ここに公開するのは、『新対話篇』に収録された國分功一郎氏と東浩紀の対談「正義は剰余から生まれる」の前半部分です。トランプが大統領になり、ブレグジットが可決され、フェイクニュースが横行する時代に、哲学は社会と結びつくことができるのか。前篇の最後で提示された「ジャスティス」と「コレクトネス」の区別は、対談の後半でさらに展開されています。
『新対話篇』には本対談以外にも、各分野の第一人者との対話が数多く収録されています。本記事の最後に目次を付しております。ぜひ『新対話篇』をお手に取ってください。(編集部)
東浩紀 本日は「いま哲学の場所はどこにあるのか」と題して、哲学者の國分功一郎さんとともに、これからの哲学の役割とはなにかについて考えたいと思います。今年(2017年)はぼくの『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)や國分さんの『中動態の世界』(医学書院)が話題となり、千葉雅也さんの『勉強の哲学』(文藝春秋)もベストセラーとなるなど、人文書ブームが起きました。このブームがなぜ起こったのか、哲学はいまの社会に必要とされているのか、そしてこれからのぼくたちの仕事はどうあるべきか、いろいろと議論できればと考えています。
國分功一郎 よろしくお願いします。
現代思想と政治の問題
東 今回の議論の出発点として、まずは現代思想と政治という論点を取り上げたいと思います。というのも、近刊の『ゲンロン7』(ゲンロン、2017年)に掲載されているぼくと國分さんと千葉さんの鼎談「接続、切断、誤配」で、積み残しになっていたのが政治の問題なんです。
ぼくたちが学んできたいわゆる「フランス現代思想」、おおざっぱにポストモダニズムと呼んでいいと思いますが、それは「主体」「国家」「責任」などを疑うものです。しかし、そのような懐疑では世の中を変えられず、90年代後半以降、思想界でも「主体」や「責任」といったものが回帰してきた。これは一般的には、ポストモダニズムの時代が終わってアイデンティティ・ポリティクスの時代が来た、とまとめられますが、身も蓋もなく言えばポストモダンの哲学が政治に使えなかったということです。
このような素朴な議論に回帰した90年代以降の思想状況に対して、國分さんの「中動態」、ぼくの「観光客」、千葉さんの「勉強」といった概念は、ポストモダンの哲学を新しく捉え返すようなものとして出されています。では、それを使ってどんな新しい政治的なアクションを起こせるのか。そのビジョンが見えないかぎり、いくら本が話題になっても、哲学は結局は政治に敗北することになると思うのですね。この隘路を逃れるためにはどうしたらいいのか。そういうことがいま哲学に突きつけられていると思うのですが、いかがでしょうか。
1974年生まれ。哲学者。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。現在、東京大学総合文化研究科・教養学部准教授。著書に『スピノザの方法』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学』(太田出版)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)『原子力時代における哲学』(晶文社)など。
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(1998年、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(2001年)、『クォンタム・ファミリーズ』(2009年、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(2011年)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017年、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(2019年)、『テーマパーク化する地球』(2019年)ほか多数。