つながりロシア(2) ファッションとポストソ連文化|松下隆志

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初出:2018年10月26日刊行『ゲンロンβ30』

〈UMOM ROSSIJU NYE PONYAT, V ROSSIJU MOJNO TOLKO VYERIT〉

ヴィクトル・ペレーヴィン『ジェネレーション〈P〉』★1


旧共産圏のファッションと「ポストソ連美学」


 「つながりロシア」第二回は、やや趣向を変え、現代ロシアのファッションからポストソ連文化を考えてみたい。

ゲンロン』本誌の特集でも取り上げたフランス人研究者マルレーヌ・ラリュエルとスウェーデン人研究者マリヤ・エングストロームは、近年の文化においては視覚的なものが言語的なものより優位に立っていると指摘する。「エモティコン」によるコミュニケーションが象徴しているように、視覚的なものがテクストを代替し、しかも言語より多くの意味内容を伝達することができる★2

 現代ロシアの視覚文化でとくに勢いがあるのがファッションの分野で、中でも旧共産圏出身の若手デザイナーたちが打ち出した、いわゆる「ポストソ連美学」と呼ばれる新傾向のスタイルが世界的に注目を集めている。ロシア出身のファッションライター、アナスタシヤ・フョードロワによれば、それは単なるファッションの枠組みを超え、「中心と周縁との間の、優勢な西側と(依然として)かつての東側との間の全文化的原動力」となっているという★3

 この潮流の第一人者として真っ先に名前が挙げられるのが、ジョージア(グルジア)出身のデザイナー、デムナ・ヴァザリアだ。彼は1981年に黒海北岸に面するアブハジアに生まれた。故郷では93年にジョージアからの独立をめぐる大規模な武力衝突(いわゆる「アブハジア紛争」)が起き、難民となったヴァザリア一家は、ジョージアの首都トビリシ、ウクライナ、ロシアと移住を繰り返し、最後はドイツのデュッセルドルフに落ち着いた。その後ヴァザリアはアントウェルペン王立芸術学院でファッションを学び、「メゾン・マルジェラ」や「ルイ・ヴィトン」といった有名ブランドのデザイナーを務め、2014年に自身のブランド「ヴェトモン」を立ち上げた。
 ヴァザリアはファッション界に革命をもたらしたと言われる。たとえば昨今は男女問わずビッグシルエットがトレンドだが、それは「ヴェトモン」の代名詞であるオーバーサイズのMA−1や、袖の長すぎるパーカーに端を発するものだ。また、現在ヴァザリアがアーティスティック・ディレクターを務めるスペインの老舗ブランド「バレンシアガ」から発売されている「トリプルS」は、ランニングシューズ、バスケットボールシューズ、トラックシューズという三種類のソールを重ね合わせた超ボリューミーなスニーカーで(片方だけでなんと900グラム近くもある!)、いわゆる「ダッドシューズ」(父親が履いているような不恰好な靴)を代表する一足として絶大な人気を誇っている。ヴァザリアは、服や靴は身の丈に合ったものを身につけるべきという「常識」を崩壊させたのだ★4

 こうした数々の斬新なアイディアにはデザイナーの出自が深く影響している。たとえばオーバーサイズの服は、子どもの頃は貧しくて服が買えず、裕福だった従兄弟のお下がりを着ていたことに由来するという。その他にも、当時の市場にあふれていた中国製のフェイク品を思わせるパロディロゴが入ったTシャツ★5、ソ連時代のオイルクロスによく見られる花柄をプリントしたワンピース、新興マフィアを思わせる肩パッド入りのゴツいスーツなど、ヴェトモンの服は社会主義文化と資本主義文化がごちゃ混ぜになっていた90年代の旧共産国の混沌とした雰囲気を色濃く反映している。

 だが、ファッションについて「すべては盗用だ」★6とシニカルな哲学を語るヴァザリアには、社会主義文化に対するノスタルジーはさほど感じられない。子どもの頃は服も満足に買えなかったという自身の境遇とは裏腹に、「ヴェトモン」のアイテムの価格は高級ブランド並みであり、10万円を超えるパーカーも珍しくないが、デザイナー本人は自身のブランドの服について、「僕は自分がこういうモノを買うほどファッション狂だとは思わないね。むしろ旅行に行きたいよ」★7と醒めたコメントを寄せている。今後はオーバーサイズからより機能的なデザインへシフトするとも言われており、ヴァザリアにとって「ポストソ連美学」は新しいスタイルの探求における一つの段階にすぎないのかもしれない。

「貧しいけどセクシー」なロシアのヤンキー


 ファッションに対してアイロニカルな態度を取るヴァザリアに対して、ファッションというツールを通じてポストソ連ロシアの若者たちのアイデンティティを積極的に打ち出しているのが、ロシアの新進気鋭のデザイナー、ゴーシャ・ラブチンスキー★8である。
 1984年生まれ、モスクワで生まれ育った彼は、若い頃から『OM』や『プチューチ』といった当時の最先端ポップカルチャー誌の読者で、いつの日かそうした雑誌に載るような人間になることを夢見ていた。そのため美術学校を卒業したにもかかわらず、美大ではなくモスクワの美容専門学校に進み、ロンドン発の老舗サロン「トニー&ガイ」で美容師として働く。その中で服に興味を持ち、舞台・映画監督キリル・セレブレンニコフのブラックコメディー映画『被害者を演じて』(2006年)などにスタイリストとして参加したことで、自分でも服を作ってみたいと考えるようになった★9

 そして2008年、ラブチンスキーは自らのファッションプロジェクトを立ち上げる。この年の夏、ヴァザリアの故郷ジョージアでは南オセチア紛争が勃発し、ロシアは欧米のメディアから厳しい批判に曝されていたが、ラブチンスキーはモスクワのソコーリニキ・スタジアムで行われた最初のファッションショーを、冷戦期のレーガン大統領の演説にちなんで「悪の帝国」と名づけた。

 ショーでは、テクノが鳴り響く中、双頭の鷲と熊と自動小銃を組み合わせたグラフィックがプリントされたスウェットシャツや、スポーティーなトラックジャケット、デスメタルを思わせるスパイクで覆われたマスク、両袖を肩のところで大胆に切り落としたTシャツなどを着た若者たちがスタジアムのトラックを練り歩いた★10。これは一種のパフォーマンスで、本人としてはそれ以上ファッションの世界に関わるつもりはなかったそうだが★11、国内外からオファーが舞い込み、コレクション作りを続けることになった。コムデギャルソンから生産に関して全面的なバックアップを受けるようになってから販路は世界に拡大し、今や欧米やアジアの若者から絶大な支持を集めるようになっている。

 ラブチンスキーは自らをプロのデザイナーではなく「ストーリーテラー」と呼び、「ぴったりくるストーリーさえあれば、ビール瓶だってどうしても手に入れたがるような豪華アイテムになる」★12と語る。ポップカルチャー(ロック、レイヴ)やスポーツ(スケートボード、サッカー)はもちろんのこと、アヴァンギャルド芸術(ロトチェンコ、マレーヴィチ)や現代芸術(複数の布をコラージュした絵画で知られるティムール・ノヴィコフ、社会主義版のポップアートである「ソッツアート」を代表する画家エリク・ブラートフ)に至るまで、彼は自らを育んだ文化についての「ストーリー」を、服という平面の上で自由自在に展開してみせる。

「ゴーシャ・ラブチンスキー」を語る上で抜きにできないのが、〈ХАРДКОР(ハードコア)〉、〈ФУТБОЛ(サッカー)〉、〈ДИ-ДЖЕЙ(ディージェイ)〉といったキリル文字のプリントだ。タイポグラフィーはアヴァンギャルド以来のロシア芸術の伝統だが、もちろん主要なマーケットである欧米やアジアの若者たちの大半はロシア語を知らないだろう。しかし意味がわからないおかげで、彼らはかえってキリル文字を純粋なデザインとして受け取ることができる。それは欧米人が漢字のプリントされたTシャツを好んで着るのと同じ感覚かもしれない。
 フョードロワはブランドが世界的な成功を収めた理由を次のように分析している。

ラブチンスキーの作品は、人々の間に広まっていたエッジィやアンダーグラウンドへの憧れを満たすことができた。ストリートウェア・ブームが起きる寸前で、シュプリームやアディダスがハイプビースト世代の新たな偶像になろうとしていた。ラグジュアリーとストリートの、「ダサい」と「相応しい」の、ハイとロウの境界が融けつつあった――そして、ポストソ連空間の論争的な神話がまさにぴったりフィットしたのだ。このバッドアスなロシアの若者たちは、最後のエキゾチックな〈他者〉、禁じられた果実、まだ冷戦の恐怖に根を持つ完全に未知の形象だった。誰もが多かれ少なかれ同じような服を着て、コカコーラを飲み、ドイツ車を走らせているポストグローバル化の西側世界にあって、この新たなローカリズムの異世界性は本物に見えた。20年前のベルリンのように、それは貧しいけどセクシーだった。★13


 ラブチンスキーのスタイルはしばしば「ゴープニク」と形容される。これは下流社会で生まれ育ち、暴力的でしばしば犯罪にも手を染めている、日本で言うところの「ヤンキー」の若者を指すロシア語のスラングである。「〈ゴープニク〉ってのは、金がないから地元の店で見つけたものだけを着て、それをダサくミックスさせてる田舎の少年みたいなものさ」とデザイナーは語る。「アディダスのスニーカーに小ぎれいなスーツとか、革靴にトラックスーツとか」★14。そして彼はコレクションのモデルにプロではなく、あえて地元のスケート仲間やインスタグラムなどで募った素人の若者を起用することで、西側の若者たちが憧れる「貧しいけどセクシー」なロシアの若者像を巧みに創りあげている。

 一方、ロシア国内にはブランドの世界的な人気に首を傾げる人も少なくない。なぜキリル文字をプリントしただけのTシャツやスウェットシャツに外国人が大枚をはたくのか、彼らには理解できないのだ。ネット上には「ゴーシャ・ラブチンスキーの服の代わりに何が買えるか」といったミームが数多く投稿されている★15

 ラリュエルとエングストロームはラブチンスキーの保守愛国的な傾向を指摘し、彼の服をプーチンが提唱する「クレムリンの新たなドクトリンの視覚化」と呼んでいる。ラブチンスキーは彼がインスピレーションの源とする90年代ロシアの空気を再現しているだけでなく、ロシアの主権や文化的アイデンティティを主張しつつ、同時にグローバルな金融システムやポスト産業経済への参入を目指す「コスモナショナリズム」や「西洋化なき近代化」といった、ロシア国内のアクチュアルな政治概念を体現しているというのだ★16

 たしかにラブチンスキーは自身の愛国心を隠そうとはしていないし、ブランドにプーチン以降のロシア社会の保守回帰の空気が反映されていることはその通りだろう。しかし、それを安易にクレムリンのイデオロギーに回収してしまっては、ラブチンスキーの創作を不当に矮小化することになりかねない。

現代の「ユニフォーム」を求めて


 今年(2018年)4月、ラブチンスキーは突如インスタグラム上でコレクションの休止を発表し、10年間の活動にいったんの区切りをつけた。振り返ってみると、「ゴーシャ・ラブチンスキー」はファッションブランドであると同時に、ポストソ連ロシアにおける新たな共同体やアイデンティティを探求するプロジェクトでもあった。
 「成長と発展」と題された2009年のセカンド・コレクションでは、革命前は教会で、ソ連時代にはスポーツジムとして利用されていたという一風変わった場所がショーの会場に選ばれた。建物内部の奥には木製の巨大な雛壇があたかも祭壇のように聳え、ショーの本番でモデルたちはまるで走り幅跳びの選手のように助走をつけて次々に段に飛び乗っていった。スポーツと精神性を結びつけられるような場所を探していたところ、たまたまこの元教会のスポーツジムが見つかったということだが、それは結果的に、ソ連的な身体性とロシア正教の精神性の融合というポストソ連ロシアのアイデンティティを見事に視覚化している。

 人々を団結させるスポーツはブランドにとって欠かせないモチーフとなっている。オーウェルの反ユートピア小説への仄めかしを含む2016年春夏のコレクション「1984」ではオリンピックが取り上げられ、ソ連時代を思わせるスポーツウェアや、ソ連の体操教育のスローガン〈ГОТОВ К ТРУДУ И ОБОРОНЕ(労働と防衛に備える)〉がプリントされたシャツなどが登場した。だが、ここにソ連に対する素朴なノスタルジーを見て取るのは早計である。まさに1984年に生まれたラブチンスキーに当時の記憶はないはずで、さらに言えば、東西対立の悪化からソ連は1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットしている。幻に終わった祭典。80年代の田舎のロック・シンガーのスタイルを意識したという白塗りのモデルたちが着るスポーツウェアに漂っているのは、まさにそんな幽霊的なイメージだ。それらの服はどこにでもあるようで、その実どこにもない。ここでラブチンスキーが相対しているのは、過去のソ連ではなく、現在のロシアをさまようソ連の亡霊なのである。

 そしてスポーツと並んで重要なモチーフとなっているのが音楽だ。2018年春夏のコレクションでは、スポーツと同時にレイヴがテーマとなった。ロシアでレイヴが行われるようになったのは90年代初頭で、ロックバンド「キノー」とも関わりのあったノヴィコフが、リガの音楽フェスで知り合ったドイツのDJウエストバムをペテルブルグに招待し、本格的なDJセットがもたらされたのが始まりとされる。コレクションには90年代の伝説的なレイヴ・パーティー〈ВОСТОЧНЫЙ УДАР(東の一撃)〉★17のシンボルがプリントされたTシャツも登場した。ボリス・グロイスはコンサートなどの大衆文化には「共通の過去を越えた共同体を形成する」力がある★18と指摘しているが、互いに見ず知らずの人々が延々と続くテクノ音楽を聴きながら朝まで踊り明かすレイヴに、ラブチンスキーはポストモダン時代の新たな共同体の在り方を見たのだろう。

 そして今年2月にロシア中部のエカテリンブルグで披露され、結果的に最後のコレクションとなった2018年秋冬のショーは、ラブチンスキーがこの10年間で行ってきたことの集大成となった。コレクションのテーマは「ハイブリッドとユニフォーム」で、デザイナーはインタビューで「すべてをミックスし、それを通して新世代と俺たちの新しい〈今日〉のためのユニフォームを作りたかったんだ」★19と語っている。

 エカテリンブルグはロシアの初代大統領ボリス・エリツィンの出身地で、彼を記念して作られた「エリツィン・センター」がショーの舞台に選ばれた。本番では、8月クーデター、憲法制定、チェチェン紛争など、90年代ロシアの重要な出来事が展示された部屋部屋を、あたかも歴史を通り抜けるかのようにモデルたちが無秩序に歩き回り、そして最後の「自由の間」は即席のランウェイとなった。この部屋にはブラートフの巨大な絵画が掲げられており、そこでは青空を背景に、90年代を象徴する〈СВОБОДА(自由)〉というキリル文字が雲を突き抜けて観る者に向かってくるように描かれている。

 ブラウン運動を思わせるモデルたちの不規則な動き、彼らによって即興で奏でられるノイズ音楽、多種多様な迷彩柄のパッチワーク、左右で形の異なるコートやパンツ、バーバリー、アディダス、リーバイス、ドクター・マーチンといった、国もカテゴリーも異なるブランドのミックス、ブラートフがコレクションのために制作した〈ДРУГ ВДРУГ ВРАГ(友 突然 敵)〉のスローガン、並列されたアメリカとロシアと日本の国旗――すべてが混沌の内にありながら、同時に不思議と調和を保っている。言うなればそれは、秩序(コスモス)と無秩序(カオス)の垣根が崩れ去った、「カオスモス」とでも言うべき空間の出現だった。
 もちろん、主要な消費者である欧米やアジアの若者にデザイナーの意図がどの程度まで伝わっているのかはわからない。いや、ほとんど伝わっていないというのが実情だろう。だが、それでいいのではないだろうか。レイヴが音楽によって人種も性別も超えて人々をつなげるように、「ゴーシャ・ラブチンスキー」は服によって世界中の若者たちをつなげた。インスタグラムで〈#gosharubchinskiy〉で検索をかければ、胸に〈РОССИЯ(ロシア)〉の文字を自慢げに輝かせている韓国や日本の若者の写真が大量に見つかるだろう。こうした若者たちにとって、ロシアは今やクールの代名詞なのだ。

「想像の西側」との訣別


 エカテリンブルグのショーの最後でモデルたちは、ロシアの人気ロックバンド、ノーチラス・ポンピリウスの代表曲「グッバイ・アメリカ」をアカペラで合唱した。これはロシアの90年代を象徴する映画『ブラザー』(1997年、邦題『ロシアン・ブラザー』)の続編『ブラザー2』(2000年)のラストで流れる曲で、「グッバイ、行ったことのないアメリカ」という印象的なフレーズがある。この曲をショーに組み込んだ理由についてラブチンスキーは、「自分にとってアメリカは幻想で、だからこの曲をショーに入れると決めたことで、俺はたくさんのものにお別れを言ったんだ」★20と述べている。これまで西側にとっての「他者」としてのロシア像を提示しつづけてきた彼だが、そこで想定されている「西側」もまた一つの幻想に他ならず、だからこそ訣別する必要があったのだろう。

 「ゴーシャ・ラブチンスキー」の終わりは何を意味するのだろうか。フョードロワは「ポストソ連美学」は正式にファッションのメインストリームになったと指摘する。今やロシアとは縁もゆかりもないブランドがこぞって(しばしばスペルの誤った)キリル文字をプリントした服を発売し、ロシア語やロシアの視覚文化遺産は「使い捨ての衣服の上で絶え間なく変化する無意味な記号の流れに溶解」★21してしまった。

 その一方で、「ゴーシャ・ラブチンスキー」の成功がロシアをはじめとする共産圏出身のデザイナーに世界進出の大きなチャンスを与えたことも事実だ。日本でもロシアやウクライナなどの若手デザイナーのブランドをセレクトする店が増えてきており、今夏にはロシアや東欧のブランドを中心に扱う「バンカートーキョー」が原宿にオープンしたばかりだ。

 忘れてはならないが、ラブチンスキーはあくまで現代のロシアを表象する一つのアプローチを示したにすぎない。ロシア人が皆サッカーに熱狂するわけではなく、先般のロシア・ワールドカップの決勝戦における「プッシー・ライオット」の乱入パフォーマンスは、国を挙げての集団的陶酔の中で政治問題がなおざりにされることに対する異議申し立てだった。ヴァザリアもまた「ヴェトモン」の2019年春夏のコレクションで故郷ジョージアの政治問題に人々の目を向けさせようとしている。ラブチンスキーが自身のブランドを締めくくる曲として選んだ「グッバイ・アメリカ」が、ロシアや東欧のファッションの新たな時代の幕開けを告げる序曲となることを期待したい。

★1 19世紀ロシアの詩人フョードル・チュッチェフの有名な詩の一節をローマ字で表記したもの。意味は「ロシアは頭ではわからない/ただ信じることができるのみ」。邦訳は以下。ヴィクトル・ペレーヴィン『ジェネレーション〈P〉』、東海晃久訳、河出書房新社、2014年、84頁。
★2 Ларюэль М., Энгстрем М. Визуальная культура и идеология // контрапункт. 2018, No. 12. С. 1.
★3 Anastasiia Fedorova, “Post-Soviet fashion: Identity, history and the trend that changed the industry,” The Calvert Journal. February 23, 2018.
★4 「ヴェトモン」や「バレンシアガ」の成功には、両ブランドでスタイリストを務めるウラジオストック出身のロッタ・ヴォルコワの存在も大きく関わっている。彼女は後述の「ゴーシャ・ラブチンスキー」のスタイリングも担当しており、ヴァザリア、ラブチンスキー、ヴォルコワの三人は、「ポストソ連美学」を代表する三羽烏と言われている。
★5 2016年春夏コレクションでは、本稿以下で取り上げるゴーシャ・ラブチンスキーがドイツの国際輸送物流会社DHLのパロディTシャツを着てランウェイを歩き、観客を驚かせた。Vogue Japan. October 2, 2015.
★6 Steve Salter, “vetements disrupted men’s fashion week as demna turned the dial to 11,” i-D. January 20, 2018.  ちなみに、ヴェトモンには「ヴェトミームス(Vetememes)」というヴァザリア公認のパロディブランドが存在する。
★7 Kate Finnigan, “Demna Gvasalia on race, that DHL T-shirt and why he wouldn't pay for his own designs,” The Telegraph. May 18, 2016.
★8 ロシア語から訳す場合は「ルブ(プ)チンスキー」と綴るべきだが、本稿では日本で定着している表記に倣った。
★9 Первое интервью Гоши Рубчинского для Vogue Россия // Vogue Россия. ИЮЛЯ 21, 2015.
★10 Anastasiia Fedorova, “10 Years Later, Watch Gosha Rubchinskiy’s First-Ever Show in Moscow,Highsnobiety. April 5, 2018.
★11 「ゴーシャ・ラブチンスキーのロングインタビュー」、「i-D」、2016年4月15日。
★12 同サイト。
★13 Fedorova, “Post-Soviet fashion.”「貧しいけどセクシー (poor but sexy)」はベルリンの街のスローガン。
★14 Richard Godwin, “Meet Russian fashion superstar Gosha Rubchinskiy,” EveningStandard. November 16, 2017.
★15 「一枚10800ルーブルのトラックパンツで、一個120ルーブルのシャウルマ(ロシアのケバブ)が90個買える」といったもの。ちなみに2019年9月現在1ルーブルは約1.7円。
★16 Ларюэль, Энгстрем. Визуальная культура и идеология. С. 12.
★17 日本からは「電気グルーヴ」の石野卓球やテクノミュージシャン、ケン・イシイもゲストに招かれたという。
★18 ボリス・グロイス『アート・パワー』、石田圭子ほか訳、現代企画室、2017年、296−297頁。
★19 “ 'Gudbay, America’ – Behind-the-Scenes with Designer GOSHA RUBCHINSKIY,” 032c. March 22, 2018.
★20 “ ’Gudbay, America’ – Behind-the-Scenes with Designer GOSHA RUBCHINSKIY.”
★21 Fedorova, “Post-Soviet fashion.”

松下隆志

1984年生まれ。岩手大学人文社会科学部准教授。著書に『ナショナルな欲望のゆくえ──ソ連後のロシア文学を読み解く』(共和国)、訳書にソローキン『青い脂』(共訳、河出文庫)、『親衛隊士の日』(河出文庫)など。
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