ポスト・シネマ・クリティーク(22)「空洞化」するインターフェイス──静野孔文・瀬下寛之監督『GODZILLA 怪獣惑星』ほか|渡邉大輔

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初出:2017年12月18日刊行『ゲンロンβ20』

「深さ」と「画面」の再発明


 この連載では、毎回、劇場公開中の新作映画を1本取りあげ、「ポストシネマ」の現状を時評的に追ってきた。年内最後となる今回は、いささかイレギュラーな形式ながら、この連載で追求してきた論点にとって示唆的な意味を含んでいる言説と本論の議論とを交差させ、ここ最近に劇場公開されたいくつかの新作を適宜参照しながら、あらためて試論的にまとめておくことにしたい。

 わたしがここで参照しておきたい重要な言説というのは、ほかでもない本誌『ゲンロンβ』で連載中の東浩紀の論考「観光客の哲学の余白に」である。東はこの連載で、近著『ゲンロン0 観光客の哲学』第6章の議論──さらには90年代に発表された刺激的な初期論考「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」(『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』など所収)や主著『動物化するポストモダン』などで展開された問題意識を引き継ぐ形で、今日の視覚メディアの変化から、かりに「インターフェイス的」あるいは「タッチパネル的」と形容されるポストモダン時代の新しい主体性や世界把握の哲学的な定式化を試みようとしている。

 以上の論旨は、いうまでもなく、これまでにもポストシネマの画面が、従来の映画館のスクリーン映像やそれをまなざす観客性からラディカルに逸脱し、コンピュータのインターフェイス的な仕様(『映画 山田孝之 3D』)や、人間的な眼=キャメラアイから遊離する「多視点的」な遍在性を宿してゆくこと(『ジョギング渡り鳥』『イレブン・ミニッツ』)をさまざまに指摘してきたわたしのこの連載にも、じつに大きなヒントをいくつも与えている(というより、そもそもわたしが批評家として自己形成してゆくさい、東のこれらの仕事から絶大な影響を受けてきたので当然なのだが)。たとえば、そこで東が提起しているのが、「深さの再発明」という問題である。


 近代は「深さ」を発見した。フーコーは『言葉と物』でそう喝破した。近代人は、目のまえの世界を整理するだけでは満足しない。あらゆる場所に、「深さ」を、言い換えれば「見えないもの」を見いだそうとする。フーコーはその欲望こそが近代の本質なのだと指摘したのである。[……]

 他方、ぼくたちが生きるこの二一世紀はどうだろうか。しばしば言われるのは、ぼくたちはもはや近代に生きていない、もうだれも「深さ」を必要としていないという主張である。この主張にはあるていど説得力がある。[……]現代では、政治すら深さを失い、記号(ワンフレーズ)の組み合わせだけに基づき漂流し始めている。ポピュリズムはポストモダニズムの政治的な帰結だと言える。

 近代には深さがあった。現代には深さがない。この診断はとりあえずは正しい。しかしそれは危険な診断でもある。それは、いま目のまえで起きていることについて、あらゆる「分析」や「批判」の可能性を奪ってしまう診断でもあるからだ。[……]

 けれどもそこにはほんとうは第三の道がある。近代には戻らない、しかし浅さを全面的に肯定するのでもなく、二一世紀の現代でも通用する新たな「深さ」(浅さに還元されないもの)の可能性を探る、あるいは発明するという道がある。ぼくの考えでは、それこそが哲学がいまなすべきことである。[★1]
 ポストシネマの内実を見極めようとしているいまのわたしにとっても、この東の洞察はきわめて切実な意味を帯び、また、鼓舞されるものがある。東の明快な記述に屋上屋を重ねるのを承知でまとめれば、近代的な世界認識とは可視的な表層=「浅さ」と、それを背後で批判的に支える不可視の深層=「深さ」の二項対立(とそれらを象徴的に媒介するメディウム)を強固な前提としてきた。そして、ラカン派精神分析の影響を受けた映画理論が精緻に定式化したように、そうした近代的主体とは、ある側面では不可視の外界をスクリーンの可視的な表象としてまなざす「映画的主体」として比喩的に理解しうるものでもあった。しかし、そうした事態はまさに「スクリーンの例外状態化」=ポストシネマ化が進行する現在にあって、急速に失効しつつある。だとすれば、それでもなお、今後もさしあたり「映画的」なコンテンツを「分析」したり「批判」したりする──つまりはアクチュアルに「批評」しようとするときに重要なのは、まさにこの新たな「深さの再発明」、新たな「画面の再発明」の作業にほかならない。

今日の「画面のインターフェイス化」


 いずれにせよ、東の連載では(やはり『ゲンロンβ』で連載中の大山顕のエッセイ「スマホの写真論」の内容ともおそらくはシンクロしながら)そうした新たな「深さ」を、今後、コンピュータやVR体験、タッチパネルなどを事例に「インターフェイス的主体性」といったキーワードで描きだしてゆくことが予告されている。現代の画面が、「インターフェイス化」、あるいは「タッチパネル化」しつつあるという、そうした状況認識にしても、わたしもまたまったく問題を共有している。

 実際、今日の映画の画面も、キャメラとフィルムを前提として現実の対象を表象するかつてのスクリーンから、データとプログラミングを前提として多層的かつ双方向的にイメージを仮構するインターフェイスに接近していることはまぎれもない。たとえば、その顕著な事例のひとつが、近年の映画の画面構成でしばしば見られる、 Twitter や LINE のタイムラインの仮想的な視覚化の表現だろう。画面内の登場人物が手許の端末で目にしているインターフェイスやディスプレイが、映画の観客が見ているスクリーン上にディジタル映像で視覚化されるこの演出は、大根仁監督の『モテキ』(2011年)あたりから見られるようになり、その後、2010年代をつうじてすっかり定着したといってよい。ごく最近の新作でも、ある種の「YouTuber 批判」の映画といえるジェームズ・ポンソルト監督『ザ・サークル The Circle』(2017年)などにも同様の演出は登場する。

 こうした表現は、その画面がいまここにない不可視の現実的対象をキャメラとフィルムを媒介にして可視的に表象するスクリーンではなく、その背後に隠された現実的対象など何もないインターフェイスなのだという実感を、観客に強烈に与えるだろう。また、そうしたリアリティが極度に推し進められたのが、レヴァン・カブリアーゼ監督『アンフレンデッド Unfriended』(2014年)や佐々木友輔監督の『落ちた影/Drop Shadow』(2015年)など、全編がパソコンのデスクトップ画面上で進行する昨今の映画──佐々木のいう「デスクトップ・ノワール」の作品群である[★2]。その画面には、文字通り表象すべき「外部」など存在していないように見えるのだ。

映画批評における「深さ」の変質


 ところで、以上のような「スクリーンのインターフェイス化」と呼びうる現状は、おそらくなかば必然的に、現代日本における映画批評の支配的なパラダイムにも大きな変更を迫るものでもあるはずだ。たとえばその点で、今年わたしにとって、とりわけ兆候的だと思われたのが、やはりこの連載でもしばしば言及している蓮實重彦の発言である。

 蓮實は、自身を特集した『ユリイカ』の入江哲朗によるインタビューのなかで、いささか唐突に、見たはずの画面を意識化する作業を怠ってしまうという「人間的」な条件にあらためて触れたうえで、次のように問いかけている。

 実はわたくしは最近こうも考えているのです。本当に見つづけなければならないのか? ことによると、あるとき見ることをやめてしまうことこそが最大の映画批評であるという可能性もあるのではないか?[……]

 いままでのところわたくしは、最善の映画批評に辿り着くためにたえず見つづけることを選んできました。[……]

 ただ、ここまでキャリアと年齢を重ねてきたわたくし自身は、見ることをめぐる「人間的」な条件に対してある程度居直ってしまってよいのではないかと感じはじめている、ということです。そうした居直りの表れとして、自発的に見ることをやめるという選択肢もありうるのではないか? 見ることをやめることが批評家でありつづけるためのひとつの道になる可能性もあり、その可能性を示すことはむしろ批評家としてのひとつの務めでさえあるのではないか?──いまはそんなふうに考えております。[★3]


 ひとの意表を突く放言がかねてからのこの批評家の「伝統芸」とはいえ、この発言は、おそらくはわたしを含め、長年、かれの批評文を読んできた少なからぬ読者を大いに戸惑わせるものであったことはたしかだろう。よく知られるように、主著『表層批評宣言』において「表層批評」という標語で要約された蓮實の批評的方法とは、映画を取り巻く外的要素をいっさい捨象して、あくまでも観客の瞳に映る具体的かつ物質的な「画面」のみから理路を組み立てるというものであった。そして、その方法論は80年代以降の日本の映画批評に絶大な影響力をもった。

 とはいえ、その可視的な表層=「浅さ」に徹底して拘泥するという倒錯的な批評倫理は、裏側から照射すれば、その表層に還元されない「深さ」を逆説的に炙りだしてしまうという形で、やはり近代的価値観とも表裏一体のものであった。おそらくそのシニカルな事態が現代日本の映画文化にもっとも象徴的な形となって現れたのが、まさに蓮實がその強力なアイコンとなって台頭したシネフィル文化であっただろう。蓮實が映画の背後に一義的な「深さ」など何もない、具体的な画面=表層だけをひたすら見ろ、と訴えれば訴えるほど、「ハスミ虫」とも呼ばれたかれら若い映画ファンたちは、皮肉にも蓮實が顕揚する映画作家や作品の画面にかけがえのない「深さ」──安井豊作のいう「シネマの理念」を神経症的に読みとろうと躍起になってしまう……[★4]。80年代なかば以降、ある時期までの日本の映画文化や映画批評に起こったのはそうした事態だといってよい。

 そしてだからこそ、そんなドミナントなパラダイムを形成した蓮實が、一転して「画面」を「見ることをやめてしまうこと」に映画批評の可能性を見いだすと口にしたこと、それがおそらくは自らの「身体的」な変化に基づいた変化であったことは──「ポストメディウム的状況」を体現する今日の「動画」に対しては、かれがいまなおもっぱら消極的な評価しか与えていないにもかかわらず──意図せずして、「浅さ」と「深さ」からなる近代的(映画的!)な「視の体制」(マーティン・ジェイ)を希薄化する、新たな「画面」のありようの発明へと接近してしまっているともいえるだろう。表層が表象すべき「シネマの理念」=「深さ」などもはや存在しない。少なくとも、そうした信憑を観客に強く抱かせる要素を、今日の「インターフェイス/タッチパネル化」した画面は含みもっているように思われる[★5]

新作映画に見るイメージのインターフェイス的転回


 それでは、あらためて問おう。以上のような蓮實が想定するフィルム的な表層=画面とも異なる、インターフェイス的な画面なるものの内実を、どのように捉えればよいのだろうか。この大きな問いについては、わたしもまだ、充分に考えがまとまっていない。これについては来年以降の連載で他の論点とも絡めながら応えてゆくこととして、ここではアイディアだけ簡単に記しておくことにしたい。

 まず、そのようなタイプの画面の検討のための足がかりになると思われる最近公開された国内外の新作をいくつか瞥見しておこう。ここで見たいのは、虚淵玄がストーリー原案・脚本を手掛け、静野孔文・瀬下寛之が監督した長編アニメーション映画『GODZILLA 怪獣惑星』(2017年)と、タイカ・ワイティティ監督による『マイティ・ソー』シリーズの第3作『マイティ・ソー バトルロイヤル Thor: Ragnarok』(2017年)である[★6]。論述の要点を先取りしていえば、この2作はいずれも、そのキャラクター描写の演出や物語表現の側面において、この世界がいまやフィルム的なスクリーンではなく、インターフェイス的画面に満たされていることを自覚的に作品に反映させた新しい手触りが感じられるのだ。それらの要素をかいして、おそらくわたしたちはインターフェイス的画面それ自体の本質へも接近することができるだろう。

 まず、『GODZILLA 怪獣惑星』において注目したいのが、冒頭に見た「画面のインターフェイス化」に接近したような画面演出である。本作は、昨年(2016年)の『シン・ゴジラ』に続く『ゴジラ』シリーズ第30作にして、シリーズ初の長編アニメーション作品である『GODZILLA』3部作の第1章にあたる。環境変動によって出現した巨大生物の脅威から種の存続を図るため、恒星間移民船で地球を脱出した遠未来の人類が、ふたたび地球に帰還し、長距離亜空間航行の影響で2万年が経過していた地上になお生き延びているゴジラとの戦いを再開する。本作の物語においてひときわ目をひくのが、主人公のハルオ・サカキ大尉(宮野真守)らが乗る移民船アラトラム号の船内でいたるところに現れ、無数の乗組員が操作するディジタル映像のモニター画面だろう。それら大小の画面は、空中にプロジェクション映像のように立ちあがり、外部世界にかんするさまざまなデータ数値やグラフを示す。とりわけ地球に帰還するまでの物語前半では、舞台はほぼ移民船の内部に限定されて展開するため、作中においては、仮想的な図像が描きだされるインターフェイスのイメージが現実の事物以上に画面のなかに氾濫しているのだ。そこでは、作品の中心的なモティーフであるはずの巨大怪獣ゴジラの身体さえ、抽象化されたディジタルなモデルイメージとして映しだされることが多い。とりもなおさず、『GODZILLA 怪獣惑星』では、物語の冒頭から、20世紀末に出現した巨大怪獣たちが人類文明を破壊してゆく光景を、海外ニュース映像のフッテージとして描きだす。こうした演出は、『パシフィック・リム Pacific Rim』(2013年)など近年のSF映画にしばしば見られるものだが、本作の場合、それが3DCGアニメーション映像で作られているからこそ、本作の物語世界全体が逆説的にも「外部」=現実世界のないインターフェイスのなかに閉じこめられてしまっていることを強烈に実感させるだろう。

 そして興味深いのは、そうした指標性を欠き、過剰な情報量だけが表層に氾濫する大小のインターフェイスに覆われた画面が、いみじくもこの『GODZILLA 怪獣惑星』のキャラクター表現や物語世界の内実ともどこか連動しているように思える点だ。世界的な3DCG制作スタジオであるポリゴン・ピクチュアズによって手掛けられた本作の3DCGによるキャラクターは、プレスコ方式による作画とも相俟って日本的アニメ表現とは異質な、硬質さと重力を感じさせないヌラヌラフワフワとした動きを全体に湛えている。キャラクターの動きは高精細の3DCGで作られているものの、しかしそれゆえにこそ、その表層的な情報量の過剰さが、皮肉にもかれらに人物としての実体ある深みというか、一義的なアイデンティティを奪っているのだ。
 あるいは、それゆえにかれらは総じて個人としての確固たる存在感を欠き、相互に入れ替え可能な「群れ」として表象されているともいえるかもしれない。実際、シリーズ前作の『シン・ゴジラ』同様、『GODZILLA 怪獣惑星』でも全編をつうじて無数の登場キャラクター同士の畳み掛けるような会話が多くのシーンを占めるのだが、それらのシーンでは個々のキャラクターの個性よりも群像劇としての印象が前景化している。ちなみに、似たような特徴は、前々回に論じたクリストファー・ノーランの新作『ダンケルク Dunkirk』(2017年)でも指摘したことだった。そして、こうしたディジタル特有のキャラクターの浮遊感漂う動きや個性の奥行きを欠いた群像劇の様相が、画面内のインターフェイス的ガジェットの氾濫と相即不離に描かれていることは間違いない。

 また、「外部」なきインターフェイスに閉じこめられ、物語世界やキャラクターにも奥行きや深み、一義的な意味づけのようなものが感じられず、どこか存在感の空虚さをそなえているという点では、たとえば、映像のディジタル=ポストメディウム的状況を現代映画においてもっとも反映しているコンテンツといえるマーベル映画の新作『マイティ・ソー バトルロイヤル』にも当てはまるだろう。今回の新作は、前2作から監督が交代したこともあって、さらにコメディ要素が増しているが、その冒頭ではいっぷう変わった展開が凝らされている。

 巨大な魔物スルトに捕えられた主人公のソー(クリス・ヘムズワース)は、物質転送装置の力によって間一髪で故郷のアスガルドに退却する。すると、そこではちょうどアスガルドの王で、ソーの義弟で物語のヴィラン(悪役)でもあるロキ(トム・ヒドルストン)の父にあたるオーディン(アンソニー・ホプキンス)が、野外劇場で大勢のひとびととともに芝居を見ている。その芝居とは、シリーズ前作『マイティ・ソー/ダーク・ワールド Thor: The Dark World』(2013年)で描かれたソーとロキのドラマをかれらとそっくりの俳優が演じるものだった。ところがすぐさま、芝居を眺めるオーディンだと思われた人物が、ロキが化けていた姿だったことが判明する。

 このいっけんして入れ子構造を思わせるコミカルな演出が描くソーやロキの姿もまた、過剰なまでのスペクタクル映像に取り囲まれ、北欧神話をなぞった神秘的な世界観と最先端のテクノロジーが融合した独特の物語世界に置かれながら、おそらく何の意味を象徴するものでもない。従来、現代映画に顕著な物語におけるこうした入れ子的な趣向は、画面の可視的な情報の向こうに潜むだろう不可視の「意味」への思考に観客を誘うものとしてあった。いわゆるシネフィル的視線とはそうしたものである。しかし、『マイティ・ソー バトルロイヤル』におけるワイティティのこの場面の演出からは、そうした「形式化」や「伏線」に結びつくような気配は感じられない。むしろ、入れ子構造に似たような演出が画面の表層に「意味のようなもの」(準−意味?)をあいまいに浮かびあがらせはするものの、それらが──まさに『GODZILLA 怪獣惑星』のシーンのいたるところで輝くグリーンのインターフェイスのように──プリズム状に画面に乱反射するばかりなのである。そして、その画面のなかでソーやロキたちは、『GODZILLA 怪獣惑星』の3DCGキャラクターと同様、「何が何を意味している」という奥行きや存在感を極度に抽象化したペラペラの棒人間のように描かれているのだ。

 また、このシーンの直後には、ロキを連れたソーがオーディンの元に向かうため地球に降り立つのだが、そこでもかれらふたりは、ヘアスタイルはそのままに、服装だけ普通の現代人に変わるので、このキャラクターの「平板さ」(役柄と俳優のあいまい化)の印象はいっそう強まることになる。しかし、こういった演出で普通感じられる物語世界への感情移入が脱臼される感じは不思議と受けない。この点は、わたし自身もまだうまく言語化できていないのだが、それはおそらくマーベル映画特有の洪水のように浴びせられる高精細のディジタル映像と相俟って、『マイティ・ソー バトルロイヤル』のもろもろのイメージもまた、あらゆるレヴェルのリアリティを寛容に受け入れるほどに空洞化しているからだと考えられる。

「空洞化」する画面


 さて、以上のように、現在、劇場で公開されている新作映画の少なからぬ作品に、「ポスト・スクリーン」とも呼べるような感触をもった新たな演出や表現が現れているように見える。こうした画面のなかから、わたしたちは冒頭の引用で東が掲げていたような、新たな「深さ=画面の再発明」を試みることができるのではないだろうか。

 たとえば、これにかんして、さしあたりわたしが手がかりにしたいのは、アニメーション研究の領域で土居伸彰が提起している、「空洞化」、あるいは「私たち(性)」という概念で名指す表象上の変化である[★7]。そう、前節の最後で記した「空洞化」という表現は、じつはこの土居の議論を念頭に置いていたのだった。ディジタル映像技術が進化し、また動画サイトなど無数のプラットフォームを介して製作・視聴されつつある昨今のアニメーションは、国内外、またジャンルを問わず、共通してある傾向をその画面にそなえはじめていると土居は指摘する。すなわち、「かつては一義的な意味しか持たなかったアニメーションの記号が、何も意味を持たない空洞になり、それゆえにあらゆる意味付けに対応するようになる状況が目立ちはじめてきたのだ」[★8]

 かつてのディズニー長編にせよ、インディペンデント・アニメーションにせよ、あるいは高畑勲作品にせよ、20世紀の優れたアニメーション表現は、いずれも容易には見えない「深さ」とのかかわりを重視してきた。たとえばそれは、作品の主題においては、いずれも「いまここ」に見える現実を超える一義的な理想を高らかに掲げ、さらにそれを求める確固としたアイデンティティをもった個人(私)を主人公に据えた。あるいは表現においては、アナログ時代のアニメーションは、そのコマ撮りという基本原理からも、まさに可視的な画面とそのあいだをつなぐ不可視の隙間の関係性──つまり、「フレームの間に横たわる見えない隙間を操作する芸術」(ノーマン・マクラーレン)という性質を活かして作られてきたのである。ところが、ピクサー/ディズニーからデヴィッド・オライリー、そして『聲の形』(2016年)にいたる21世紀のアニメーションの画面とは、「おそらく何も意味していないし、何の理想も隠していない」、「それは、フレームの『上』での情報量の過剰を起こす。認知は豊かに蠢く表面でストップし、何が何を意味しているということを考える余裕を失わせる」[★9]。ディジタル時代のアニメーション表象は、一方で表層の情報量過多と、他方でそれゆえの一義的かつ隠された意味=理想の空洞化をもたらしているのだ。同時に、そうした画面は「『私』として確立されたキャラクターの存在を許さず、抽象化されて、交換可能で、固有性も内面性も持たない、周囲の世界の状況への反応のみで動いている『私たち』を描き出していく」[★10]だろう。
 さて、こうした土居のいう「画面の空洞化」が、たんにアニメーションのみならず、実写を含む今日の映画全般の表象空間におよんでいることはなんとなく察しがつくだろう。実際、以上の問題を提起した土居自身もまた、わたしとの対談のなかで、その点に同意していた。曰く、「必ずしもアニメーションだけの話ではない。たとえばクリストファー・ノーランや、マーベルDCのようなアメコミ系の作品、最近ではヨン・サンホの『新感染 ファイナル・エクスプレス』のような作品は、『21世紀のアニメーションがわかる本』で書いた、『空洞と空白の表現』に近いところがあると感じています」[★11]。そして重要なのは、そのなかでかれがこの空洞化という自らのコンセプトを、まさに蓮實的な映画批評に対するカウンターとしても提起したと明かしている点だろう。「僕は蓮實さんの言う、『画面を見ろ』というスタイルに反発があって、[…]映っているものをどう誤解して読み取るのか、そのバグの方こそが重要だという見方です」[★12]

 何にせよ、もはや明らかなように、わたしには、さきに示してきた『GODZILLA 怪獣惑星』や『マイティ・ソー バトルロイヤル』の一連の表現とは、まさにこの土居のいう今日の映像文化に氾濫する「イメージの空洞化」の一例に見えるのである。その表現は、「おそらく何も意味していないし、何の理想も隠していない」。たとえば、土居は、「無限に複製可能なデジタル時代の動きは、「個人」というよりは「集団」(のロジックに縛り付けられた人間)の表現に適している」[★13]と記しているが、その指摘はまさに『GODZILLA 怪獣惑星』の3DCGアニメーション映像で描かれた群像劇にもぴったりと当てはまっている。『GODZILLA 怪獣惑星』のサカキや『マイティ・ソー バトルロイヤル』のマーベル・ヒーローたちの姿は、おそらく土居が注目するオライリー作品の棒人間キャラクターや、『聲の形』の顔にバッテンがついたキャラクターたちと同じ性質の「画面」のうえに存在しているのである。

「『深さ』を、言い換えれば『見えないもの』を見いだそうとする」従来型の画面の見方ではなく、「おそらく何も意味していないし、何の理想も隠していない」、しかしそういうふうに空洞化しているからこそ、「そこにあらゆるものを流れ込ませ、そこに自分たちの存在を開いていくことを可能にする」画面。それは、逆説的に一義的な画面=表象の物質性を神経症的に追い求めさせてしまう蓮實的なまなざしでは捉えられない画面だろう。インターフェイス化したポストシネマの画面、そして、それがもつ新たな「深さ」の一端とは、おそらくはそうしたものなのではないだろうか。

 こうした空洞化したインターフェイス的画面は、近年、ほかにもさまざまな映画に見られるようになっている。このポストシネマ的な画面の特性を、その他の論点も交えながら、この連載では来年以降ももう少しだけ、追いかけてみたいと思っている。
 

★1 東浩紀「観光客の哲学の余白に 第六回 深さの再発明のために」、『ゲンロンβ18』、ゲンロン、2017年。
★2 佐々木友輔、noirse『人間から遠く離れて──ザック・スナイダーと21世紀映画の旅』、トポフィル、2017年、225頁。
★3 蓮實重彦「『そんなことできるの?』と誰かに言われたら『今度やります』と答えればいいのです」(聞き手・入江哲朗)、『ユリイカ』 10月臨時増刊号、青土社、2017年、22-23頁。
★4 この点については以下を参照。安井豊作「『転回』以後の蓮實重彦──『ハリウッド映画史講義』を読む」、『シネ砦 炎上す』、以文社、2011年、94頁。
★5 ちなみに、わたしは近刊の論文で、蓮實的なパラダイムの変容の問題とも絡めて、「ポスト観客性」という用語で、インターフェイス化したスクリーンを観る観客性の内実について論じている。拙稿「液状化するスクリーンと観客──『ポスト観客』の映画文化」、光岡寿郎・大久保遼編『スクリーン・スタディーズ──デジタル時代の映像/メディア経験』(仮題)、東京大学出版会、近刊予定。
★6 今回は扱うタイミングがなかったが、ナチョ・ビガロンド監督の新作『シンクロナイズドモンスター Colossal』(2016年)もまた、この点で重要な作品である。全編がパソコンのデスクトップ上で展開される『ブラック・ハッカー Open Windows』(2014年)の監督でもあるビガロンドの新作であるこの奇妙な怪獣映画もまた、優れて「インターフェイス的」な世界観を描いているといえる。ニューハンプシャーの小さな公園に侵入した主人公たちの身体が、なぜかソウルに出現した巨大怪獣や巨大ロボットとシンクロしてしまうという設定の物語で、かれらの身体や行動もまた徹底して「深さ」を欠いている(後述する土居伸彰の言葉でいえば「何も意味していない」)。「何かが何かを意味する」という表象としての対応関係ではなく、主人公のアン・ハサウェイとジェイソン・サダイキスの身体が、たがいにたがいを多重に包摂しあうかのように展開するクライマックスの戦闘シーンも含め、本作の物語世界もまた、「外部」のない空洞化した余白を含みもっている。かれらの巨大化した姿は、無数のタブレットやスマートフォンで見られることになるが、ほかならぬその姿がある種「インターフェイス的」に描かれているのだ。
★7 土居の解説によれば、「空洞化」「流動化」というかれの概念は、セルゲイ・エイゼンシュテインのアニメーション論やユーリ・ロトマンの記号論などに影響を受けたユーリ・ノルシュテインのアニメーション表象に見出される「原形質性」という概念と重なるものだという。以下の箇所を参照。土居伸彰『個人的なハーモニー──ノルシュテインと現代アニメーション論』、フィルムアート社、2016年、187-190頁。
★8 土居伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』、フィルムアート社、2017年、146頁。
★9 同書、149-151頁、強調原文。
★10 同書、114-115頁。
★11 土居伸彰・渡邉大輔「2016年の地殻変動──『個人的』な『私たち』へ」、『クライテリア』第2号、174頁。
★12 同書、183頁。
★13 土居伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』、142頁。

渡邉大輔

1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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