反復性と追体験――触視的メディアとしてのゲーム/アニメーション(前篇)|土居伸彰+吉田寛+東浩紀

初出:2018年12月28日刊行『ゲンロンβ32』

「メタゲーム」の諸相


東浩紀 本日はアニメーション研究者で配給会社ニューディアー代表でもある土居伸彰さん、ゲーム研究者の吉田寛さんをお迎えし、「ゲーム的リアリズムとアニメーション」をテーマにお話をうかがいます。先日刊行した『ゲンロン8 ゲームの時代』を補完し、発展させるような議論ができればと思っています。まずはおふたりにプレゼンテーションをしていただいたのち、それをもとに討議を行っていきたいと思います。さっそく、吉田さんの発表から始めていただきましょう。

吉田寛 よろしくお願いいたします。今回のプレゼンテーションでは『ゲンロン8』に寄稿した「メタゲーム的リアリズム――批評的プラットフォームとしてのデジタルゲーム」をベースとしながら、そこで書き残したことを扱います。
 その論考でわたしは「ゲームはつねにメタ化する」と主張しました★1。ゲームにはメタレベルの要素、ゲームというジャンルそのものに対する批評的視点がしばしば見られます。論考では取り上げませんでしたが、その発想の出発点はアラン・ケイの「メタメディア」というアイデアにありました。彼は一九七七年の論文「パーソナル・ダイナミック・メディア」でコンピュータを「メタメディア」と呼びました。コンピュータは既存のすべてのメディアを代替できる、つまり本にもレコードにもテレビにもなりうる、という意味です。これは逆に言えば、コンピュータ以降、あらたなメディアは登場しない、ということをも含意しますが、それについては賛否が分かれます。
 わたしは、このケイの主張がデジタルゲームを理解するうえでたいへん重要だと感じており、ゲームに現れるさまざまなメタ化を網羅的に考察しようとした動機も、そこにありました。ちなみに、東さんも『ゲンロンβ』の連載「観光客の哲学の余白に」で「触視的平面」の議論を展開するなかで、ケイの思想に触れていますね。注目している点はわたしとはちがいますが、興味深い偶然の一致だと思いました。今日はその話もできたらと思います。

【図1】吉田寛

 さて、ゲームにおけるメタ化の話の導入として、まずはわたしが最近興味を持っている「エミュレーション」と「ゲーム内ゲーム」というふたつの事例を紹介します。
 ひとつ目のエミュレーションとは、あるハードウェア(コンピュータやコンソール)のために開発されたソフトウェアを別のハードウェアで動かす技術です。通常は、新しいハードウェアで、古いソフトウェアを動かすことを指します。Windowsの上でPC-8801のプログラムを動かしたり、Wiiの上でファミコンのゲームを動かしたりするのに、エミュレーションの技術が用いられます。また、エミュレーションと似たものに、リプログラミングがあります。昔のソフトウェアを最新のハードウェアで再現するために、一からプログラミングし直す手法です。単にリメイクと呼ばれたりもします。
 このように、エミュレーションもリメイクも、新しいハードウェアで古いゲームを遊ぶための技術です。ソフトウェアの資産を次世代に継承しようとするのは、自然な発想です。ところが、ここ数年、「ディメイク」という、一見すると奇妙な現象が起きています。リメイクが、古いソフトウェアを新しいハードウェアのためにアップグレードすることであるのに対して、ディメイクは、新しいハードウェア用のソフトウェアをまるで古いハードウェアで動いているかのように、わざわざローテクを使って、いわばダウングレードさせることを指します。
 具体的な事例に『タイニーゼビウスmkⅡ』(電波新聞社/ナムコ、一九八四年)があります。『タイニーゼビウスmkⅡ』とは、アーケードゲームの『ゼビウス』(ナムコ、一九八三年)を、家庭でもプレイできるように、PC-6001mkⅡという当時普及していたパーソナルコンピュータに移植したものです。いまでは想像できませんが、当時のパソコンには共通のOSといったものはなく、機種ごとにそれぞれちがうコードでプログラムが組まれていました。『ゼビウス』はたいへん人気があったゲームなので、ほとんどのパソコンに移植されており、見かけも内容もすこしずつ異なる『ゼビウス』が、一〇種類以上も出ていたのです。もちろん、「本物」――アーケード版――にはとても及びませんが、できるだけそれに近づけるように、プログラマーは工夫をこらしていました。その結果『ゼビウス』は、各パソコンの性能を示し、他機種と比較するための、ベンチマークソフトのような機能すら果たしていました。『タイニーゼビウスmkⅡ』もそのひとつでした。
 さて『タイニーゼビウスmkⅡ』は、『ゼビウス』の移植版というより、限られたスペック内で、なんとか「ゼビウスっぽいもの」を実現しようとした、今日から見れば、きわめて精度の低いリメイクです。ところが、それから三〇年近く経ったあとに、ニンテンドーDSの『プチコン』(スマイルブーム、二〇一一年)というベーシックでプログラムが組めるソフトを使って、この『タイニーゼビウスmkⅡ』をそっくりそのまま再現するユーザーが現れました。『タイニーゼビウスmkⅡ』のプログラムは、ベーシックではなく機械語で作られていましたが、ニンテンドーDS版『プチコン』という、いわば最新の開発環境が、それをベーシックでリプログラミングすることを可能にしたわけです。
 この事例には、リメイクとディメイクが入り混じっています。アーケードゲームの『ゼビウス』を「不完全にリメイク」したパソコンゲーム『タイニーゼビウスmkⅡ』を、三〇年後に、ニンテンドーDS上でベーシックを使って「ほぼ完璧にリプログラミング」する。メディアによる別のメディアの模倣が、錯綜した入れ子構造をなしています。ここには、ゲームの技術やメディアに対するすぐれて批評的な態度があるとわたしは感じています。デジタルゲームの文化は今日、こうした現象まで生み出しているのです。
 もうひとつの関心は「ゲーム内ゲーム」、つまり「ゲームのなかでゲームをする」とはどういうことか、という問題です。これに関してはおふたりに、「アニメーションのなかでアニメーションを見ることが可能か」という論点として、あとでもういちどお聞きしたいと思いますが、ゲームのなかで別のゲームをすることはふつうに見られます。たとえば『どうぶつの森』(任天堂、二〇〇一年)では、ゲーム内で「ファミコン家具」というアイテムを入手すると、じっさいに八〇年代当時の画面でファミコンのゲームがプレイできる。これは、さきほど述べたエミュレーションの技術で実現されています。ゲームのなかで別のゲームがプレイできる。NINTENDO64でファミコンがふつうに遊べるわけです。おもしろいですよね。お得なかんじもします。メタな現象であるはずのエミュレーションが、ゲームの世界のなかに、ごく自然に取り込まれて、ふつうに遊ばれているわけです。
 こうした「ゲーム内ゲーム」の初期の例に、『シェンムー 一章 横須賀』(セガ、一九九九年)があります。このゲームの世界内には「ゲームセンター」があり、プレイヤーはそこで『スペースハリアー』(一九八五年)というセガの往年の名作を遊ぶことができる。こうした「ゲーム内ゲームセンター」の源流は『さんまの名探偵』(ナムコ、一九八七年)にあります。このゲーム内のゲームセンターでは「ギャラクシガニ」というゲームが遊べますが、これは同じナムコの『ギャラクシアン』(一九七九年)のパロディーです。ゲームのなかで過去のゲームをパロディー化してプレイヤーに遊ばせる。これは、デジタルゲームの文化ならではの批評的実践と言えるでしょう。
 わたしは、こうした「エミュレーション」や「ゲーム内ゲーム」を、ジェイ・デイヴィッド・ボルターとリチャード・グルーシンが「リメディエーション」――「あるメディアを別のメディアの中に表象すること」と定義されます――と呼んだ現象★2の、特殊な形態として捉えています。ボルターとグルーシンは、異なるメディア間のリメディエーションを考察しましたが、いまわれわれが見ている事例は、デジタルゲームという同一のメディア内で生起しているリメディエーションです。デジタルゲームは、つねにそれ自体の過去をリメディエイト(再媒介)しながら発展している、それを可能にしているのがコンピュータというメタメディアである、というのがわたしの捉え方です。また、デジタルか否かを問わず、あらゆるゲームはその周囲に「メタゲーム」を生み出す、というわたしが論考で提起した観点も、ここに重なってきます。わたしの関心はそうしたメタ化するゲームの創造性や批評性にあります。


★1 吉田寛「メタゲーム的リアリズム――批評的プラットフォームとしてのデジタルゲーム」、東浩紀編『ゲンロン8 ゲームの時代』、ゲンロン、二〇一八年、七六−九八頁。この論考で吉田は、ゲームプレイにおける「メタレプシス」(語りの境界侵犯)の分析や「ゲームの自己否定」である「ノットゲーム」の紹介を通して、ゲームプレイやゲームそのものが本質的に持つメタ化の機能=「メタゲーム」の機能を考察している。
★2 Jay David Bolter, Richard Grusin. Remediation: Understanding New Media. The MIT Press, 1999.



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