ポスト・シネマ・クリティーク(23)清原惟監督『わたしたちの家』|渡邉大輔

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初出:2018年1月19日刊行『ゲンロンβ21』

ひとつの「家」で重なるふたつの物語


 前回、今日のポストシネマにおける画面=「深さ」の変質について述べた。わたしたちの時代の画面には、かつて二〇世紀に蓮實重彦が批評的に見いだしたような、表象=スクリーン的な画面とは異なる、「インターフェイス/タッチパネル的」とでも形容しうるような新たな性質の画面=「深さ」が現れつつあるように思える。今回も、その問題を清原惟監督の『わたしたちの家』(二〇一七年)をおもな素材に、あらためて考えてみたい。

 『わたしたちの家』は、昨年のぴあフィルム・フェスティバルでPFFアワード2017グランプリを受賞した、清原の東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻第一一期の修了制作作品である。本作が劇場デビュー作となる清原は、一九九二年生まれの二五歳だが、武蔵野美術大学映像学科在学中からその作品がPFFで連続入選を果たすなど、すでにその才能が注目されてきた期待の新人だ。本作は今後も二月の第六八回ベルリン国際映画祭フォーラム部門への出品が決定している[★1]

 『わたしたちの家』のいっぷう変わった物語のおもな舞台となるのは、その題名のとおり、海辺にほど近い港町の路地に建つ一軒の二階建て古民家である。一四歳の誕生日を迎えつつある中学生のセリ(河西和香)は、クリスマスの直前に父親が失踪して以来、母親の桐子(安野由記子)とふたりでこの家に暮らしている。だが最近、母親に高史(古屋利雄)という若い恋人ができたらしいことを知り、心中穏やかではない。さな(大沢まりを)は目覚めると夜の海に浮かぶフェリーの客室にひとりで乗っている自分に気づく。なぜか自分にかんする記憶が消失していた彼女は、デッキで出会った透子(藤原芽生)と名乗る若い女性が住む家に住まわせてもらうことになる。だが、しだいに透子の行動にはどこか秘密があるように思えてくる。本作を観ている観客は、セリと桐子が暮らす家と、さなが招かれる透子の家とが、まったく同じ家だということに気づくだろう。だが、物語の中では一方が登場するシーンに他方が登場することはなく、別々の世界であるかのように進行する。

 つまり映画は、セリ/桐子、さな/透子という、それぞれふたつの異なる時間(物語)を生きながらもどこかでささやかにつながりあう二組の女性たちの姿を、同じひとつの家を舞台にたくみに交錯させて描いてゆく。一般的には「並行世界」といった用語で語られるSF的な設定に近い趣をもつ物語ではあるものの、清原はそれらの背景説明を何ら作中で明示することはない。すべては最小限に切り詰められた道具立てのなかで、物語世界の背景は最後まで「秘密」として保持される。

インターフェイス的なウィンドウの氾濫


 さて前回、わたしはポストシネマのインターフェイス的な画面=「深さ」の内実を、土居伸彰のいう「空洞化」、「私たち(性)」という用語を用いて仮説的に輪郭づけておいた。簡単に振りかえっておけば、かつての画面(映像)が映しだしていたもろもろのイメージたちは、確固とした実質をもち、一義的な意味や理想、アイデンティティを掲げていた。ところが、広範なディジタル化を被ったいまや、情報過多となった画面は何の意味ももたない代わりにあらゆる意味づけを融通無碍に乞い入れる「空洞」と化し、また、そこに描かれるひとびとは極端に抽象化されて、相互に交換可能な「私たち」へと溶解しつつある。そのディジタル映像時代固有のイメージの性質を、『21世紀のアニメーションがわかる本』の土居は「空洞化」、「私たち(性)」と名づけていたのだった。わたしは、その議論を受けるかたちで同様の傾向をさしあたりアニメーション映画『GODZILLA 怪獣惑星』やハリウッド映画『マイティ・ソー バトルロイヤル Thor: Ragnarok』、『ダンケルク Dunkirk』(いずれも二〇一七年)などに見いだしてみた。

 結論を先取りすれば、おそらくこれと同様の傾向は、まさに『わたしたちの家』の描くイメージにもはっきりと表れていると思われる。まず、視覚的にわかりやすいところでいえば、『GODZILLA 怪獣惑星』にも指摘しておいたように、『わたしたちの家』でもまた、その作中の画面にはまさに「インターフェイス的」と形容したくなる、さまざまな「ウィンドウ」(フレーム)が氾濫していることが挙げられる。

 清原の映画では、画面手前に何らかの対象を据えることでショット内の奥行きを強調する構図が頻出するが、『わたしたちの家』でも、千田暸太のキャメラは、セリたちの住む民家をしばしばそうした奥に長く伸びる縦の構図で捉える。たとえばそれは、映画冒頭でも示される、横長のガラスを真ん中に挟んだ障子戸に四方を囲まれた掘り炬燵のある居間を、画面奥に台所が見え、そして二階に上がる階段に接した部屋を挟んだ画面手前の玄関側から写すショットなどに典型的に見られるだろう。そのショットでは、セリが炬燵机で食事をとる姿は、画面のほぼ右半分を覆う障子戸によって観客の視界からほとんど遮られているのだが、横長のガラスによって、彼女の顔の部分だけが小さな矩形のフレーム=ウィンドウで、ちょうどクロースアップショットのように縁取られて見えるのである。モンドリアンの抽象画すら思わせる幾何学的な構図で捉えられるこうしたショット群は、別の場面で印象的に登場する風にはためく洗濯物や、並んで置かれた瓶を写したエンプティショットとも相俟って、小津安二郎(とりわけ後期)の画面との類縁性を感じさせる。

 だが、話を戻せば、こうした矩形のガラスや障子をはじめ、二階にある鏡台の鏡、さなが仕事の面接を受ける喫茶店の窓枠や壁に掛かる絵画の額縁……など、『わたしたちの家』の画面にはじつに多くのウィンドウ=フレームが登場人物たちの周囲に多層的に重なりあって現れるのだ。こうした複数のウィンドウ=フレームは、さきほどのセリの顔を切りとるガラスのフレームが象徴的に示すように、映画のスクリーンというよりは、デスクトップ上にいくつも開いたウィンドウを想起させる。そして、それらのウィンドウ=フレームは、相互にフラットに重なりながらも、手前のウィンドウから奥のウィンドウが覗き見えるのだ。たとえば、さなが住まわせてもらう透子――名前に「透ける」という字が入っていることも暗示的だが――の家の部屋には、ガラス窓のうえから青みがかった大きな布が何枚も掛けられているが、麻のような素材で織られたその矩形の布は、風にそよぎながら、外の窓枠の矩形を半透明に内に透かして見せる。

 以前、東浩紀はマーク・チャンギージーの神経生物学的な知見を参照しながら、立体視(遠近法)によって象徴される近代的主体に代わるポストモダンの主体像の本質を、「透視」に見いだせるのではないかという着想を記していた[★2]。であるなら、この複数の矩形の半透明のフレームこそ、後述する幽霊的な主体や拡張現実的な時空間とも呼応する『わたしたちの家』の画面のインターフェイス性を視覚的に明示するものと呼べるだろう。

「私たち/原形質」的な「世界の見え方」


 とはいえ、『わたしたちの家』のイメージのはらむインターフェイス性は、むろん、こうした比較的わかりやすい演出以外に、さきほどの土居のいう「空洞化」や「私たち(性)」といった用語との関連からも如実に認められる。
 この点を考えるうえで重要なのが、前回の脚註でも少し触れていたように、土居が、空洞化というかれの概念を、ロシアの世界的アニメーション作家ユーリ・ノルシュテインのアニメーション表象に認められる「原形質性 plasmaticness」と呼ばれる性質から援用してきていることだ。原形質については、わたしたちも以前、『夜明け告げるルーのうた』(二〇一七年)を論じた回で見たように、昨今の映像論でしばしば注目される概念である。たとえば、畠山宗明は、まさにそのノルシュテインが強い影響を受け、ほかならぬその原形質という概念を定式化したことで知られるセルゲイ・エイゼンシュテインが理論的に提示していた独特の「画面」(「イメージ」)について検討するなかで、この原形質的なものがもたらす「私たちの世界の見え方」の変化を丹念に跡づけている。

 ここで畠山は、まずエイゼンシュテインが自らの映画理論の構築において、観客の身体的/経験的知覚の介在を重視していた点に注意を促している。そしてこの、眼前でいきいきと動き、具体的な個物=「主語」に取って代わることのない一般化(脱固有化)したイメージを捉える(アニメーション的な)「運動の知覚」を、「述語的なもの」という概念と重ねあわせる。注目すべきなのは、この「何にでもなれる述語的なもの」こそ、エイゼンシュテインが「主語が不定な運動的なものの究極のあり方」と定義した「原形質」ともつうじるのだという点である。というのも、ここには畠山が以下に要約するように、「私たちの世界の見え方」にかんする、ある独特の性質が宿っているからである。曰く、「注意しなければならないのは、実写であれアニメーションであれ、原形質的なものは日常的な見え方に重なり合っているものとして想定されているということだ。それは、述語的なものの『輪郭』のみが際立つというありかたにおいて、通常の画面においても私たちの見え方に重なり合っている。主語的なものと述語的なものは『互いに無関係なものとして知覚されながら、一緒のものとしても認識される』のである」[★3]

 ここでまたあらためて、『わたしたちの家』の世界に視線を向けてみよう。冒頭で記したように、この映画では、一軒の民家のなかで、相互にすれ違う二組の女性たちの物語が重ねて描かれる。彼女たちのあいだには、たとえばふたりの女性の物語であること、いずれも何らかの理由で家から追いだしたい男性の存在があること、あるいは喪失できない記憶と喪失した記憶をかかえた女性がいること……など、いくつかの共通点やコントラストが見られるものの、基本的には作中でたがいがたがいの姿に出会うことは決してない。彼女たちはたしかに別々の時空を生きており、ひとつの同じ家に住まっているはずでありながら、セリと桐子にはさなと透子が見えず、またさなと透子にはセリと桐子が見えない。ただ、いたるところで彼女たちはたがいの存在の気配を感じとり、さまざまな符牒をかいしてかすかに触れあってもいることが暗示される。そうした薄明のなかの皮膜のような重なりあいとすれ違いのなかで、二組の女性たちの存在の固有性もまた、ぼんやりとした、「互いに無関係なものとして知覚されながら、一緒のものとしても認識される」ものになってゆくだろう。

 ちなみに、このようなひとつの居住空間を舞台に、そこにかりそめの生活をともにする女性たちがアイデンティティを希薄にしたまま、どこかたがいにすれ違い続けるという物語は、清原作品に固有のモティーフでもある。たとえば、おそらく彼女の初長編作品である武蔵野美術大学の卒業制作作品『ひとつのバガテル』(二〇一五年)でも、ある団地の一部屋に間借りする少女あき(青木悠里)とその部屋の老いた家主まり(原浩子)のふたりは、やはりどこかたがいの姿が見えないかのように、あいまいにつぶやき、頷きあうばかりだった。

幽霊たちの拡張現実的な家


 いずれにせよ、以上のような清原的な存在たちが一軒の家のなかで世界(≒画面)をまなざすあり方と、さらにそうした清原的な存在たちを描きだす清原の映画=画面のイメージ(をまなざすわたしたち観客のあり方)とは、同じような特質をもって重なりながら、かつての表象/スクリーン的な世界=画面とは異なった「深さ」を垣間見させているように思える。

 すなわち、それはやはり浅さ=見えるものと深さ=見えないものの関係にかかわっている。かつての世界=画面では、その両者は峻厳に区別されていた。ところが、『わたしたちの家』における家では、浅さと深さははっきりと区別されない。そこは、あたかも見る者の身体や視角の違いによって見えるもの=浅さの位相がプリズムのように移り変わるレイヤー状の時空なのであり、いうなれば複数の層の違う「拡張現実」を寛容にかかえこむプラットフォームとして機能している[★4]。またひるがえってその家の内部にいるひとびとから見れば、自分たちの存在はたがいにあたかも「幽霊」のように半透明の皮膜を被ったあいまいな他者(準他者?)として現れるだろう。

 実際、これと似たような世界=画面を描く映画はじつは本作以外にも国内外で目立ってきている。たとえば、いささか唐突に感じられるかもしれないが、最近だと日本でも大ヒットしたアンディ・ムスキエティ監督の『IT/イット 〝それ〟が見えたら、終わり。 IT(IT: Chapter One)』(二〇一七年)。スティーヴン・キングによるモダン・ホラーの名作を原作にした本作では、知られるように、「ペニー・ワイズ」(ビル・スカルスガルド)と名乗る不気味なピエロが北米東北部の田舎町に潜み、幼い少年少女をつぎつぎに襲ってゆく。この映画のペニー・ワイズの描写でことのほか興味深いのは、第一にかれの姿や巻き起こすできごとが恐怖を感じる子どもにしか見えないということであり、また第二に、かれが町の地下に張り巡らされた排水溝の水脈(ネットワーク)を自在に移動することをつうじて一種の遍在性を獲得しており、さらに、二七年ごとに現れるという周期性によってもはや固有の身体を伴った怪物というよりも、どこか匿名的な「環境」(インフラ)のように表象されているということだろう。すなわち、『IT/イット』のペニー・ワイズとは、いうなれば、ユビキタスなネットワーク環境を前提に、特定の条件のもとで現実空間に可視化される拡張現実的な幽霊――たとえば、スマートフォン向け位置情報ゲームアプリ「Pokémon GO」のモンスターと似たような存在だといえる[★5]。そして、『わたしたちの家』に登場するセリ/桐子、さな/透子のカップルもまた、たがいがたがいをこのペニー・ワイズのように寄り添わせ、まなざす幽霊的な存在と化している。さきの畠山は重ねて、以下のようにも述べていた。


[……]原形質は、一種の取り憑きのような状態を作り出すのではないだろうか。[……]そこには、画面のなかの目に見える対象にも、それを見る私にも帰することができない任意の主体、「幻のもうひとり」(三浦雅士)の可能性が出現していないだろうか?

そのとき、取り憑くものは原形質的なものである。

[……]エイゼンシュテインはディズニー論で、『人魚の踊り』(一九三八年)において、ゾウのようなかたちで歩くタコを原形質的なものの例として挙げている。その例で彼は、一つの輪郭(場所)に、ゾウとタコという二つの主語が宿っていると述べているのだ。[……]述語的な感情移入は、私ともあなたとも、誰とも言えないような、いや逆に、その主語が私でもあなたでもかまわないような、情動的な共感のゾーンを切り開くのではないだろうか。

 エイゼンシュテインの動画概念はデリダの言う「憑在論」的な性格を持つと言えるのではないだろうか?[★6


 原形質的なものは、いわば確固とした「私」=「主語的なもの」から存在を遠く隔てる一方、「一種の取り憑きのような」「幻のもうひとり」=「幽霊的な存在」を作りだす。そして、「一つの輪郭(場所)」のうちに、「私ともあなたとも、誰とも言えないような、いや逆に、その主語が私でもあなたでもかまわないような」、複数の私/主語(のようなもの)を宿らせる。こうした性質は、まさしく『わたしたちの家』の家とそこに住む登場人物たちが如実に体現しているものであり、なおかつすでにわたしたちが見てきたポストシネマの画面のもつ「空洞性」や「私たち性」とはっきりと重なるものだ(それは奇しくも『わたしたちの家』という本作の題名自体が象徴している)[★7。なるほど、セリが友人と一緒にうしろから尾行していたとも知らず、若い恋人と街中でデートして帰ってきた夜、真っ暗な玄関で立ち尽くす娘を見た桐子は小さく叫ぶ。「びっくりしたあ。おばけかと思ったよ」。そして、セリは「さっき、おばけ出たよ」と返すのだが、これらの言葉は、図らずしも彼女たち自身の存在の幽霊性に対する自己言及とも受け取れるだろう。セリやさなたちが住み、交錯する家は、いうなれば複数の幽霊たちがきわめて触覚的かつ偶然的にコミュニケーションを発生させるメディア的な「界面」なのである。わたしたちはひとまずここにも、『わたしたちの家』の画面がはらむ「インターフェイス性」を見ることができる。

アクター・ネットワーク的な視線の劇


 『わたしたちの家』とその登場人物たちのまなざしには、幽霊的=拡張現実的な「深さ」――「インターフェイス性」と呼びうる要素がたしかに宿っている。ところで、畠山のいう「私ともあなたとも、誰とも言えないような、いや逆に、その主語が私でもあなたでもかまわないような」性質を伴った原形質性とは、より敷衍すれば、「私」と「あなた」、すなわち、自己と他者、主体と客体や、ひいてはヒトとモノ、人為と自然、一と多……といったもろもろの近代的な二項対立図式を脱却し、むしろそれらがハイブリッドに混在しながら、なかばは自己=「わたし」、なかばは他者=「あなた」といった幽霊的なアクタント(行為体)同士が競合的かつ流動的なネットワークを取り結ぶ「アクター・ネットワーク理論 Actor–network theory」(ANT)の見取り図ともつながりをもつだろう。

 たとえば、ブルーノ・ラトゥールのこのANTに大きな影響を与えた哲学的概念として、ミシェル・セールの「準客体 quasi-objet」論が知られている。セールの準客体とそのポストシネマ論における重要性については、この連載でも一昨年の『10 クローバーフィールド・レーン 10 Cloverfield Lane』(二〇一六年)や昨年はじめの『劇場版 艦これ』(二〇一六年)を取りあげた回でもすでにたびたび触れていた。あらためて簡単に説明すると、それはときに「準主体 quasi-sujet」という言葉ともカップリングで用いられ、なかば受動的な客体(モノ)でありながら、同時になかば主体としての能動的・自律的な働きももってふるまう対象を意味している。そして、この準客体を媒体として形成される複数のアクタントたちによる動的なネットワークやフォーメーションは、能動的な変形作用と受動的な形態保持がせめぎあう「可塑的 plastique」な性質を帯びることになる[★8]。いずれにせよ、この準客体が活性化させる、こうしたアクター・ネットワーク的なエージェンシーの可塑性もまた、エイゼンシュテインのいう原形質性と重なる部分があることは明らかである。というのも、ディズニー・アニメーションに描かれた「ゾウのようなかたちで歩くタコ」のように、複数の主語をそのうちに宿らせる述語的な運動性としての原形質とは、別の文章では「いかなるフォルムにもダイナミックに変容できる能力」(「ディズニー」)ともエイゼンシュテインによっていいかえられているように、可塑的な動的均衡とも近いものがあるからだ。

 さらにいえば、アクタントたちが織りなすこの可塑的な競合関係には、全体が部分に対して一方向的に包摂されるという関係ではない、いわば非ホーリズム的な相互包摂関係も派生してくる[★9]。たとえば、セールやANTを駆使して「存在論的転回 ontological turn」を人類学で積極的に推し進めているアネマリー・モルは、これを「袋詰め Ensachange」という比喩で表現している。従来の存在論が全体と部分、主体と客体といった二項的な関係性を、AがBより大きく、BがCより大きいならば、AはCより大きいというような、不可逆的な推移性・階層性をもつ「箱詰め」関係としてのみ捉えてきたとすれば、彼女はその両者をAにBが入っていたとしても、AをおりたためばBに入るという、その位置を絶え間無く入れ替え、相互包摂しあう可塑的な様態に置きなおすのである[★10]

 たとえばこの袋詰めの比喩をかりに視覚的な関係性に置きなおすとすれば、いうまでもなく「《象徴形式》としての遠近法」(パノフスキー)に対する批判的検討につながるだろう。かつての視覚的な世界認識や主体像とは、単一のまなざし=近代的主体から一方向的に包摂され、階層化される遠近法的世界=客体という二項的関係によって成り立っていた。しかし、おそらく袋詰め的な関係を伴った新たな視覚像――それをかりに「インターフェイス的視覚世界」と呼ぶならば――は、そうした不可逆的な「見る主体/見られる客体」の推移性・階層性が半透明で幽霊的な境界やモノを媒介にたがいを相互包摂しあうようなものになるだろう。今回は深く触れないが、たとえば、iPhone X に新しく搭載された True Depth キャメラを用いた機能として最近話題になっている、いわゆる「アニ文字」の顔のアニメーション映像などは、こうした袋詰め的な、新たなイメージの主体/客体関係の可能性をわたしたちに示唆しているように見える。

 さて、ともあれ以上に整理してきたようなアクター・ネットワーク的な関係が、やはり『わたしたちの家』のいたるところでも見られることを最後に確認しておこう。たとえば、「わたし」と「あなた」の動的で可塑的な競合関係という点でいえば、それは色彩設計の演出によって端的に示されている。この物語世界で対をなすセリ/桐子とさな/透子の世界は、当初からそれぞれ全体的に赤と青という対照的な色調によってそれぞれ統一されているのだ。ところが、その色調は物語が中盤を過ぎたあたり、ふたつの世界が微妙に交錯しはじめるころから、相互の世界に徐々に浸透してゆくのである。そして、そうしたそれぞれ異なる色を担っていたふたつのアクタントたちの可塑的なネットワークの形成には、当然ながらその関係性を活性化させる何らかの重要な準客体が物語にかかわってくることになる。これは映画を観た観客ならば、物語をつうじ、まさにさなからセリに「郵便的」(東浩紀)に届けられるあるモノとして、容易に察しがつくことだろう。

 そして、さらに『わたしたちの家』は、ある文字通りの「インターフェイス」を媒介にして、このふたつの可塑的なアクタント――見る主体にして見られる客体、相互に包摂しあう幽霊たちを密やかにつうじあわせることになる。その特権的なインターフェイスとは、まさに本作に氾濫する半透明のフレーム=ウィンドウのなかのひとつ、和紙の貼られた障子にほかならない。

 映画の中盤、薄明のなか、布団に寝ているセリがかすかにきしむ足音で、ふと目を醒ます(このとき、空間は青みがかり、セリの世界にさなの世界が密かに入りこんでいることに観客はおぼろげに気づくはずだ)[★11]。ゆっくりと起きあがり、部屋の外の廊下に出た彼女は、ぐるりと回転して周囲を見回したあと、眼前に立つ障子戸に目をやる。弱い光に当たって陰影に粒立つように浮かびあがった白い和紙の表面がクロースアップで写されるが、つぎの瞬間、セリの人差し指が勢いのよい音を立てて和紙を突き破る。彼女は頭を少し屈んで、指の跡に開いた小さな穴を覗きこむ。続いて場面は、子ども服の修繕をするさなと透子の様子に変わる。直した服のハンガーを長押に引っ掛けたさながふと、目の前の障子戸に視線を落とし、「あれ、こんなところに穴開いてたっけ」とつぶやく。「大きい穴。指差したでしょ」とからかう透子をさなは笑って否定しながら、彼女もまた、何気なくその開いた穴の向こう側の空間を覗く。

 いうまでもなく、ある空間の壁に開いた穴が外界の光を投射したり、あるいはこれもある空間に開いた覗き穴に視線を注ぐという構造は、近代が生んだ典型的な光学(視覚)装置の数々――カメラ・オブスキュラやキネトスコープのそれを、隠喩的にほぼそのままなぞっている。つまり、この「障子の穴を除く」というイメージには通常ならば、まさにあの遠近法的・箱詰め的な「見る主体/見られる客体」の関係性を想起させるものがある。しかし、ここでは、いわば幽霊化したセリとさなの視線が、おたがいを等しく包みこんでいる。『わたしたちの家』はこのセリとさなの、半透明のインターフェイスをかいした相互包摂的なふたつのまなざしによって、近代的な視線の劇を動揺させうる、新たな視覚像のネットワークを示している。まぎれもなく映画でありながら、なおかつ「映画以後」のイメージをも確実に拓く本作こそ、「ポストシネマ」の傑作と呼ぶにふさわしいだろう。
 

★1 本論の論旨からは逸れてしまうが、清原の映画はいっけんして、少女たちのみずみずしいたたずまい、ダンス場面の頻出、音楽の効果的使用、SF的な趣向など、多くの点で東京藝術大学映像研究科の先輩でもある瀬田なつきの作品群を思わせる。そして、ここには三浦哲哉がすでに『わたしたちの家』における『レネットとミラベル/四つの冒険 Quatre aventures de Reinette et Mirabelle』 (一九八六年)との類縁関係を指摘しているように、エリック・ロメールからの影響関係も伺わせるだろう(清原はむしろ、ジャック・リヴェットへの偏愛をしばしば語っているが)。濱口竜介や深田晃司などロメールからの影響を公言しているのは彼女たちと世代も比較的近い男性監督にも少なくない。ここには今日の日本映画における「ロメールの系譜」とでもいうべきものを見いだすことができる。 ★2 東浩紀「観光客の哲学の余白に 第二回」、『ゲンロンβ14』、ゲンロン、二〇一七年。
★3 畠山宗明「エイゼンシュテイン――運動とイメージ、そしてアニメーション」、『ゲンロン7』、ゲンロン、二〇一七年、一四七頁。
★4 宇野常寛は近著において、以前、『リトル・ピープルの時代』で提示した「仮想現実から拡張現実へ」という図式を引き継ぐかたちで、二〇世紀の戦後アニメが担っていた虚構=仮想現実的な想像力がもはや過去のものになり、現代では代わって「市場とゲーム」に象徴される現実代替的な想像力(政治性)こそが前景化していると論じている。わたしも大枠においてこの宇野の見立てに異論はないが、そこではむしろ新たな「浅さ」ばかりが注目されているように見える。清原のこうした演出に注目したいのは、前回も述べたように、もはやオールドメディアとなった映画がそれでも「拡張現実的なもの」のイメージを描きだそうとすることで見えてくる、新たな「深さ」のありようを探るためである。以下の第六章を参照。宇野常寛『母性のディストピア』、集英社、二〇一七年。
★5 たとえば、『IT/イット』では冒頭の舗道を流れる雨水から少年たちの乗る自転車の滑走など、重力がもたらす起伏を欠いて横に「スクロール」する運動のイメージが頻出するが、こうしたイメージもまた、本作の物語世界がどこか現実の足場から遊離した拡張現実的なニュアンスをまとっていることを感じさせる。あるいは、かつて中沢新一は「ポケットモンスター」のモンスターたちをラカン派精神分析でいう「対象a(objet a)」(「象徴化の残余 reste」)になぞらえた(『ポケットの中の野生』)。作中でスライド画像やテレビ画面の隅に「シミ」のように現れ、思春期の少年少女たちに何度もトラウマ的(幽霊的)に再来する『IT/イット』のペニー・ワイズもまた、まさに対象aに似た多形的な「剰余物」だといってよいだろう。
★6 畠山宗明「エイゼンシュテイン――運動とイメージ、そしてアニメーション」、一五一 - 一五二頁。
★7 ちなみに、エイゼンシュテインは同時代の人類学、とりわけリュシアン・レヴィ=ブリュールに大きな影響を受けていたことが知られている。レヴィ=ブリュールの「融即律loi de participation」は、近年のいわゆる「存在論的転回」を経た人類学でもふたたび注目を集めつつあるが、これが原形質的な「私たち性」とも通底する概念であることは本論の文脈からも興味深いだろう。
★8 串田純一の指摘によると、ハイデガーは、アリストテレス『形而上学』の枠組みを参照しつつ、事物自体のデュナミスには受動的な「被ること Erleiden」と抵抗的な「従わないこと Unduldsamkeit」という対照的な力があり、このふたつの「力の在り方」がおのおのの存在者の世界形成や現存在の脱抑止の方向づけにも付帯していると考えていた。この受動性と抵抗性の存在論的な拮抗もまた、一種の可塑的な関係性に通底しているといえるかもしれない。串田純一『ハイデガーと生き物の問題』、法政大学出版局、二〇一七年、一七二頁。
★9 この点は以下の文献の第六章に示唆を受けた。清水高志『実在への殺到』、水声社、二〇一七年。
★10 アネマリー・モル『多としての身体――医療実践における存在論』、浜田明範・田口陽子訳、水声社、二〇一六年、一九四頁。
★11 本論では、視覚的な側面の幽霊性しか扱えなかったが、『わたしたちの家』では、じつは音のもつ幽霊性もきわめて重要な意味を担っている。
『新記号論』『新写真論』に続く、メディア・スタディーズ第3弾

ゲンロン叢書|010
『新映画論──ポストシネマ』
渡邉大輔 著

¥3,300(税込)|四六判・並製|本体480頁|2022/2/7刊行

渡邉大輔

1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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