アンビバレント・ヒップホップ(14)無名の群衆 vs.ラップヒーロー|吉田雅史

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初出:2018年07月20日刊行『ゲンロンβ27』

1  身体、風景から群衆へ


 ラッパーの唇とは、リアルと虚構をつなぐ装置だ。それが、前回ヒップホップのMVを検証して明らかになったことだった。MVのあり方には、このジャンル独自のリアルに対する考え方が表れていた。

 アメリカと日本のMVには、それぞれ身体型、風景型と呼べるタイプの作品の系譜が存在し、各々の類型の発展を支える独特の背景を持っていた。僕たちはリップシンクという、ヒップホップのリアルおよびMVの虚構性を考察する上で欠かせない装置を中心に据えながら、その拡張である身体、そしてそれに対置される風景のあり方について議論した。

 ヒップホップという視覚的イメージが幅を利かせる文化にとって、MVというメディアに映り込むものを精査することは、ジャンルの特異性を掘り起こす上でも非常に重要な作業である。そこで今回も引き続きMVに映り込んでいるものに目を向ける。ここで取り上げるのは、風景でもない、身体でもない、そのあわいに立ち上がる存在についてだ。その存在とは、一体何のことか。




 それは「群衆」である。エリック・Bラキムのクラシック「Move The Crowd」が示しているように、ラッパーやDJたちは、いかにして言葉や音楽で「群衆=crowd」の心を動かし、また身体的に踊らせるかに心血を注いできた★1

 ヒップホップという文化における「群衆」の特殊性とは何だろうか。ラッパーやビートメイカー、DJを取り巻く人々。この人々は、大きくふたつに分類できるだろう。一方にラッパーに対するリスナーやファンとしての「オーディエンス」がいて、他方にラッパーと同じ目線の「クルー」が存在する。この「クルー」とは、ポッセ、ホーミー、クリック、スクワッド、あるいは単にグループという言葉でも言い換えることができる。ヒップホップの文脈においては、これらはアーティスト活動を共にする共同体であり、ラッパー、ビートメイカー、ダンサー、グラフィティ・ライター、あるいはビジネスの裏方などDIYベースの活動を共にする近しい仲間たちのことだ。

 そして両者の距離は近く、こちら側と向こう側の境界は曖昧だ。オーディエンスは、いつでもクルーの側、あるいはラッパーの側に参入し得る存在だ。宇多丸が指摘するように、ラッパーは「俺は、こうだ」「で、てめえはどうなんだ?」とメッセージの宛先であるオーディエンスに問いかける。次はいつでも、このオーディエンスがライムを書く番なのだ★2。彼らはいつでもペンを取って、自身の物語を吐露できる。高価な機材を購入したり、特別な鍛錬を積まずとも、ペンとノートさえあればライムは書けるし、アカペラでラップできる。誰かのビートをジャックして、自分のラップを乗せてしまえばいい。サイファーがあれば、飛び込んでみる。隙あらばそこで名のあるラッパーと対等に戦ったり、あるいは打ち負かしてしまうことすらあり得るのだ。

 日本でラップ・ミュージックがローカライズされる様を研究した木本玲一は、アドルノが想定したような、メディアの思い通りにポピュラー音楽を消費するオーディエンスに対して、ヒップホップの場合のオーディエンスの特異性を指摘している。木本はポピュラー音楽研究のキース・ニーガスによる、ヒップホップにおいてはレコード産業が「文化の生産=サウンドやイメージに積極的に介入し、それらを変化させる」という言葉を引用している★3。つまりここでは広義のオーディエンスは単にラップ・ミュージックを消費するだけでなく線引きが曖昧なクルー側に越境するように、同じ側でこの文化に影響を与え、変遷に立ち会うのだ。群衆は、ある作品を聴いて、自分のバージョンを作り出す=二次創作に与することでこの文化を支える、と言い換えてもいいだろう。




 そのようなヒップホップという文化における群衆の位置付けを理解した上で、再びMVに目をやりたい。ヒップホップのMVで中心を担うのは、それがラップをフィーチャーした曲であれば、大抵の場合はラッパー自身であり、リアルの担保のためにも、リリックを書き、ラップをレコーディングした本人がむき出しの姿を晒すことが何よりも優先される。

 しかし多くのMVにおいて、ラッパーの背後でうごめいている姿がある。完全に風景として見過ごされるわけでもないが、だからと言って、個別の身体として目に飛び込んでくるわけでもない。あの群れる人々=群衆は一体誰なのか。彼らは本当に、風景でも、身体でもない存在としてフレームの中に映り込んでいるのか。いや、風景でもあり、身体でもあるといった方が正確かもしれない。

 彼らは誰なのか。ひとつの可能性は、映画のタームで言う、エキストラと呼べる存在。風景と同化し、決して目立ってはならない存在。そしてふたつめの可能性は、ヒップホップのタームで言う、クルーと呼べる存在だ。彼らは、ラッパーと同じ共同体に属し、同様の身体性を持つ。

 MVに映り込む彼らを眺める僕たちは、差し当たってこれらのふたつの可能性のどちらかを断定する術を持たない。だからここでいう群衆とは、ふたつの可能性が交差する、風景でも身体でもない存在なのだ。

 まずはひとつめの可能性から見てみたい。

2 エキストラの身体性


 一九八九年に出版された小冊子『バックグラウンド・アクターズ・マニュアル』は、主に映画のエキストラについてのマニュアル本である★4。それまであまり論じられる機会のなかったエキストラの実践やエージェンシーの仕組みについて論じたほんの数十ページの同書には、著者が繰り返し指摘するエキストラの心得が記されている。そのうち、最も重要なのが「撮影中には絶対にカメラを見るな」というものだ。

 そうだ。エキストラはカメラを見てはならない。彼らは風景と同化し、個を屹立させるような「まなざし」を持ってはならない。

 ではそのような前提は、MVにも適用できるのだろうか。当然ながら、映画とMVを同様に扱うことはできない。しかし大方のMVの構図は、映画の何らかのシーンと類似するものと理解することは可能だろう。

 前回まで見てきたヒップホップのMVでは、ラッパーは基本的にカメラ目線を貫く。これは映画でいえば、俳優が対面している話し相手の目線にカメラが擬態しているシーンに擬えることができる。ラッパーは撮影中、リリックを語りかける相手=オーディエンスをカメラのレンズの向こう側に幻視しているのだ。そしてモニタを通して、テクストとしてのリリックはオーディエンスに受け取られる。受け取られたテクストは共有され、想像の共同体を形作る。前述のように、そのメッセージを受け取った者の中には自らマイクを握る者も現れるだろう。

 このように、典型的なMVの構図は、俳優がカメラに向かって語りかけるシーンと地続きだと理解した上で、ラッパーの後景にうごめくエキストラとしての群衆の顔に目を向けよう。すると、ひとつの事実に目を疑うことになる。たとえばモブ・ディープの「Survival of the Fittest」やウータン・クランの「C.R.E.A.M.」のMVにおいて、背後にたむろする「群衆」たちはみな一様に、ラッパーと同様、こちら=カメラに目線を向けているのだ。彼らはアーティストのMV撮影に集まった「エキストラ」ではなかったのか。エキストラであるとすれば、マニュアルに注意書きのある通り、彼らは最もやってはならないことを、やってしまっている。堂々とこちらを睨みつけているようにさえ見える。

 この群衆がエキストラだとすれば、彼らが擬態しているのは、ラッパーのリスナーであり、ファンである「オーディエンス」なのだろうか。MVの中には、ライブやパーティの様子を再現するように、たとえばステージ上のラッパーをステージ下から見上げ、向き合っている群衆が映り込んでいるケースもある。この場合の群衆は「オーディンス=観衆」と呼べるだろう。しかし彼らは、ラッパーと向き合うどころか、彼らと同じ高さでその背後からラッパーと同じカメラの方向へ視線を投げかけているのだ。つまりラッパーと同じ側に立つ、仲間=クルーであるかのようだ。

 それでは彼らは、そもそもエキストラではなく「クルー」なのだろうか。あるいはクルーを演じるエキストラなのだろうか。注意深くMVの群衆に目をやれば、確かにラッパーの背後の群衆には、同じクルー、あるいは仲間うちで名の知られたラッパーやビートメイカー、あるいはDJの顔も散見される。

 もちろん実際のところは、個々のMVによってケースバイケースだろう。MV撮影があるということで仲間たちも呼んでいるだろうし、エキストラも参加しているだろう。ここでは何も事実関係を洗いたいわけではない。

 重要なのは、MV撮影があるということで集まってきた群衆たちは、ラッパーと同じフッド出身者たちだ。そしてヒップホップという文化の支持者たちだ。たとえ彼らが実際にはラッパーと縁もゆかりもないとしても、少なくともそれを擬態している。ラッパーのリリックの中には、間違いなく彼らの生活の一場面も刻まれている。だからフッドを、あるいはこの文化をレペゼンする側としてラッパーと同じ目線でカメラにまなざしを投げる。

 そして、モニタ越しにMVを見ながらそのまなざしを受け取る我々もまた、彼らと断絶されたこちら側にいるわけではない。前述のように、次はこちらの番なのだから。次にペンを取り、リアルを紡ぐのは我々のひとりかもしれない。だからラッパーの背後の群衆のまなざしとは、実は我々のまなざしにほかならない。群衆と我々は、互いにカメラ/モニタの向こうに自己の鏡像をまなざしているのだ。

 彼らはフッドの風景そのものであるが、エキストラのように目線を逸らさず、ラッパーが代表する、クルーの、あるいはフッドの現実を共有する身体でもある。港千尋は著書『群衆論』の中で前述のエキストラのマニュアル本を紹介し、マニュアル通りに行動しない不真面目なエキストラが「ウォーム・ボディ」と呼ばれることを指摘している★5。群衆に馴染めず、勝手な行動を取ってしまうウォーム・ボディとはまさに、カメラに視線を投げかけてしまうラッパーの背後にたむろする連中のことである。

 昨日までオーディエンス側にいた者が、今日からペンを持ちマイクを握る。そうさせるだけの熱量が、MVに映り込むまなざしを通して伝導してしまう。そのような熱量を伝播させるのはもちろんラッパーなのだが、群衆たちの視線もまた、それを支えている。それがヒップホップという文化における群衆=ウォーム・ボディたちのまなざしの効用なのだ。




 少し整理しよう。エキストラとは名前を持たない存在であり、風景に同化するという意味では固有の身体を持たない(もちろん実際の身体は持つが、代替可能だ)。一方のクルーは、名前も固有の身体も持つ存在だ。両者の間に発生するヒップホップ的な群衆はウォーム・ボディと名付けられる。いわば名前はないが身体を持つ存在だ。

 エキストラがカメラ目線を禁じられていたのは、彼らがカメラを通してまなざすことで、映画の観客から見れば彼らの身体に固有性が与えられてしまうからだ。彼らがこちらをまなざし、モニタへ向ける我々のまなざしと出会うとき、とたんに彼らの「顔」が目に飛び込んでくる。エキストラがウォーム・ボディになるとき、顕現するボディの部位は何よりも顔だ。それでは、顔はヒップホップにおいてどのように扱われているのだろうか。

3 自らを顔マネするということ


 二〇一七年のビルボードチャートのジャンル別トップ二十五に挙げられたアルバムを眺めていると、とある事実に気付く。ジャケットのアートワークに関してだ。ラップチャートの二十五枚中、六割にあたる十五枚でアーティストの写真やキャラクター化された姿をフィーチャーしているのだ。これに対し、ロックチャートでアーティストがジャケットを飾っている例はわずか三枚しかない。

 この割合は、たとえば時代ごとの流行次第で変化するだろう。また、現在のストリーミング時代はみなが次々とシングルをカットすることでジャケットのアートワークの量自体がインフレを起こしているので、すべてに自らの肖像を入れていてはワンパターンになる。だとすれば二〇一七年というのは「顔」を前面に押し出したジャケットが比較的少ない時期にあたるかもしれない。そこで特定の時代に偏らないように、アメリカのヒップホップ雑誌『The Source』がこれまでにレビューで最高点の五点(五本マイク)を与えたクラシックのアルバムアートワークで検証してみると、一九八四年から二〇一〇年までに選出された四十五枚中、八割弱にあたる三十五枚でラッパーの「顔」が確認できる。

 言うまでもなくラップ・ミュージックでは、誰がそのリリックを歌っているかが重要だ。だからリアルの担保のため、何よりも顔を晒す必要がある。そしてオーディエンスはラッパーの顔を眺め、その作品に手を伸ばすか判断する。

 それではその「顔」から、何を読み取るのか。リアルなラップをしていると、信頼に足る顔つきなのか。頭の回転が速く、ライムスキルを持ち、想像力が豊かで、ときに発揮する凶暴性をも持ち合わせているのか。あるいはユーモアセンスはどうか。

 このように人物の顔から性格や才能を読み取ろうとする試みが、ヨーロッパに普及した時代があった。十九世紀の「観相術」の流行がそれだ。高山宏はこの流行について、当時は都市文化の興隆という背景があり、都市に溢れる見知らぬ他者=群衆を一定のコードで解釈して安心を得たいという人々の欲望があったと指摘する★6。群衆に対して、見知ったパターンに沿った顔を与えようというのだ。様々な顔のラインやシェイプのパターンに、一定のキャラクターを紐付ける。

 ラッパーの顔のパターンにそのキャラクターを読み取ろうとするとき、その「キャラクター」は、「性格」であると同時に「文字」を指す。なぜなら、その性格=キャラクター性が端的に表れるのは、何よりも彼らの文字=リリックだからだ。こうして、ラッパーのリリックの中のイメージ像=キャラクターは、「文字」に託される。

 そしてここで確認しておきたいことがある。前回のリップシンクについての議論で明らかになったように、ラッパーがMV撮影において自分のリリックを口パクすることは、リリックの中のラッパー像=キャラクターを、いわばモノマネするような試みであった。ライムの発語を再現するという身体的な行為が、リリックの中の自身の生き方を擬えるという経験となるのだ。生身のラッパーが、リリックに近づこうとするとき、そこにはどうしてもギャップが生まれてしまう。しかしそのギャップこそが、リアルだった。

 であるならば、ジャケットに写っている「顔」もまた、そのアルバムのリリックの中のキャラクターへの、肉を持った生身の顔によるモノマネのはずだ。

 そのことを証明するように、二〇一七年のトップ二十五枚のアートワークを再度眺めてみれば、ある事実に気付く。アーティストイメージ十五枚のうち約半分にあたる七枚が、純粋な写真ではなく、イラストや、加工されたイメージであることだ。これは一体どういうことだろう。

 それが実際のラッパーの写真ではなく、多かれ少なかれデフォルメが施されたカリカチュアであるということ。それは端的に、ラッパーたちのリリックの中で生身とは異なるキャラクターを示していることを傍証するだろう。つまり、ラッパーたちのモノマネの欲望が、ジャケットの顔に結晶しているのだ★7

 ヒップホップの場合、そもそも、多くのラッパーが「AKA(As Known As)」で併記される別名を持つこと自体がキャラクターへの欲望を示している。あるいは単純に、変身願望と言い換えてもいいかもしれない。そしてこの変身願望を最も体現するラッパーたちが、九〇年代のニューヨークに現れるのだ。

4 ウータン vs. マーベル


 後にRZAを名乗ることになるラッパーのプリンス・ラキームは悩みに悩んでいた。当時のヒップホップ業界では有名なレーベルだったトミー・ボーイ・レコードからデビューを飾ったものの、一九九一年にリリースしたシングル「Ooh I Love You Rakeem」は思ったような売れ行きでなかった。このままではレーベルとの契約を失ってしまうだろう。であるならば、何らかの形で再出発する必要がある。そのためには、シングルのジャケットを飾った自画像のイラストが象徴するプレイボーイのイメージを捨て去り、全く異なるキャラクターを生み出さなくてはならない。何か全然別のイメージを仮構し、変身しなければならない。

 彼は同じように一度デビューするも失敗していた従兄弟のGZAことジーニアスを中心に、ニューヨークのスタテンアイランドを本拠地としてメンバーを集める。そして幼い頃から大ファンだったカンフーのイメージを冠する「ウータン・クラン」という名の集団を結成する。彼らはカンフーからの影響をグループ名のみならず、あらゆるところに取り入れた。カンフー映画のナレーションを楽曲のイントロに配置し、リリックにカンフー用語を散りばめ、アルバムのアートワークやMVを始めとするヴィジュアルイメージにも反映した。

 この戦略が功を奏し、ウータン・クランは押しも押されもせぬヒップホップのトップグループとなる。RZAはプレイボーイの優男から一転して、クランを率いる神秘性と狂気を兼ね備えたリーダーへと変貌する。

 そしてウータン・クランのファーストアルバムから二〇年後、次々に活動の幅を広げたRZAは、とあるテレビシリーズの監督を務めることになる。マーベル・コミック原作の『アイアン・フィスト』のエピソードのひとつを手がけるのだ★8。アイアン・フィストはカンフーにインスパイアされたヒーローだ。ニューヨーク生まれの主人公、ダニー・ランドは鉄の拳を持ったこのスーパーヒーローに変身する。だから同じく変身を経験したRZAとの出会いは必然でもあった。

 ウータン・クランとマーベル・コミックスの関係はこれだけではない。メンバーのメソッド・マンは別名(AKA)ジョニー・ブレイズを名乗り、別のメンバーであるゴーストフェイス・キラーはトニー・スタークスを名乗る。それぞれ、マーベル・コミックスのヒーロー、ゴースト・ライダーとアイアンマンの主人公の名前だ。彼らはアルバムタイトルやリリックの中にヒーローの名前を引用し、彼らの目線のライムをキックする。後にメソッド・マンは、ゴースト・ライダーのデジタルコミックのストーリーを手がけるに至る。

 さらに、そもそもヒップホップとマーベルの関係性は深い。同じニューヨークで誕生した文化同士、互いをリスペクトする。彼らは、変身、偽装といったキーワードを共有している。弱くて冴えないものが強いものを偽装するのがヒーロー物のステレオタイプだ。そんなヒーローたちの変身願望を具現化するように、ラッパーたちは自身のイメージ像を楽曲で具体化する。そして楽曲内で実現された像に、実際の世界でもモノマネするのだ。

 たとえばギャングスタ・ラップのギャングとは、ある意味でヒーローの別名なのだ。冴えない、弱い自分を隠蔽し、力と富をほしいままにする。ギャングスタ・ラップ成功の立役者であるアイス・キューブは、通学バスで目撃した本物のギャングスタの生態をリリックに落とし込み、いわば彼らをモノマネした。

 ナズは「N.Y. State of Mind」の中で、シャンパンをあおり、セミオートマティックの銃を操り、縄張りでクラックを売りさばき、警官と銃撃戦を繰り広げるギャングスタになる夢を四小節分ライムする。そして次のラインで「でもただの男なのさ」と、ヒーローへの変身を妄想する者のように振る舞う★9

 それと同じように、ラッパーたちがマーベルのヒーローを引いたラインもまた、無数に存在する★10。そのうえ、マーベルのヒーローたちがヒップホップクラシックのジャケットをジャックし、「ラッパーたちのモノマネをする」マーベル公式のイラスト集すら存在するのだ★11

 ヒーローがラッパーをモノマネする。これは一体、どのような事態なのだろう。この問いに関して議論を深めるためには、避けて通れないマーベル作品がある。しかし誌面は尽きた。残りの議論は次回へ譲ることにしよう。
 

★1 「Move The Crowd」は、エリック・Bラキムの一九八七年リリースのファーストアルバム『Paid In Full』からシングルカットされたクラシック曲。
★2 『FRONT No.6』、シンコー・ミュージック、一九九六年、九一頁。
★3 木本玲一『グローバリゼーションと音楽文化』、勁草書房、二〇〇九年、三五頁。
★4 Laurence H Fitzgerald, Background Actor’s Manual, Fitzgerald Publishing, 1987
★5 港千尋『群衆論』、リブロポート、一九九一年、二二〇頁。
★6 高山宏『メデューサの知』、青土社、一九八七年、一七一頁。
★7 前回の連載からの流れで「モノマネ」という語を用いているが、ヒップホップにおいてはまた別の文脈でこの欲望について見ておく必要がある。大和田俊之は『アメリカ音楽史』(講談社、二〇一一年)の中で、白人的なものと黒人的なものせめぎ合いによって発展してきたアメリカ音楽を考察する上で、「偽装」というキーワードの重要性を指摘している。ミンストレル・ショウの時代、白人が顔を黒塗りにして黒人を偽装したが、黒人の側にもまた、白人による彼らのステレオタイプを偽装してしまうという捻れた意識が生まれていた。そのことが、ロックや黒人音楽にも影を射しているというのだ。ここではその議論の詳細は繰り返さないが、アメリカ音楽にとって「偽装」がキーワードであることを確認しておきたい。
★8 RZAは二〇一二年に『アイアン・フィスト(The Man with the Iron Fists)』と題された映画の監督も務めているが、これはマーベルのアイアン・フィストとは直接関係のない別の作品だ。
★9 「N.Y. State of Mind」はDJプレミアがプロデュースしたヒップホップ・クラシックで、一九九四年にリリースされたナズのデビューアルバム『Illmatic』 に収録。
★10 URL = https://www.highsnobiety.com/p/marvel-references-in-hip-hop/
★11 『Marvel: The Hip-Hop Covers』と題された公式のイラスト集で、二〇一六年に第一弾が、翌年には第二弾が出版されている。

吉田雅史

1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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