日本思想の150年――知識人、文学、天皇(冒頭部分)|苅部直+大澤聡+先崎彰容+東浩紀

初出:2018年10月26日刊行『ゲンロンβ30』

 2018年10月、批評誌『ゲンロン』は第I期を終える。「第I期終刊号」と冠した『ゲンロン9』では、過去に特集した「現代日本の批評」、「ロシア現代思想」、「ゲームの時代」のそれぞれを補完する三つの小特集を収録する。
 「ロシア現代思想III」では五木寛之氏、沼野充義氏、東浩紀の鼎談を収録したほか、ミハイル・バフチンの未邦訳草稿を初邦訳。「ゲームの時代II」では、辻田真佐憲氏、土居伸彰氏、松下哲也氏、山本貴光氏の論考を収録している。
 ここに冒頭部分を掲載する共同討議「日本思想の150年――知識人、文学、天皇」は、「現代日本の批評IV」として位置づけられる。連続企画「現代日本の批評」はこれまで、1975年以降の日本の批評史を検討してきた。ではその前史に、日本の批評/思想は、どのようになされてきたのか。日本思想史研究者の苅部直氏と先崎彰容氏、批評家の大澤聡氏と東浩紀が、日本近代思想を再考し、現代日本を照らし返す。
 明治150年にあたるこの年に、節目となる記念碑的座談会をここにお届けする。(編集部)

 

東浩紀 今年は明治維新から150年の節目の年であり、また来年には代替わりも予定されています。そこで本誌では、「日本思想の150年」というテーマで、苅部直さん、先崎彰容さん、大澤聡さんをお迎えしてお話をうかがうことにいたしました。

 今日の討議では、たんに歴史を振り返るのではなく、日本思想のアクチュアルな可能性を取り出せればと考えています。いま日本の政治的言説は、右/左、与党/野党、保守/リベラル、改憲/護憲、安倍政権支持/「反アベ」といった対立が先鋭化し、たがいに連動して身動きが取れない状況になっています。150年の複雑な歴史を辿り、読者がそうした対立を逃れる視座を確保できればと思っています。

 討議にあたり、まず先崎さんと大澤さんに、そのような狙いをお話ししたうえで、「いま再注目すべき著作」を事前に選んでいただきました。今日はそれをもとに討議を進めていきますが、まず読者の方に申し上げておきたいのは、この座談会はけっして網羅的な振り返りをする場ではないということです。150年の思想史を数時間で語り尽くせるわけはなく、この座談会でも多くの重要な人名が落ちていると思います。また、この討議は、『ゲンロン1』から『ゲンロン4』まで、ぼくと大澤さんを中心に3回に分けて行った「現代日本の批評」という長い企画の、補足的な第4弾という位置づけにもなっています。今日は、1975年以降の40余年を検討した「現代日本の批評」の時代から、さらに100年さかのぼるかたちで、いまの日本の言論状況をつくり出している歴史や環境について再考できればと考えています。

 ここからみなさんの話をうかがっていくわけですが、議論の焦点になりそうなことをさしあたって三つほど考えてみました。ひとつめは知識人の役割です。日本の知識人は150年の歴史のなかでどのように大衆と向き合ってきたのか。また日本の知識人にとって大衆とはなんだったのか。ふたつめが文学と思想の関係です。日本では文芸批評が思想の機能を担ってきたとよく言われますが、なぜそれが必要だったのか。これは、苅部さん、大澤さんの関心である「教養」の問題と大きく関わります。また「現代日本の批評」の企画と直結する問題でもあります。そして最後に天皇の問題です。リストに挙がった著作を読み直して、日本の思想家たちが天皇という存在の意味について、さまざまなかたちで考えつづけてきたことをあらためて実感しました。くしくも来年は代替わりが予定されており、天皇とは日本思想にとってなんだったのか、すこしでも触れることができればと思います。

 司会役を逸脱してあらかじめ言ってしまえば、「知識人」「文学」「天皇」というこの三つの問いは、最終的に「この国で一般意志を担うのはなにか/だれか」という問題に帰結するのかなと思っています。日本の知識人は、ほんとうに一般意志に触れてきたのか。日本の文学は、なぜ一般意志の表現を期待されたのか。そして、天皇は、日本国民の一般意志とどのような関係にあるのか。

 それではさっそくですが、まずは明治初期の思想の可能性について、先崎さんから選書と絡めつつお話しいただければと思います。