観光客の哲学の余白に(9) 触視的平面の誕生|東浩紀

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初出:2018年01月19日刊行『ゲンロンβ21』

 ポストモダンにも新しい「深さ」があるのではないか、そしてそれはタッチパネルをモデルとした世界観を導入するとうまく言語化できるのではないか。前々回そう記した。今回はその続きを記したい。 

 第6回第7回は、執筆の時間があまりとれず駆け足の原稿となった。意図したことではなかったが、結果として振り返るに、その2回は議論がぐっと前進した印象がある。どうやらこの話題は、ていねいな手続きを踏むよりも、そのような「粗っぽい」スタイルで進めるほうがよさようだ。哲学やメディア論と接続し、アカデミズム向けの厳密さを整えるのは、もっと議論を固めてからでも遅くはないだろう。 

 

 



 というわけで今回も「粗っぽく」議論を進めることとする。まずはタッチパネルの本質の確認から始めよう。 

 タッチパネルとはなにか。それは、ある映像機器のウェブサイトでは「画面に直接触れることにより、コンピュータの操作が行える装置のこと」であり、「表示と入力の2つの機能を融合したデバイス」だと定義されている★1。 

 この簡潔な定義のなかに、本論で問題にしたいタッチパネルの特徴はすべて出そろっている。まず、タッチパネルは接触(触れること)に関わっている。つぎに、タッチパネルは情報機器に対して能動的に働きかける(機器の操作が行える)。最後に、タッチパネルは出力(表示)と入力の二面性を備えているというわけだ。 

 このみっつの特徴は、タッチパネルの本質が、いままでのいわゆる「スクリーン」とはまったく異なるものであることを意味している。タッチパネルはじつは英語ではタッチスクリーンと呼ばれている。実際、日常の感覚としては、タッチパネルは「触ることのできるスクリーン」であり、歴史的に「スクリーン」と総称されてきた、映画やテレビやコンピュータに共通するあの映像出力装置(技術的にはそれらのあいだもかなり異なるものなのだが)の進化形にほかならないように見える。双方ともに同じ矩形の平面であることも、その連続的な印象を強めている。 

 しかし、現実には、タッチパネルは、さきほどの3点でスクリーンとまったく異なる特徴をもつ平面である。タッチパネルは入力を受け入れる平面だが、スクリーンは出力専用の平面でしかない。タッチパネルに投影された映像は触ることができるが、スクリーンに投影された映像は触ることができない。タッチパネルの映像は触ることで変化するが、スクリーンの映像は触っても変化しない。映像を見るものと映像の関係が、タッチパネルとスクリーンのあいだではまったく異なっているのだ。 

 タッチパネルの映像は触ることができる。そして触るとかたちが変化する。このような「触知可能で操作可能な映像」の出現は、本来なら、従来の映像論とメディア論を、というよりも西洋の哲学を支えてきた視覚的なパラダイムを、根底から揺るがしかねないもののはずである。古くはプラトンの洞窟の比喩まで遡るように、西洋は伝統的に「実体」と「影」の対立を中心に思考を組み立ててきた。ぼくたちに見える世界はしょせんは影であり、隠れたところに、つまり見えない世界に実体があるのだという発想が、哲学の中心にあり続けてきた。 

 連載第3回でも述べたように、その発想は、20世紀では映画の構造と結びつけて理論化されている。映画のスクリーン(銀幕)に投影される映像は触ることができない。それは影にすぎない。影は触れないし、操作もできない。だから、まともな研究は、影にとらわれるのではなく、影を作り出すカメラ(見えないもの)のほうに向かわなければならない。それが20世紀の映像論を支える二項対立である。

 ところが、タッチパネルの映像、つまり「触知可能で操作可能な影」の出現は、まさにその二項対立を脅かすものとして現れている。この意味はとてつもなく大きい。その大きさは日常的な経験からもわかる。たとえば、写真家の大山顕が指摘するように★2、写真(プリントアウト)はかつては指で触れるものではなかった。写真の縁をもって画像を覗きこむものだった。ところがいまはだれもが日常的に写真(スマホの画面)に触れ、大きさを変え、回転させ、加工し、ネットにアップロードしている。その変化は写真の表現や消費に決定的な影響を与えざるをえないし、実際に与えている。スマホの写真は、いまや、かつてカメラで撮られていた写真とは、同じ写真と呼ぶのがためらわれるほど異なった存在になっている。 

 ところが、そのような変化を分析する理論はほとんど現れていない。2018年の現在、表象文化論やメディア論の分野で有力な理論として参照されるのは、いまだにレフ・マノヴィッチが2001年に刊行した『ニューメディアの言語』である。けれども同書には、タッチパネル(タッチスクリーン)という言葉はいちども現れず、触れる(タッチ)という単語すらほとんど現れない★3。かわりに『ニューメディアの言語』は、1920年代のロシアの映画監督、ジガ・ヴェルトフへの言及から始まっている。つまりはマノヴィッチの理論は、最初からスクリーンの時代との連続のもとに構想されている。けれども、ここまでの説明からあきらかなように、21世紀、すなわちタッチパネルの時代の映像論は、本来ならスクリーンの時代の映像論とはまったく異なったものにならざるをえないのだ。なぜならば、そのふたつの時代では、そもそも映像の定義からして異ならなければならないからだ。なんどでも繰り返すが、スクリーンの映像は触ることができないが、タッチスクリーンの映像は触ることができる。映像について考えるうえで、これ以上に重要な差異があるだろうか? 

 スクリーンは受動的で視覚的な平面でしかない。タッチパネルはそこに能動性と触覚性を加えた新たな平面である。多少こなれない表現ではあるが、そのようなタッチパネルの二面性を、触視的とでも表現してみよう★4。触覚と視覚が組み合わさった複合感覚という意味だ。 

 触視的平面の誕生。それこそが20世紀後半から21世紀にかけての文化において起きた、最大の、そしてもっとも深い変化なのだというのが、ぼくの考えである。 

 

 



 現代はタッチパネルの時代である。それがこれから本論の核になる主張である。 

 とはいえ、読者のなかには、そこまで言ってしまっていいものかとためらいを覚えるかたもいるかもしれない。たしかに現代はタッチパネルが溢れている。とはいえ、映画にしろテレビにしろコンピュータにしろ、ぼくたちが目にする画面の多くはまだまだ受動的で視覚的でしかないスクリーンだし、将来的にもそれがすべてインタラクティブなタッチパネルに置き換わることは考えられないのではないだろうか。 

 その疑いは正しい。ぼくも、世界のすべてのスクリーンがタッチパネルになる時代が来るとは考えていない。そんな必要などない。50年後も、100年後も、受動的なスクリーンは当然生き残っているだろう。 

 にもかかわらず、ぼくは、現代はタッチパネルの時代であり、それはしばらく続くと主張してかまわないと考える。なぜか。

 その理由は、たしかに表示装置としてはすべてがタッチパネルに入れ替わったわけではなく、これからも入れ替わる見込みはないだろうが、他方でスクリーンに表示される視覚的映像それそのものがいまやタッチパネルの触視性を模倣し始めており、そしてその条件は今後もしばらく変わりそうにないことにある。たとえ装置そのものがスクリーンでも、そこで表示される内容はいまや急速にタッチパネルに似始めている。タッチパネルは、いまやスクリーンに表示される映像の範例になっているのだ。 

 どういうことか。連載を毎回読んでいる読者なら気がついたかもしれないが、ぼくがここで念頭に置いているのはインターフェイスの問題である。 

 インターフェイスは、本来はコンピュータと人間の媒介を広く意味する言葉である。しかしここでは、さまざまな媒介のなかでもとくに、1970年代に基本設計が提案され、1980年代にアップルによって商品化されたコンピュータ入力支援用の視覚デザイン、いわゆるグラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)のことを意味している。デスクトップがあり、ウィンドウがあり、マウスでカーソルを動かし、スクリーンに投影されたイメージを操作することで情報機器そのものを操作する、あの仕組みである。 

 GUIは受動的なスクリーンのために開発された。コンピュータの画面は必ずしもタッチパネルではない。けれどもGUIのアイデアの本質は触視性の模倣にあり、その意味で、GUIはタッチパネルの出現によってはじめてGUIとして完成したと言えるというのが、ぼくの考えである。 

 たしかにタッチパネルは世界を覆い尽していない。けれども、GUIは、これはけっしておおげさな表現ではなく、世界を覆い尽している。GUIは、いまや現代のほぼすべてのスクリーンに搭載されている(より正確にはそれらスクリーンに接続された情報機器に搭載されていると言うべきだろうが、ここでは表現を単純にしておく)。デジタル映画の映写機はGUIで操作されているし、現在の家庭用テレビも実際はすべて小さなコンピュータになっている。表面的には銀幕やブラウン管と同じく映像だけが映っているように見えたとしても、それはじつのところGUIのひとつのウィンドウを「全画面表示」しているにすぎない。同じことは、街に溢れるデジタルサイネージや最新型自動車の操作画面にも言える。それらの多くは、エラーを起こすとwindowsのようなGUIのシステム画面が現れる。いまや、GUIに制御されない、単機能あるいは制御のためにコマンドを打ったり配線を変えたりしなければならないスクリーンを探すほうがむずかしい。その環境は表現にも大きな影響を与えている。本誌連載で渡邉大輔が繰り返し指摘しているように、GUIはいまやハリウッド映画やアニメの画面構成を侵食し始めている。写真と映画の時代の人々がカメラのファインダを覗くように世界を捉えていたのだとしたら、いまや人々は、インターフェイスを操作するように世界に接し始めているのである。 

 ぼくたちはインターフェイスの時代に生きている。つまり、画面操作を支援するGUIを表示したスクリーンに囲まれ、それにしたがい画面を操作し続けて生活する時代に生きている。タッチパネルの時代という表現に違和感を覚える読者も、これには同意せざるをえないはずだ。 

 そして、ぼくの考えでは、インターフェイスの本質は触視性の模倣にある。だから、多くのスクリーンがインターフェイスを搭載した現代は、タッチパネルの時代だと言うことができる。それが本論の時代認識だ。 

 それでは、インターフェイスの本質はなぜ触視性の模倣にあると言えるのだろうか。次回は、その理由についてGUIの誕生に遡って具体的に語ってみたい。


★1 株式会社EIZOのウェブサイト。 URL=http://www.eizo.co.jp/eizolibrary/other/itmedia02_08/ 
★2 2018年1月11日にゲンロンカフェで開催されたイベント「ショッピングモールはテロを誘発するのか?――『スマホの写真論』から見たラスベガス」での発言。 URL=http://genron-cafe.jp/event/20180111/ 
★3 レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』、堀潤之訳、みすず書房、2013年。touch screen および touch の検索は The Language of New Media (Reprint Edition, MIT Press, 2002) の Kindle 版で行った。 
★4 ぼくはかつて「過視的」という奇妙な造語を作ったことがある。『動物化するポストモダン』のもとになった原稿は「過視的なものたち」というタイトルで『ユリイカ』に連載されていた。それは、見えるもの(可視なもの)と見えないもの(不可視なもの)の対立が崩れ、見えないものまでが過剰に見えるものへと変えられてしまう状況を指すために作った言葉で、当時のぼくはインターフェイス(GUI)やゲームの画像の特徴をこの新たな概念で捉えようと試みていた。この造語にはいかにも無理があり、ぼく自身いつしか使わなくなってしまったのだが、本論はそのアイデアをあらためて触覚の導入によって復活させようというものである。触視的とは過視的のことだ。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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