成員の行動様式を映しだす大きな鏡として、あるいはそれを読みとるための枠として、たぶんこの観相術を編みだした」と言っている★5。証明写真や顔認証はこの延長上にある。顔の差異を必要とした近代都市の発展期と写真の普及期が同時期なのは偶然ではないだろう。ナダールはその重要性を見抜いていた。

 ラヴァーターは、それまで宮廷で行われていた、相手の表情を読み本心を探る処世術だった観相術を科学にしようとした。「顔はその持ち主の内面を表現する」という考え方はアリストテレスをはじめ中国や日本にも古くから見られ、とくに目新しいものではない。ラヴァーターの画期的な発明は、顔を観察する際に表情を排除したことだ。このことによって観相学を科学にできると考えたのだ★6。無表情こそその人の本当の顔であるという考え方は、現在の証明写真に受け継がれている。パスポート用の写真は笑顔が禁止されている。

 そういえば肖像画も笑っていない。写真黎明期のポートレイトも笑っていない。笑い顔を捉えるためには、レンズとフィルムの高性能化が必要だったからだ。笑顔は一瞬の出来事なので、シャッタースピードを短くできてはじめて写すことができる。笑い顔はテクノロジーによって定着したと言えるだろう。写真における笑顔の問題は別の機会に掘り下げてみよう。

【図1】ラヴァーターは目や鼻の形だけでなく横顔の形(シルエット)も重要な手がかりであると考えた。19世紀に大流行したカメオのモチーフもたいてい横顔だ。一方、現在の証明写真はもっぱら正面の顔を使う。顔の特徴のありどころが「形から配置へ」移ったことは興味深い。19世紀の終わりにベルティヨンによって標準化されたマグショットは、横顔と正面の両方を撮影する。Face ID が顔を立体的に捉えて認証するのは犯罪写真の作法に似ている
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lavater%27s_Apparatus_for_Taking_Silhouettes.--(From_an_ancient_engraving_of_1783).jpg Public domain


 観相学を「顔を入口としてログインすると隠された情報が手に入る」というスマホのロック解除に喩えると、面白いことがわかる。観相学は顔を入口にその持ち主の内面を探るものだった。すなわち、求める情報は顔の持ち主の側にあると考えられていた。一方、スマホの顔認証においては、顔写真を見比べて許可を出したスマホ側に情報がある。こんにち、スマホとそこから読み出せるクラウドにあるものこそ、ぼくらの内面だ。いまや顔は読み解くものではなくなった。冒頭で言った「顔写真が指し示すもののありかが反転した」とはこういうことである。

 観相学がもたらした、顔の観察によって内面が見えてしまうのではないかという恐怖を、いくつかの小説で見ることができる。一九〇七年に発表されたO・ヘンリーの「マディソンスクエア・アラビアンナイト」には、モデルとなる人物の隠された本性をその顔の描写に表してしまう肖像画家が登場する。彼はそのせいで疎まれ仕事をなくし、路上生活者となる。一九一八年に発表されたJ・D・ベレスフォードの「人間嫌い」には、相手の顔に醜い本性を見て取ってしまう男が出てくる。彼はそれを見るのが嫌で婚約者と別れ、孤島で孤独な隠遁生活をしている。面白いのは両者とも、内面を見た側の人間が不幸になっている点だ。

 ラヴァーターが目指した観相学の科学化は、不幸にも後にダーウィンの進化論と過った結びつけをされ、優生学を正当化する根拠のひとつとされてしまう★7。ぼくが、盛った自撮り写真批判に賛同できないのは、その根底にある「ほんとうの顔信仰」とでも呼ぶべき態度に、なにやら優生学的な匂いを感じてしまうからだ。SNSに流れる写真の奥に、読み解くべき内面などないのに。「顔はその持ち主の内面を表現する」という考え方はいまでも取扱注意の危険物だ。盛った自撮り写真は、現代の観相学者が不幸にならないための優しさなのかもしれない。

★1 外務省「パスポート申請用写真の規格」。URL=http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/passport/ic_photo.html
★2 ロバート・A・ソビエゼク、デボラ・イルマス『カメラアイ──写真家たちのセルフポートレイト』、笠原美智子・安田篤生訳、淡交社、一九九五年、二二頁。
★3 小林弘忠『新聞報道と顔写真──写真のウソとマコト』、中公新書、一九九八年、八頁。
★4 多木浩二『肖像写真──時代のまなざし』、岩波新書、二〇〇七年、一七頁。
★5 鷲田清一『見られることの権利「顔」論』、メタローグ、一九九五年、六〇頁。
★6 浜本隆志・柏木治・森貴史『ヨーロッパ人相学──顔が語る西洋文化史』、白水社、二〇〇八年、九三頁。
★7 同書、一四頁。
「顔」と「指」から読み解くスマホ時代の写真論

ゲンロン叢書|005
『新写真論──スマホと顔』
大山顕 著

¥2,640(税込)|四六判・並製|本体320頁(カラーグラビア8頁)|2020/3/24刊行

 

大山顕

1972年生まれ。写真家/ライター。工業地域を遊び場として育つ・千葉大学工学部卒後、松下電器株式会社(現 Panasonic)に入社。シンクタンク部門に10年間勤めた後、写真家として独立。執筆、イベント主催など多様な活動を行っている。主な著書に『工場萌え』(石井哲との共著、東京書籍)『団地の見究』(東京書籍)、『ショッピングモールから考える』(東浩紀との共著、幻冬舎新書)、『立体交差』(本の雑誌社)など。2020年に『新写真論 スマホと顔』(ゲンロン叢書)を刊行。
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