つながりロシア(3) 南極ビエンナーレの旅|鴻野わか菜

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初出:2018年11月22日刊行『ゲンロンβ31』

 鴻野わか菜さんとアレクサンドル・ポノマリョフ氏に「南極ビエンナーレ」について紹介いただいたゲンロンカフェのイベント「南極ビエンナーレとはなにか──宇宙主義とユートピアと芸術の可能性」が、Vimeoにて全篇公開中です。こちらのリンクからご覧いただけます。ぜひあわせてお楽しみください。(編集部)
   
「南極ビエンナーレにあなたを招待します」というメールを、ロシアのアーティスト、アレクサンドル・ポノマリョフから突然受け取ったのは、2016年の暮れだった。ポノマリョフは、「南極でビエンナーレをやりたい。各国のアーティスト、作家、哲学者、研究者らを呼んで、皆で一つの船に乗り込んで、どんな国にも属さない南極へ共に旅をする。それは、環境や宇宙などの人類共通の問題について、国や領域を越えて多様な人々が対話する仕組みを作るための航海なんだ。アーティストはそのヴィジョンを表現する中心的存在だ」★1と12年に亘って語り続けてきた。ポノマリョフはその年、「瀬戸内国際芸術祭2016」の参加アーティストとして、丸亀市の塩飽本島に1ヶ月近く滞在して本島の住民と生活を共にし、漁師や住民への共感のうちにインスタレーション《水の下の空》を制作したところだった。本島を去る日、ポノマリョフは「多くの友人ができたこの島は、私にとってもう自分の島だ。私はこの島に自分の一部を残していこうとしている」と語って名残を惜しみ、いつまでも船に乗ろうとしなかったが、彼が島に残した岸辺で揺れる三隻の和船は、作家による本島への愛の形であると同時に、彼の新しい出発の象徴にもなった。この作品の制作以降、ポノマリョフは南極ビエンナーレの実現に向けてラストスパートをかけ、ようやくその夢を実現しようとしていたのである。

【図1】アレクサンドル・ポノマリョフ《水の下の空》 瀬戸内国際芸術祭2016 撮影=Alexander Ponomarev
 
 ポノマリョフは、私が1999年から2002年にかけて、第2次チェチェン戦争下の荒んだロシアで留学生活を送っていたころに親切にしてくれた古い友人で、尊敬するアーティストでもある。私自身も南極ビエンナーレの理念に共感していたことから、私はその年、南極ビエンナーレの日本事務局を引き受け、広報等のために奔走していた。

 ただ、ポノマリョフにはくりかえし、「きみは南極には連れていけないよ。選ばれた人だけが行くんだ。友達みんなを連れてったら船が何艘も必要になっちゃう」と言われていたので、自分が南極に行くことになるとは1ミリたりとも考えていなかった。だから、招待のメールを見た時は当惑のあまり、すぐにノートパソコンを閉じ、メールを見なかったことにしようと思った。その後も事務局としてはポノマリョフや他のスタッフと連日のように連絡を取り続けていたが、南極への招待については、半月近く、私からはメールで一言も触れなかった。ポノマリョフはかねがね、「南極ビエンナーレの船に乗る者は、作家も研究者も誰もが、制作、制作補助、研究、対話、上陸準備、運営など複数の役をこなさなくてはならない」と語っていたし、自分が参加しても、この大きな共同事業にどんなふうに貢献できるのか、答えが見えなかったからだ。
 
 
 だが結局、南極行きを承諾してしまった。理由は、自分の行き詰まった人生には南極の清冽な風景を見ることが必要だという身勝手なものだった。そのころ読んだ池澤夏樹の長編小説『氷山の南』の主人公の青年──氷山をひと目見るために南極へ向かう船に密航する青年──の姿に後押しされたのかもしれない。南極行きを決めてから出発まで、事務局の仕事に追われながら、南極ビエンナーレでの自分の役割について考えていたが、参加アーティストと研究者のリストを除けば、現地での具体的な活動内容も大まかな日程表すらも事前に知らされなかったこともあり、答えは分からないままだった。

【図2】船が南極圏に入るとすぐに、氷山が見え始める 撮影=鴻野わか菜
 

出港──旅立ちの熱狂


 2017年3月15日、3つの飛行機を乗り継いで、アルゼンチン最南端の都市ウシュアイアにたどり着いた。これから何が起こるのか、ほとんど何も知らなかった。私が知っていたのは、南極ビエンナーレの理念のほかには、世界各国から集まった約100名の参加者が共に旅をし、アーティスト達は南極大陸の岸辺、南極列島、南極海でアートプロジェクトを実施するという南極ビエンナーレの大枠のプログラムだけだった。

【図3】ウシュアイアの港に停泊する出港前のセルゲイ・ヴァヴィロフ号 撮影=鴻野わか菜
 

 そして翌3月16日、世界のあちこちから集まってきた人々と共に1艘の船に乗り込んだ。ロシアの研究船〈セルゲイ・ヴァヴィロフ号〉最上階のラウンジで開かれた顔合わせのパーティーでは、人が多すぎて、そして参加者リストもなかったので、誰が誰だか分からない。なお、参加者リストは結局最後までもらえなかった。

 最初に知り合ったのは、南極における人間の活動の歴史を研究しているフランス人研究者で、写真家でもあるジャン・ポメルーだった。人文系の研究者としては珍しく、もう何度も南極で調査をしているという。私達の後ろでは、宇宙ステーションのデザインをしているオーストリアの女性研究者と、最初からユーモア全開で皆を楽しませようとするイギリス人の小説家が話し込んでいた。

「カンディンスキー賞」や「イノヴェーション賞」などロシアの現代美術賞を次々に受賞し、将来を嘱望されている若手作家、アンドレイ・クスキンとも知り合った。クスキンは、世界各地で展開してきた全裸で逆立ちして木の格好をするパフォーマンス《自然現象 あるいは木のある99の風景》を南極でも行うのだという。「このパフォーマンスを99回行うことで、どんな場所へ移動しても人は基本的に変わらない存在であることを表したいんだ。人間のおかしな夢を表現したいんだよ。でもこれは、99本の木を描いた版画を遺して、ぼくがまだ小さい時に亡くなった父に捧げるパフォーマンスでもあるんだ」とクスキンは語った。
【図4】アンドレイ・クスキン《自然現象 あるいは木のある99の風景》 撮影=鴻野わか菜
 

 南極ビエンナーレでポノマリョフと共にキュレーションを担当するナジム・サマンがスピーチをする。「私達はいま、岸を離れるのではなく目的地に接近している! 南極はこれ以上のヴィジター(訪問客)を求めていない。シンカー(考える人)を求めている!」。コミッショナーのポノマリョフもマイクを持つ。「一番大事なのは、南極で生じる人々の交流が何かを生み出すことだ!」。

 13カ国から集まった77名の南極ビエンナーレ参加者と42名の乗組員を乗せた船では、その日、夜明け近くまで、旅立ちの興奮に駆られた人々の歓声が響いていた。

【図5】出発前夜 撮影=鴻野わか菜
 

海峡を越えて


 熱狂がすぎるとすぐに不協和音が聞こえてきた。

 世界で一番荒れる海域の1つであるというドレイク海峡を3日かけて渡るあいだ、3分の1の参加者が船酔いで寝込み、皆、多かれ少なかれ不調を訴えた。ポノマリョフが「気分が悪かったら無理することはないんだ」と止めたにもかかわらず、研究者達は、初日に行った打ち合わせどおり、カンファレンスルームで次々にプレゼンテーションを行った。しかし、聞きにくることができたのは、起き上がることができた30名弱の人々にすぎなかった。

 なお、興味深かったのは、アーティストが次々にベッドに倒れ込んだのに、私を含めて研究者はわりと平気で発表やディスカッションを続けていたことだ。アーティストは自分の感覚に素直なのかもしれない。3日間ほどカナダ人スタッフの好意で開催された早朝のヨガクラスに出席したのも、研究者ばかりだった。

【図6】ドレイク海峡の荒波を渡るあいだのカンファレンスは、聞いている方も辛そうだった 撮影=鴻野わか菜
 
 そのころから、ラウンジで、夕食の席で、こんなフレーズをしばしば耳にするようになった。「こんなの馬鹿げているよ。南極が芸術を必要としているとは思えない」、「南極で展示を行うこと自体が環境破壊だ」、「アーティストって何を考えているか分からないな」。
 
 芸術を中心に据えて皆で共同事業に取り組むという意識が、南極ビエンナーレの参加者のあいだでこれほどにも共有されていないということを知り、最初はショックを受けた。しかし、考えてみれば、宇宙科学者、海洋学者、ジャーナリストなど、ふだん美術とはほとんど縁のない参加者も多い。この船で、こうした疑問が噴出するのは当然のことだった。皆、それぞれの思惑、欲望、生活があって船に乗っているのだ。それに、文学・美術研究者でありながら、「壮大で想像を絶するような南極の自然の美の中で、芸術作品はどれほど存在感を発揮しうるだろうか」と危惧していた私にも、彼らと共通する部分があったと思う。
 
 
 だが、思想もバックグラウンドも性格もあまりにも違う南極ビエンナーレの参加者達は、3日の航海を経て船が南極圏に達するころ、少しずつ混じり合っていった。
 
 
 それについて、日本のアーティスト五十嵐靖晃は次のように書いている――「実際に、南極ビエンナーレの航海には世界中の人が集った。話すのが早い人、遅い人、黙っている人。ゆっくりな人、てきぱきしている人、動かない人。言葉も文化もみんな違う。彼らは自分の中にそれぞれの国や地域の時間であり、自分自身の命が刻む自分だけの時間を持っていた。航海で暮らしを共にし、互いを知り、また、組紐づくりを通して、言語を超え、まるでダンスやチェスをするように相手の呼吸を感じていた。彼らの手に握られた糸は命が刻む鼓動を拾った。そして、この航海に於いて、我々は海のうねりに合わせるように体をつくり変え、風を待った」★2
 
 
 船は不思議な空間で、同じ波に揺られていると、まるで1つの炬燵に入っているかのように、人々の差異が薄まっていく。

 どの国家にも属していないゆえに誰もが平等な存在になりうる南極にいるという意識、世界は1つの海でつながっているという身体的な感覚も、人々のあいだにある障壁を徐々に取り除いていったと思う。

【図7】五十嵐靖晃《時を束ねる》 東京とサンパウロの自閉症の子ども達が染めた糸を用いて、南極と船内で皆で江戸組紐を組み、それを使って凧揚げをした 撮影=鴻野わか菜
 

【図8】五十嵐靖晃《時を束ねる》 撮影=鴻野わか菜
 

 とりわけ不思議なのは、南極ビエンナーレの旅を続けるうちに、様々な人が同時多発的に同じものを思い出したり連想したりすることが、何度もあったことだ。それはしばしば、特定の風景や、身体的な感覚に由来していた。航海の2、3日目には、船のあちこちで、アーサー.C.クラークの小説『2001年宇宙の旅』が話題になっていた。実は、それが話題になっているのを耳にする前から、私もその小説のことを思い出していた。おそらく他の人もそうだったのではないかと思う。
 
 
 南極は実に宇宙に近い場所だった。南極に身を置いていると、自分が地球の先端、あるいは末端にいて、ここから先は宇宙しかないのだということを痛感する。南極ビエンナーレの船には2人の宇宙研究者が乗り、しばしば宇宙について語っていたし、宇宙はすぐそこにあるように思われた。外は南極海という極限的な環境で、船の外にはどこにも行き場がない以上、同じ船に乗り合わせた人々は否応なく運命を共にせざるを得ないという状況も、宇宙飛行を想起させた。そういった意味で、船は宇宙船地球号の象徴にもなった。

【図9】撮影=鴻野わか菜
 

南極と芸術


 南極の自然は壮絶な美しさだった。太陽と雲の関係で、南極大陸にそびえる高い雪山の頂にだけ光が当たって輝いていることがある。そこは信じられないほど美しく、何にかえても行ってみたいと思うが、そこを目指すだけで雪に埋もれ、やがて死に至るだろう。そうと分かっていても、その風景はセイレーンの歌のように心を引きつけてやまなかった。

 西南極半島のパラダイス・ベイに浮かぶ島々や半島では、入江になっているのか、静かな湖のような水面に白と紺色の氷の山が姿を映していた。こんなに美しい場所はいままで見たことがない。いつまでたっても見飽きなかった。見渡す限り、水平線にほかの船の影は見えず、私達のほかには誰もいないその島で、私達は全員で「瞑想」のパフォーマンスを行った。話さず、動かず、カメラも触らない20分間。耳が痛く感じられるほどの完全な静寂の中、時折、前方の雪山からどうっと雪崩の音が響いてきた。
 
 
 パラダイス・ベイのその美しい水辺で、モロッコ出身のアーティスト、イト・バラダは、色とりどりの布を白い雪上に並べた。バラダは航海のあいだ、船内の食堂でオレンジの皮や紅茶パックを集め、食材を煮出した鍋で布を染めていた。雪上に幾何学状に並べられた染布は、20世紀初頭のロシア・アヴァンギャルドの幾何学模様を、モンドリアンなどの美術史を、染色の伝統、食事という人間の営みを想起させ、南極の自然の中で人類の歴史の物語を奏でていた。

【図10】イト・バラダ《抽象的地質学》 撮影=鴻野わか菜
 
 若手作家公募で首位に選ばれたドイツ在住の長谷川翔は、自分でデザインし鋳造したスケート靴で氷上を滑り、靴から発生する電気を用いてライトペンを発光させ、自作のフォトドローイング用暗箱の中で写真フィルム上に風景を描いた。南極ビエンナーレが追求した「科学と芸術の融合」をてらいなく実現した奇跡のようなパフォーマンスだった。
 
【図11】長谷川翔《ウィンターランドスケープ(南極編)》 撮影=鴻野わか菜
 

 中国のアーティスト、ザン恩利エンリは、南極大陸や島々の岸辺、雪上、氷上に、大きな卵のオブジェを置いて写真を撮り、その写真をもとに平面作品を描くプロジェクトを展開した。南極の豊かな生態系と呼応するかのような作品だったが、重い卵を大切そうに抱えてゴムボートで南極海を渡り、卵を安全に「産める」場所を寡黙に探し続けた作家の姿は、はからずも、生命と誕生を主題にしたパフォーマンスとしての側面も持っていた。

【図12】張恩利《卵》 提供=Courtesy Antarctic Biennale
 

 記憶をテーマにドローイング、コラージュ等を制作してきたロシアのカーチャ・コヴァリョーヴァは、連作ドローイング《南極ダイアリー》を綴った。航海のあいだ、氷山や海をスケッチすると共に、昼食時に出されたスープ、ペンギンの形に似たポットなどを描写し、「世界中のどんな場所でも日常生活が営まれていることを表現した」と語った。

【図13】船内で最終日にカーチャ・コヴァリョーヴァのドローイング展が開催された 撮影=鴻野わか菜
 

 アルゼンチンの作家ホアキン・ファルガスは、地球温暖化に伴い危険なウイルスが氷から溶け出すのを防ぐため、氷を凍結させるインスタレーション《氷結機》の稼働実験を行った。荒唐無稽に見えるこの機械について、ファルガスは「不可能なことでもやらなくてはならない」と語った。この作品はペンギンの注目を大いに集め、好奇心旺盛なペンギン達が駆け寄ってきた。
 
【図14】ホアキン・ファルガス《氷結機》 撮影=鴻野わか菜
 

 ポノマリョフは、南極の美に洗われて浄化された人間の魂の象徴である3つの球体を海に沈め、光を当てた。それは、鯨とイルカしか見ることのできない作品だったが、ポノマリョフは「これは自然への美術という贈り物だ」と語った。ファルガスの作品もポノマリョフの作品も、地球の環境を守るために人間が何をなしうるかということを比喩的に表した作品であり、ヴィジョンを見せるという芸術の力を最大限に活かしたものだった。

 作家達が、南極という空間の本質と可能性を渡航前から直感的に理解し、「何を南極で見せるべきか」を熟慮して制作、展示した作品は、南極の自然と調和しつつも、人間の活動の象徴として圧倒的な存在感を放っていた。

【図15】アレクサンドル・ポノマリョフ《南極のアルベドの錬金術(あるいは洗う蒼い月)》 撮影=Emilio Haag (Courtesy Antarctic Biennale)
 

南極ビエンナーレの未来


 南極条約、及び環境保護に関する南極条約議定書の規定により、南極の環境と生態系に影響を及ぼすいかなる行為も厳しい規制の対象となり、私達も環境保護の観点から、南極上陸前には徹底した持ち物洗浄を行い、何一つ南極に残さず、そこからも持ち帰らないことを心がけた。南極ビエンナーレで、海に沈めたり氷上に設置したりした作品はすべて、記録や映像を取った後に回収し、私達はふたたびドレイク海峡を渡った。南極圏での共同生活の後では、国境のある世界へ帰ることが奇異に感じられる。航海の最後の夜、夜空一面に、天の川が架かった。
 
 
「南極ビエンナーレは終わらない。これはプロセスを扱うビエンナーレだから」とポノマリョフは言う。南極ビエンナーレの体験を展覧会やシンポジウムを通じて伝え続け、国境、民族、専門領域を越えた多様な人々の対話の波を広げていくために、私達は本を編み、今後の展開を模索している。
 
 
 2018年7月から9月には、幸いなことに、「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2018」で貴重な機会を頂き、ポノマリョフを中心とする南極ビエンナーレチームで、南極ビエンナーレの展示を行うことができた。まったくの偶然だったが、展示場所の旧奴奈川小学校のある室野は、民間人として初めて南極越冬隊に参加した料理人の小堺秀雄氏の故郷であり、学校の倉庫には、小堺氏が寄贈した南極越冬隊の靴や手袋が、集落の集会所には大きな南極の石が残されていた。

【図16】南極ビエンナーレ《Fram 2》 大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレ2018 撮影=Marina Moskalenko
 

【図17】南極ビエンナーレ《Fram 2》 大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレ2018 撮影=Marina Moskalenko
 

 私達は、その南極の石を用いて、展示室である教室の中央に、未来の南極調査隊のための可動式建造物《Fram 2》の設計モデルを作った。これは、未来の南極ビエンナーレの芸術・科学探検隊のための施設として、南極ビエンナーレに参加した建築家アレクセイ・コーズィリが構想したものだ。自走式の43のモジュールから構成され、分解したまま南極にも容易に運搬することができるという仕組みになっている。

 南極沿岸で、各モジュールは、水面に浮かぶ建造物として雪の結晶の形に結びつく。この建築は、自由自在に水中を移動し、氷の海を浮遊する。

 可動式建造物《Fram 2》を構成する各モジュールは、ロアール・アムンセンが南極探検時に乗船した「フラム号」と同じ原理で作られているので、氷山や岸辺に当たっても壊れることがない。
 1912年、白瀬矗しらせのぶ隊長率いる日本初の南極探検隊は、南極点初到達から帰還するアムンセンの探検隊を収容するために来航していた「フラム号」と、南極のクジラ湾で遭遇している。この作品をめぐってポノマリョフは、「これは大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ創設に関わった北川フラム氏の名付けのもとになった船でもあり、フラムという言葉は過去と現在の様々な出来事を不思議な縁で結びつけている」と語った。
 
 
《Fram 2》が実現した暁には、その透き通った円屋根の下には、南極ビエンナーレ組織・計画センター、水陸両用可動統御装置、アーティスト達のアトリエ、研究室、大会議室、休息のための施設、冬の庭園、快適なキャビンを置いて、ここを南極、北極での芸術活動と、「公共空間」開発の探求拠点にするのだとポノマリョフは夢見る。もし本当に南極でアーティストインレジデンスができれば、作家にはどんなに大きい刺激になることだろう。
 
 
 展示室ではさらに、マリーナ・モスカレンコによる南極の岸辺を模した模型を設置し、第1回南極ビエンナーレで実現されたアートプロジェクトの数々をミニチュアで再現した。展示室全体として南極ビエンナーレの過去、現在、未来を示すというコンセプトである。
 
 
「大地の芸術祭」のオープニングの翌日には、南極ビエンナーレに参加した哲学者アレクサンドル・セカツキーらも招いてシンポジウムが開催された。シンポジウム終了後には、五十嵐靖晃が南極と新潟に寄せて雪の結晶をかたどって作った新しい凧を、皆で小学校の校庭で上げるパフォーマンスをした。南極と妻有を結ぶ雪の結晶の凧は、夕暮れの室野の美しい空に高く上がっていった。
 
【図18】シンポジウム「南極の人文学的諸問題」2018年7月30日、奴奈川キャンパス 大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレ2018 撮影=Marina Moskalenko
 

【図19】五十嵐靖晃の凧を皆で上げる。2018年7月30日、奴奈川キャンパス 大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレ2018 撮影=鴻野わか菜
 

 さて、南極ビエンナーレでも、越後妻有での展示でも、結局、私自身は何一つ生み出さず、作家の希望を聞き、調整し、手配し、テクストや音声を翻訳し、展示資料を書くなど、裏方の仕事に徹していた。私のようなタイプの現代美術研究者は、マラソンにたとえていうなら、作家と共に走る伴走者のようなものだと思う。歩道から見守ったり声援を送ったりするだけではいられずに、「同時代」という名の同じコースを共に走り、苦労や喜びや風や光を共有する。
 
 
 だが、伴走ということ自体、本当はまったくおこがましい考え方で、伴走することでアーティストに言葉なり共感なり何かささやかなものを提供したいと願っても、結局は千倍も一万倍も素晴らしいものを相手から贈られてしまう。芸術家は美や幸福を無心に贈り続けるので、勇気づけられているのは間違いなく私の方である。

 南極ビエンナーレでポノマリョフは、「イルカや魚のための芸術だ」と言って、輝く球体を海中に沈めたが、私などは、気ままに自分の海を泳いでいたら、どこからか輝く球体が降りてきて、この美しいものは一体何だろうと目を見張っている魚のようなものだ。
 
 
 南極ビエンナーレに誘われて以来、そこで自分が何ができるのかについて思い悩んできた。南極は、まるでアンドレイ・タルコフスキーの映画『ストーカー』における「ゾーン」のような、自分の真の願いとは何かを強制的に考えさせる極限的な世界だった。だが、南極と新潟への旅で得た答えは、雪の白さのようにとても素朴なものだった。

 芸術を通じて他者と苦しみや喜びを共有し、それを生きる力へと変えていくこと。そこで誰よりも救われるのはいつも自分自身なのだが、そのための場を作って分かち合うこと。

 今後も、たとえ都会のアスファルトの上でも、目を閉じて足の下を意識すれば遥かかなたに南極の海と白い空間が広がっているという感覚、南極で感じた「世界は1つの海でつながっている」という感覚を胸に、芸術を通じて世界を1つにする南極ビエンナーレ的な運動に関わっていきたいと思う。
 
 
 資金面の問題はいつも難しいので、第2回南極ビエンナーレが、ポノマリョフの希望どおりに2019年の秋から2020年の春(この期間は南極の夏にあたる)のあいだに開催できるかどうかは、まだ分からない。それに、私自身はその時期にふたたび3週間も日本を不在にできそうになく、第2回南極ビエンナーレへの招待を一度は受けたものの、この夏、ポノマリョフ達に会って一旦断ってしまった。
 
 
 だが、南極への航海は、南極ビエンナーレの鍵となる出来事であるものの、決してそれは南極ビエンナーレの本質ではない。それまで縁のなかった多様な人々が芸術を通じて出会い、結びつき、共通の運命としての地球や世界について考えるための機構を作ることが南極ビエンナーレの本質であるなら、南極ビエンナーレから帰ってきたメンバーが、あるいは南極ビエンナーレ的な理念に共感する人が、それぞれの場所で続けていけることがあるはずだ。

【図20】グスタフ・ドゥージング《固体の状態—凍った綿のテント》 撮影=鴻野わか菜
 

 南極ビエンナーレは、ヴェネツィアやモスクワなどですでにフォーラムを行い、今冬から来年にかけてポンピドゥー・センターやウィーンでシンポジウムを予定し、モスクワでは映画上映も準備しているが、今後は、南極ビエンナーレ単独の催しや展覧会を開くだけではなく、「大地の芸術祭」での経験も活かして、他の芸術祭や団体と連携することも、もっと積極的に行っていくべきだと思う。

 南極ビエンナーレにとっては、たとえば、国際交流、地域振興、科学と芸術の融合、現代美術、探検、ユートピア、宇宙開発、環境問題などをテーマにした各種シンポジウムやフォーラムに参加し、多様な分野の人々と連携を強めていくことは、超国家性、協働、学際性、対話という理念のもとに、より良き世界の実現を他者と連携して目指していくために重要なことだ。その意味で、2018年2月に渋谷ヒカリエで、感動創造研究所主催フォーラム「アートプロジェクトと感動」にポノマリョフと共に呼んでいただいたのも、とても貴重な機会だった★3

 だから、もし、拙文を読んでくださった方の中でも、南極ビエンナーレとの何らかの連携を検討してくださる方がいれば大変有り難いし、互いの経験を分かち合って話し合いたいと思う。そういった方々と「1つの船」に同乗し、人と人、国と国を隔てている「海峡」の荒波を、力を合わせて乗り越えていきたい。

【図21】南極の夜明け 撮影=鴻野わか菜
 

★1 南極ビエンナーレの概要については以下のサイトに詳しい。
URL= http://www.antarcticbiennale.com/
★2 五十嵐靖晃「“Bundling Time” / 時を束ねる」。
URL = >http://blog.igayasu.com/2017/03/bundling-time-%E6%99%82%E3%82%92%E6%9D%9F%E3%81%AD%E3%82%8B/
★3 感動創造研究所主催フォーラム「アートプロジェクトと感動」。
URL= https://www.facebook.com/events/304860496585117/

鴻野わか菜

1973年生まれ。早稲田大学教育・総合科学学術院准教授。共著に『イリヤ・カバコフ「世界図鑑」絵本と原画』(東京新聞)、『都市と芸術の「ロシア」 ペテルブルク、モスクワ、オデッサ巡遊』(水声社)、訳書にレオニート・チシコフ『かぜをひいたおつきさま』(徳間書店)、『「幻のロシア絵本」復刻シリーズ』(淡交社)など。
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