世界は五反田から始まった(02)「逓信病院」|星野博美

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初出:2019年02月22日刊行『ゲンロンβ34』

 1月30日、両親を車に乗せて五反田までひとっ走りした。目的地は東五反田5丁目にあるNTT東日本関東病院(以下、NTT病院と略す)。走る道路は、相変わらず中原街道と桜田通り。うちからは右折2回、左折1回で着く。

 両親はこの病院の常連で、特に父は、「姿が見えない時はNTT病院を疑え」というくらいの頻度で通う。私も、2年に1度の胃カメラはここで飲んでいる。

 ちょうど1年前、真冬の深夜に父が低体温症になって倒れた。その時も、首都高速と中原街道が交差するところに建つ消防署から救急車が出動して、あらゆる臓器のカルテが揃ったNTT病院に救急搬送してくれ、事なきを得た(3週間の入院は余儀なくされたものの)。中原街道と桜田通りは、うちの家族の生命道路でもある。

 それほど家族の生命を握るNTT病院であるが、実はさほど長い付き合いではない。「NTT」が冠に付くことから想像できるように、ここの前身は旧逓信系、つまり旧郵政省が職員と家族の診療のため、昭和26(1951)年に開設した関東逓信病院だ。「近所にあるのに、庶民は診てもらえなかった」とは母の弁である。

 それが電電公社の民営化、そしてNTTの再編成に伴い、平成11(1999)年、NTT東日本関東病院として生まれ変わった。界隈の人々にとっては、「診てもらえなかった」敷居の高い病院が一般開放されたことになる。それまで旗の台にある昭和大学病院──祖母はそこの常連だった──へ行くことの多かった界隈住民は、NTTの、いわば改革開放政策に喜んだ。両親がこの病院へ行くたび、今日は待合室で誰と会った、誰を見かけた、誰がここに入院したらしい、と言うところを見ると、近所の人たちの相当数が五反田へ鞍替えしたようだ。

 この病院が客観的に優れているのか、そうでないのか、私にはよくわからない。少なくとも両親がこの病院を選ぶのは、そこそこ近く、そこそこよい総合病院という、実に「そこそこ」な理由による。別に社会にとっての重要人物でもあるまいし、高望みをして名医のいる有名病院へ行くつもりもない。車で送り迎えをする私にとっても、近いが1番である。

 界隈住民のNTT病院贔屓には、もう1つの理由がある、と私は見ている。

 美智子妃の存在感だ。

 


 美智子妃が輿入れするまで暮らした旧正田邸──家屋は取り壊され、現在は「ねむの木の庭」となっている──は、NTT病院から坂を上ったエリアにある。正田美智子さんの輿入れが決まった頃、ほぼ同世代である父は、何度も家を見に行ったそうだ。

 旧正田邸やNTT病院のある東五反田5丁目は、かつて備前岡山藩主・池田家の屋敷があったところで、いまも池田山と呼ばれる、都区内有数の高級住宅地だ。碁盤の目のように道路が整備され、豪邸の前にはよく黒塗りのハイヤーが横づけされている。

 しかし「山」なので、当然ながら坂がきつく、五反田駅から行けば、ひたすら山登りをする感じになる。また地価が高いため、周囲にコンビニや商店の類がほとんどない。ケアマネージャーとして長らくこの地域を担当した母の友人によれば、「使用人が買い物に行ってくれることが前提」「車がなければ生活できない」「足腰の弱った年寄りには地獄のような場所」だという。おおむね同意する。金持ちも辛いのだ。ここも世代交代で屋敷を手放す人が増え、高級マンションが増えた。

 そしてNTT病院は坂を下りきったところ、つまり谷底に位置している。病院のエントランスに面した道路の向こう、つまり谷側は東五反田四丁目で、小さな民家があちこちの方向を向きながらひしめきあっている。白金と同じく、ここも高台と谷では、まったく別の世界が広がっているのだ。

池田山に位置するNTT東日本関東病院 撮影=編集部
 

 余談だが3年前、かなり久しぶりの中高の同窓会があり、怖いもの見たさで出席したことがある。友達だった記憶は1度もなく、どちらかといえば仮想敵に近い存在だった東京西部出身の同級生が近寄ってきて、私の家の「割と近く」に越したので、「いつか戸越銀座に行ってみたいの!」と言った。

 「割と近く」という微妙な言い回しに、私は即座に反応した。これは、物理的には近いが精神的にはものすごい距離がある、という感情の、彼女らしい吐露ではないだろうか。「もしかして池田山?」と尋ねると、彼女が「すごい! なんでわかっちゃうかなあ」とケラケラ笑いながら言ったので、軽い殺意を覚えたものである。

 父の入院中、病院のレストランでこんな光景も目にしたこともある。

 昼時。見た目のよい、裕福そうな若い女性たちがブランド物のベビーカーを押し、テラスの向こうから続々と集結してきてレストランに入り、盛大なランチ会を始めた。病院内のレストランの客層は、食事制限の厳しくない入院患者やその家族、見舞客、外来で診療に来た人たちがメインで、多かれ少なかれ、ハッピーではない事情でここに来ている。その中で彼女たちが放出し、誇示する多幸感のようなものは、場違いを通り越して異様ですらあった。

 彼女たちは、池田山に新しく建設されたマンションあたりに住み、しかし地価の高い山の上には飲食店がないため、この病院まで下りてきたのだろうか。それとも、山の住人ではないが「池田山に住む私」を演出するため、わざわざここへやって来たのか。どことなく後者のように見えたが、多幸感の誇示は、せめて山の上でやろうな。

 


 前置きが大変長くなったが、私がこの病院に執着する理由は、実はもう1つある。

 私が祖父の足跡を調べたいと思い始めたのは、2007年2月、16年近くにわたる中央線沿線での暮らしを断念して戸越銀座に戻った頃のことだった。それまで離れたい一心だった故郷を客観視するようになり、やみくもに界隈を散歩しては、「なぜここが自分の故郷なのか」と考え始めていた。

 こういう時、生きた歴史の証人であるはずの父の記憶は、あまり頼りにならない。だいたい、自分が実は五反田生まれで、3歳で戸越銀座に引っ越したことを、私に指摘されるまで忘れていたくらいなのだから。しかも後に判明するのだが、3歳まで住んだ借家というのが、なんとゲンロンカフェのすぐ近くの川沿いにあった。そんな忘れっぽさを軽く非難するたび、「おまえら育てるのに必死だったんだ!」と逆襲される。

 そういうことに、私はいちいち驚かない。必死に働いて生きてきた人というのは、過去をあまり覚えていないものだ。香港の人たちがそうだった。自分や親がいつ川を泳いで香港に渡ってきたか、親の誕生日や没年、死因など、きれいさっぱり忘れている人の、なんと多かったことか。しまいには「過去を覚えているのは、暇人だけだ」と、逆にこちらが笑われ、「代わりに君が覚えておいてくれ」と丸投げされる始末。父の反応とまったく同じなのである。

 懸命に生きてきた人が過去を振り返り始めるのは、死が射程に入った時、と相場が決まっている。祖父が手記を書き残したのも、癌を患い、残された時間が少なくなったからだった。

 そんなわけで、手記をもとに、祖父の五反田界隈での足跡を調べ始めたのだった。

 大正5(1916)年、13歳で上京し、芝白金三光町で丁稚を始めた祖父は、3年ほどそこで働いたあと、粉塵舞い散る劣悪な環境で肺浸潤(はいしんじゅん)を患い、半年ほど千葉で入院生活を送った。この時、故郷の岩和田(いわわだ)ではなく千葉で入院したことは、16歳の祖父にとって吉と出た。大正7年から9年にかけて、日本中で世界感冒(スペイン風邪)が大流行し、岩和田でも多数の若者が亡くなったからだ。
 肺浸潤から復活した17歳の祖父は、再び五反田界隈に舞い戻る。


 私は大正九(一九二〇)年頃、五反田に下宿して近くの工場へ通って居た。五反田駅近くに福崎さんといふ家があった。主人は千葉県勝浦の料理屋の息子でした。おかみさんは岩和田、入宿(いれじゅく)の岩瀬家の方で、御夫妻とも面倒見の良い世話ずきの方でした。下宿代月一八円、若い者十人位居て大変な賑わいでした。


 ここの店子(たなこ)の過半数が、岩和田出身者だった。祖父が最初に芝白金三光町で勤めた工場の主も同郷出身者だった。1920年の時点ですでに、少なくない数の岩和田住民が白金、五反田界隈に集っていたことに、私は驚きを隠せなかった。いまでは想像もつかないが、約100年前、五反田にリトル岩和田があったのだ。

 その後は、古川にかかる天現寺橋近くの工場で働いてお金を貯め、いよいよ独立に向けて動き始めた。


 中々お金といふのはタマラないもので、四、五年働いて七百円ばかり貯金が出来たのです。昭和二年九月、いよいよ独立すべく準備を始めた。数年(かぞえどし)二十五才です。
 以前五反田に永く居たので五反田方面を物色し、下大崎の二階家を借りることにした。上八畳一間、下八畳と三畳の家です。下を全部コワシて工場にした。


 「五反田方面」なのに下大崎? 大崎という印象にだまされ、当初は大崎界隈ばかりを調べたのだが、どこにもそんな地名はなかった。下大崎は、すでに現存しない地名だった。

 いやいや、ちょっと待て……上大崎という地名なら現存する。目黒駅近くの庭園美術館、旧朝香宮邸のある一帯だ。この「上」と「下」には、なにやら階級社会の香りが漂っている。下大崎はきっと、上大崎からさほど遠くない場所にあるはずだ。そんな予感がして、図書館で昭和初期の五反田、目黒界隈の地図を調べてみた。

 あった……。上大崎の東、桜田通りの西に位置する細長いエリアが下大崎だった。おや、このあたりの地図にはなじみがある。下大崎は、NTT病院前に広がるゴチャゴチャした集落ではないか。

 私たちは、祖父が独立して初めて工場を構え、祖母との新婚生活を送った集落が目の前にあることも知らず、ずっとNTT病院に通っていたのである。

 そう知ってからというもの、私にはここが、祖父母に見守られた、大変縁起のよい病院に思え始めた。

 ここに来れば、きっとなんとかなる。

 そして、なんとかならない場合でも、もし自宅で死ぬことができないなら、この病院で死にたいと思っているのだ。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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