世界は五反田から始まった(03)「大五反田主義」|星野博美

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初出:2019年03月22日刊行『ゲンロンβ35』

 世界の中心に、自分は割といない。

 最近、そのことに気がついた。

 


 故郷と出身地の誤差は悩ましい問題である。個人的には、五反田・戸越銀座問題だ。

「故郷は?」と尋ねられたら、私は「五反田」と答えたくなる。祖父が独立して家庭を築いた、東京におけるファミリーの歴史の始まりが、東五反田の谷だからだ。しかし自分の出身地はあくまでも戸越銀座。この微妙な誤差に、ずっともやもやしたものを感じてきた。

 地方へ行き、東京出身だと言うと、次にはたいてい「東京のどこ?」と聞かれる。相手がどの程度東京に知識があるか判断がつきかねる時点で、あまり細かい地名を答えるのは、なんだか東京人の傲慢のように思え、できる限り大枠の地名で答えるように努めている。そんな時に使うのが「五反田(最も近いJR駅)」と「品川(行政区分と車のナンバー)」だ。五反田までの直線距離は1.5キロで、しかも品川区民なのだから、さほど罪のない誤差だろう。山手線を時計に見立てて六時半、と言ったりもする。

 ちなみに、外国人から尋ねられた場合は、ほぼ「品川」と答える。羽田空港から行ける最も近いメジャー駅が品川であるからだ。しかしこれも、羽田空港が台湾以外の地域へ国際線を飛ばすようになり、京浜急行が羽田空港へ空港行き路線を敷設してから、つまり割と最近の話だ。成田空港中心史観の時代に、品川は候補に上がらなかった。

 つまり私の出身地は、時代と、相手の持つ東京情報に照らし合わせて、微妙にゆらぎ続けてきたことになる。

 ところが合宿免許のため五島の福江島に滞在していた時、思わぬ事態が起きた。質問者(福江島民)が五反田と品川という地名にまったく無反応だったため、仕方なく戸越銀座の地名を出したところ、「それなら知ってる。テレビでよく出るところでしょ」と言われたのだ。

 五反田や品川より戸越銀座の知名度が一部で高くなるとは、大袈裟でもなんでもなく、私の世界観の根幹を揺るがす事態だった。戸越銀座は、五反田という太陽にまとわりつく、一衛星に過ぎない。その立場を忘れたら、戸越銀座には無軌道になる運命が待ちかまえている。現に私は、いまの戸越銀座に対して大いなる不満を抱いているが、その話はまた追って書くだろう。

 


 独立して新婚生活を始めた貸家兼工場が手狭になった祖父は、東五反田の谷(当時の地名は下大崎)を出て、桜田通りを南下した。そして父が誕生した昭和8(1933)年には、目黒川沿いの西五反田にいた。前稿で書いた通り、ゲンロンカフェすぐ近くの川沿いである。谷からは脱出したものの、またもや低い土地だった。

 そこも手狭になり、祖父は「お得意さんの多い五反田に近」く、「大通りに近い」という条件で物件を探し、さらに南進した。当時は、出来上がった製品──主に真鍮製のネジ──を木箱に詰め、大八車に積んでお得意さんの工場まで運んだ。大量の金属を載せた大八車を運ぶという重労働を念頭に置けば、好こうが嫌おうが、五反田から遠く離れるという選択肢はありえなかったに違いない。

 そして探しあてたのが、中原街道に近い、現在私が暮らす戸越銀座の土地である。昭和11(1936)年のことだった。あくまで、五反田ありきの戸越銀座だったのである。五反田駅からの距離、1.5キロは犠牲になったが、その代わり海抜は20メートル近く上昇した。ようやく祖父は、低地から脱出したのだった。

 ゲンロンカフェに電車や地下鉄、その他の交通機関で来る人は、五反田の低さをあまり意識していないかもしれない。しかし私の体にはそれが、一つの恐怖としてしみついている。
 小学生の時、春闘の時期になると東急池上線がよくストライキを起こした。「線路には絶対に入らないこと」と学校ではきつく言い渡されるのが常だったが、子どもにとってストライキは、不可侵の領域に侵入できる、またとない冒険のチャンスである。私はクラスの男子二人とともに、五反田行きを決行したのだった。

 戸越銀座駅の地味なほうの踏切から出発した私たちは、土手に駆け上がって菜の花を摘んだり鼻歌を歌ったりして、まったく余裕しゃくしゃくだった。ところが桐ケ谷を越えたあたりから、次第に口数が少なくなった。これまで左右に広がっていた土手が姿を消し、いつの間にか視線が周囲の住宅の二階の位置になっていたからだ。

 私たちの目的は水平方向の移動であって、高度の上昇ではなかった。しかし登っているつもりなどないのに、周囲の風景は勝手にどんどん下がっていく。軽いパニックに陥った。

 大崎広小路駅まであと少し、という陸橋のところで腰がすくみ、私は枕木の上にしゃがみこんだ。もしいま電車が運行を再開したら、どこにも逃げられず、列車に轢かれるか、路上に転落する。これか、大人たちが禁じた理由は。要は、死ぬってことだ。あれほど線路に入るなと言われた意味が、ようやくわかった。

 「やめた」と言って四つん這いで後ずさりを始めると、「女は怖がりだな」と男子二人は毒づいて先へ進んだ。しかし、じきに戻ってきた。彼らも、恐怖で大崎広小路までたどり着けなかったのだ。ましてや、その先の五反田へは。

 「五反田は、死ぬほど低い」

 そう体に刻みこまれた。私たちにとってそれは単なる比喩ではなく、実体験を伴った恐怖だった。

 


 さて、昨年10月に所用でゲンロンカフェに行った際(厳密に言えば登壇した時)、興味深い事象が発生した。
 その日初めて会った対談相手のノンフィクション作家、広野真嗣さんと、登壇前に出身地の話になった。結論から先に言うと、広野さんは東京の代々木上原出身だった。しかし面白いことに、彼もまた私と同じようなゆらぎを抱えているらしく、最初は「渋谷」という行政区分で答えた。「渋谷のどのへん?」と尋ね、ようやく代々木上原という地名が登場したのである。

 つまりこの時点で、相手が東京の地理に詳しいことは判明したわけで、おそらく次に出身地を尋ねられるであろう自分としては、細かい地名で答えても失礼には当たらない、という心の準備ができた。この場合、私が答えるべき地名は戸越銀座一択のはずだった。

 案の定、広野さんは私の出身地を尋ねた。なんと、とっさに「五反田」と答えてしまった。

 ゲンロンカフェに来る人は五反田に関心があるはずだ。だったら五反田出身と称し、マウントをとってしまおう、という、姑息な計算が働いたのである。

 無意識のうちに、五反田ロンダリングをしてしまった! これは衝撃だった。ふだん白金ロンダリングや池田山ロンダリングを嘲笑してやまない自分が、まさかの五反田ロンダリングとは……。恥ずかしさでいっぱいになり、突然しどろもどろになった。「厳密には1.5キロ先の戸越銀座出身」と懺悔をしたかと思えば、「いや、でも幼稚園は西五反田だったから、嘘とは言えない」と言い訳をしてみたり、まったく醜態を晒したのだった。

 今後、人前でうろたえないためにも、五反田と戸越銀座のゆらぎ問題を解消したい、と強く思った。他人にとっては、どうでもいいことだろうが。

 


 コンパスをぐるぐる回しながら、地図を眺めた。自分が属する世界の基準道路が桜田通り・中原街道であることははっきりしている。しかし中心点をどこに置くかで迷った。

 まずは戸越銀座の家を中心点に置いてみた。即座に、強烈な違和感に見舞われた。

 私の世界はだいぶ五反田に引力を感じていて、五反田寄りの隣駅、大崎広小路にはシンパシーを感じるが、蒲田寄りの隣駅、荏原中延は「よその土地」という感覚があり、レーダーから外れてしまう。私の世界の限界線は、武蔵小山商店街の終点に近い、二十六号線なのだ(この話も、いずれまた書くだろう)。

 自分の世界の中心に、どうやら自分はいない。それどころか、自分は世界の端に住んでいるようだった。
 中心を先に決めようとするから迷うのだ、と考えなおし、次に外堀から攻めてみることにした。先に世界の終わりを設定して、そこから中心を算出しよう。南の限界線は、言うまでもなく26号線。北の限界地点は……覚林寺、通称清正公だ。北限と南限を決めたところで円を描いてみる。ちょうど五反田駅が中心あたりに収まった。

 ああ、これだ……自分の故郷域は。このレーダー範囲内だと「故郷」と感じ、距離が近くても域外だと「故郷」とは感じない。この円は、丁稚の頃に清正公で遊び、そして戸越銀座で死んだ、祖父の人生そのものだった。

 この円を客観的に表現できる言葉はないだろうか。ふと、ロンドンが頭をよぎった。なぜ好きでもないロンドンなのか、意味はよくわからないが、とにかくロンドンだ。

 大正期から昭和初期にかけ、五反田界隈の工場地帯に集まった労働者の人生範囲を、「大ロンドン」を真似して Greater Gotanda、訳して「大五反田」(通称GG)と勝手に命名することにした。誰も賛同してくれないかもしれないが。

大五反田の領域概略図(作成=編集部)
 

 大五反田の中心を成す五反田駅界隈をどう呼ぼう?これもロンドンの金融の中心である「シティ」にあやかり、Gotanda City、中国語風に意訳して「五反田中心」(通称GC)と命名する。

 たとえばこんな具合に使う。

 ゲンロンカフェは、大五反田の、しかも五反田中心にある。

 正田美智子さんは、天皇家に輿入れするまで、大五反田の五反田中心(山)に住んでいた。

 私の父は、大五反田の五反田中心(低地)の出身である。

 私の故郷は大五反田であるが、出身は領域最南端の戸越銀座である。

 大五反田概念の出現で、私のゆらぎはついに解消した。(つづく
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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