亡霊建築論(2) エイゼンシテインの『全線』とソフホーズの亡霊|本田晃子

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初出:2019年06月24日刊行『ゲンロンβ38』

はじめに


 1920年代のソ連において興隆したロシア構成主義建築が、アヴァンギャルド演劇の舞台美術に起源のひとつをもっていたことは、前回述べたとおりである。注意すべきは、アヴァンギャルド演劇の舞台美術は、現実を舞台の上に再現しようとする自然主義演劇の舞台美術に対する批判から生まれたという点だ。ゆえにアヴァンギャルドの演出家たちや美術家たちは、見せかけの現実を排除するために、現実の都市の広場や街路を舞台として用いたり、演劇空間の虚構性(約束事)を意図的に暴露するような演出を用いたりした。

 このような前衛演劇の理念は、もちろんソ連映画にも継承された。演出家フセヴォロド・メイエルホリドの教え子であったセルゲイ・エイゼンシテインをはじめ、ジガ・ヴェルトフやレフ・クレショフといった当時のソ連を代表する映画監督たちも、再現的なイメージを退けようとした。代わりに彼らが取り組んだのが、「ファクト」(事実)からなる映画である。彼らはスタジオのセットで本物らしい虚構の空間を作り出すことよりも、社会主義の建設の現場に赴き、ロケすることを好んだ。たとえば、ヴェルトフの『キノ・プラウダ』や『カメラを持った男』は、現実の都市やそこでの人びとの生活を切り取ったショットから構成されている。エイゼンシテインの『十月』では、実際に十月革命の舞台となったサンクト・ペテルブルクの冬宮前広場で、蜂起の様子の撮影が行われた。

 では、これらソ連映画と構成主義建築は、どのような関係にあったのだろうか。もし実現されていれば、ヴェスニン兄弟の《労働宮殿》のような建築物が、ソ連映画にとって理想的な舞台となったであろうことは間違いない。作り物のセットではなく、現実の都市空間における「革命」を撮影したいと熱望する映画監督にとって、構成主義建築はまさに願ったりかなったりだったはずだ。

 しかし残念なことに、映画と建築は、わずか数年の時間差ですれ違ってしまう。構成主義建築が本格的に出現しはじめた1930年代前半には、すでにエイゼンシテインらの映像の実験は、「フォルマリズム」(形式主義)として批判にさらされていた。同時に映画の撮影の舞台も、スタジオの外の世界からスタジオ内のセットへと回帰しようとしていた。

 そのような状況にあって幸運な例外となったのが、1929年に公開されたエイゼンシテインの『全線(古きものと新しきもの)』である。この作品の中には、非常に奇妙で、忘れがたい建築物が登場する。主人公の農婦マルファの夢の中に現れる、純白のソフホーズ【図1】だ。装飾をはぎ取られた幾何学的な輪郭、ガラスのはめ込まれた巨大な窓、細い柱で支えられたピロティ──典型的なモダニズム建築が、ロシアの農村の泥濘の中にまるで蜃気楼のように、あるいは亡霊のように、忽然と出現するのである。実は、このソフホーズのデザインの背後にいた建築家こそ、モダニズム建築の巨匠ル・コルビュジエに他ならない。この純白のソフホーズにおいて、エイゼンシテインとル・コルビュジエというモダニズムを代表する2つの才能が、交錯していたのである。

 けれども、なぜル・コルビュジエの建築が、突如ソ連映画のスクリーンに現れることになったのだろうか。そしてこのソフホーズは、いかにして本連載のテーマである「亡霊建築」になったのだろうか。

【図1】純白のソフホーズ

夢のソフホーズ


 まずは簡単にこの映画の製作された背景と、あらすじを確認しておきたい。

 セルゲイ・エイゼンシテインと、その弟子であり盟友でもあるグリゴリー・アレクサンドロフが『全線 Генеральная линия』の脚本の執筆にとりかかったのは、1926年5月だった★1。その背景には、当時のソ連の農業政策、すなわち農業の集団化・工業化の実現の大幅な遅れがあった。革命後のロシアでは、各地に農業協同組合(アルテリ)などの共同体が組織され、そこからさらに農地・家畜・農機具の共同利用を行う集団農場(コルホーズ)、国家が直接農民を雇用し、農業政策に即して生産を行う国営農場(ソフホーズ)へと、段階的に農業の集団化・工業化が進められる予定だった。しかし1926年になっても、コルホーズやソフホーズに所属する農業従事者の割合は、10パーセント未満にすぎなかった★2。このような状況に対し、エイゼンシテインらは映画を通じて人びとの注意をソ連農業の問題に向けさせることを宣言する。

 撮影は1926年に開始されたが、途中『十月』の製作のために一時中断され、その後脚本の修正を経て、1928年11月にクランクアップをむかえる。けれども翌29年より、ソ連では映画に対する検閲の強化がはじまった★3。『全線』も、一度は検閲をパスしたものの、その後不適切な表現が指摘され、追加撮影を余儀なくされる。さらにはタイトル『全線』にも物言いがつき★4、より抽象的で無難な『古きものと新しきもの Старое и новое』へと変更を余儀なくされた。こうして1929年10月7日、ようやく一般公開が開始された。

 最終的に採録された脚本では、物語は次のように進んでいく。

 主人公の貧しい農婦マルファ・ラプキナ(本物の農婦が本名で演じている)は、春になっても馬がいないために土地を耕すことができない。そこで彼女は、皆で団結して農作業を行うことを村人たちに訴える。だが彼女を待ち受けていたのは嘲笑だけだった。そんなとき、マルファの村にも共産党の農業委員がやってくる。農業委員の男(どことなくレーニンに似ている)は村人たちの前でコルホーズの開設を宣言し、手始めに村に牛乳分離機を導入する。分離機の奇跡のような威力を目の当たりにして、頑迷な農民たちも徐々に態度を軟化させ、コルホーズへ加入しはじめる。彼らは種牛となる子牛や農機具を共同で購入し、コルホーズを拡充していく。そして収穫の時期、コルホーズについに念願のトラクターが導入される。無数のトラクターが、整然と列を組んで畑を進み続ける場面で、物語は幕を下ろす。もちろん最後に登場するトラクターの隊列は、孤立し無力だった農民たちが集団へと組織され、科学技術の恩恵の下に社会主義へと邁進していく姿を象徴しているのである。

 問題となるソフホーズは、中盤の物語の転換点、本格的にコルホーズの発展がはじまる前の場面に登場する。農業委員の男の助けを借りて種牛を買うための資金を集め終えたマルファは、安心して金庫の上でうたた寝をはじめる。そして、ある夢を見る。

 彼女の夢の中には、まず雨雲に覆われた広大な草原と、牝牛たちの群れが現れる。ここではマルファの寝顔と牛たちの映像がクロスカットされることによって、後者はマルファの見ている夢の光景であることが示される。次に、牝牛たちの群れの上に、巨大な牡牛のイメージが二重投影される【図2】。これによって、牡牛(種牛)と牝牛たちの交わりが表現される。続く2種類のクロスカット──雨雲【図3】とシャワーのように降り注ぐ牛乳【図4】のイメージ、そして川と流れる牛乳のイメージ──は、孕んだ牝牛たちから雨のように流れ出た乳が、巨大な牛乳の川を作り出したことを表している。もちろんこれらのイメージから、ギリシャ神話のゼウスとダナエ(ゼウスは黄金の雨となってダナエと交わった)、あるいはゼウスとエウロパ(ゼウスは牡牛に化けてエウロパを攫った)の逸話や、聖書における乳の流れる「約束の地」などを連想することは可能だろう。しかしそのようなヨーロッパ文化のイメージの伝統は、次のオートメーション化された工場内で加工される牛乳のショット【図5】により、打ち砕かれる。
【図2】牝牛たちの群れの上に投影される牡牛
 

【図3】雨雲
 

【図4】シャワーのように降り注ぐ牛乳
 

【図5】工場内で加工される牛乳
 
 牛乳の加工の過程に続くのは、豚肉の加工の過程である。まず乳を飲む仔豚たちが示され、次に成長した豚たちが泳いで川を渡る光景が、最後に加工工場でこんがりローストされた豚たちの姿が描かれる。そして画面が切り替わると、白亜の巨大な建物が姿を現す。研究所のようにも見える★5この建物こそ、問題のソフホーズに他ならない。建物の周囲には、牛たちや牛乳の入ったタンクを運ぶ人びとの姿も見える【図6】。この時点になって、これまで見てきた牛乳や豚肉の加工は、このソフホーズの内部で行われていたことが判明するのである。

【図6】ソフホーズの周囲
 

 しかしさらに驚くべきは、このあとの展開だ。ソフホーズがさまざまな角度から映し出されたのち、突如として「みなさんは、もしかしてこれを夢だと思われるだろうか?」というテロップが画面に表示される。そして次のショットでは、うたた寝しているマルファではなく、笑顔で何かを見つめている様子のマルファが、クロースアップで映し出される【図7】。ついで「決してそうではない」というテロップが再度表示され、ソフホーズの牛舎の扉が開かれて、ソフホーズに子牛を引き取りに来たマルファと村人が登場する【図8】。

【図7】マルファのクロースアップ
 

【図8】ソフホーズの牛舎にやって来たマルファと村人
 

 ここではじめて、これまでの夢のようなソフホーズの光景は、夢ではなくマルファたちの生きる現実世界のものだったことが明らかになる。とりわけ夢オチ展開に慣れた現代の視聴者には、「実は夢だった!」ではなく「実は夢ではなかった!」というこの結末は、受け入れがたく感じられるだろう。実際に、最初のシナリオではマルファは夢から覚める予定だった★6。そして覚醒後、夢で見た未来を実現しようと努力するはずだった。けれども改定後のシナリオでは、マルファの目覚めの場面が省略されたことにより、夢の世界と現実世界がシームレスにつながっているのである。見方を変えれば、マルファは目覚めることなく夢の世界に留まり続けたといえるかもしれない。そのような意味で、この白亜のソフホーズは理想と現実、現在と未来が混交する、まさに白昼夢の空間なのである。

エイゼンシテイン/ル・コルビュジエ/ブーロフ


 このソフホーズと劇中の他の空間との間には、明らかな断絶が存在している。『全線』では、まずマルファの村の貧農のみすぼらしい農家【図9】と、それとは対照的な地主の農家【図10】が登場する。家畜と人が混じりあって暮らす貧農の原始的な家はもちろん、伝統的な木彫装飾で飾られた地主の家も、革命前の世界に属するものとして否定的に描かれている。村に最初に組織されたコルホーズの建物も、納屋のような粗末な木造建築だ。唯一ソフホーズの「同類」とみなすことのできる建築物があるとすれば、それはマルファが当時のウクライナの首都ハリコフに到着した場面に一瞬現れる、1928年に竣工したゴスプロムのオフィス・ビル【図11】(セットのように見えるかもしれないが、こちらは実在の建築物)である。とはいえ、基本的には広大な平原か、旧態依然とした農村の光景が続く中で、ソフホーズはそれらとは文字通り異なる次元──社会主義化された未来──に属する建築物として描かれている。

 しかしソフホーズの場面が撮影された1926年当時、ロシア構成主義建築は活動を開始したばかりで、いまだこれといった実作も存在しなかった。エイゼンシテインは、いったいどこからこのようなソフホーズのデザインを思いついたのか。ここで登場するのが、モダニズム建築の立役者、ル・コルビュジエである。

【図9】貧農のみすぼらしい農家
 

【図10】地主の農家
 

【図11】ゴスプロムのオフィス・ビル
 
 スイスのラ・ショー=ド=フォンに生まれたル・コルビュジエは、1920年よりパリに移動し、建築家として活動する一方で、画家のアメデ・オザンファンとともに雑誌『エスプリ・ヌーヴォー』を刊行していた。その誌面で、彼はガラスや鉄筋コンクリートといった新しい素材を用い、建築の構造と形態を合理化することを唱える。彼のこのようなモダニズムの思想は、1926年には「新しい建築の五原則」(ピロティ、自由な平面、自由な立面、水平連続窓、屋上庭園)へと結実していた。なお「五原則」の一部は、すでにラ・ロシュ=ジャン・ヌレ邸(1924年竣工)や国際装飾芸術博覧会のエスプリ・ヌーヴォー館(1925年竣工)などに部分的に反映されていたが、1931年に竣工するサヴォア邸【図12】において完成を見ることになる。『エスプリ・ヌーヴォー』に掲載されたこのようなル・コルビュジエの作品や思想は、ロシアでも雑誌『事物 Вещь』などを通してほとんど時差なしに紹介され★7、構成主義建築運動に多大な影響を与えた。エイゼンシテインもまた、『エスプリ・ヌーヴォー』誌や『事物』誌などに掲載されたこれらル・コルビュジエの記事に、注目していたと考えられる。

【図12】サヴォア邸(1931年竣工、フランス、ポワッシー)
 

 しかし、もちろんただの映画セットの設計のためだけに、フランスから建築家を招聘することはできない。そこで、いわばル・コルビュジエの代わりに白羽の矢が立ったのが、当時弱冠25歳の構成主義建築家、アンドレイ・ブーロフだった。ブーロフは師にあたるアレクサンドル・ヴェスニン同様、革命後に演劇に興味をもち、群集劇などの実験的な演劇に関わり、いくつかの劇場で舞台美術を担当していた★8。しかし彼が選ばれた第1の理由は、ル・コルビュジエの建築思想との「近さ」だった★9。師のヴェスニンを通じてル・コルビュジエの思想を知ったブーロフは、このフランス建築家に心酔し、彼の建築理論を熱心に研究していた。1928年にル・コルビュジエがモスクワの《ツェントロ・ソユーズ》ビルの設計のために訪ソした際には、ブーロフは通訳として彼に付き添い、エイゼンシテインにも引き合わせている。この時点では『全線』はいまだ完成していなかったが、ソフホーズの場面の試写を見たル・コルビュジエは大変感動し、「映画と建築は唯一の現代的芸術である」と述べたという★10。ちなみにこのときに撮影された写真には、エイゼンシテインとル・コルビュジエ、そして服装までル・コルビュジエ風にきめたブーロフの、ほほえましい姿が残っている【図13】。

【図13】訪ソ時のル・コルビュジエ(左)とエイゼンシュテイン(中央)、ブーロフ(右)
 

 けれどもエイゼンシテインは、ル・コルビュジエの建築の革新性を認めながらも、それをそのまま映画内で再現しようとはしなかった。この時期のル・コルビュジエは、住宅を「住むための機械 la machine à habiter」★11と呼んで、住宅も「住む」という目的に従って機械のように合理的に設計されるべきであると主張していた。だが挑発的に「機械」の比喩を用いながらも、ル・コルビュジエが設計していたのはあくまで富裕層の邸宅だった。それに対して、エイゼンシテインにとっての「機械」とは、何よりもまず工場労働とそこで働く労働者に属するものだった。そこでエイゼンシテイン=ブーロフは、『全線』においてソ連版「機械の家」、すなわち工業化されたソフホーズを作り出したのである。

ソフホーズの亡霊


 建築家であるブーロフが設計を担当したことによって、ソフホーズのセットは、ベニヤにペンキで塗装したものであるにもかかわらず、建築空間としての説得力をもっている。だが、いかにリアルであろうと、セットはセットである。現実の都市でロケを行ってきたエイゼンシテインや、群集劇など前衛演劇の理念に共感していたブーロフにとって、セットによって単に「本物らしい」虚構の空間を生み出すことは、自然主義的リアリズムへの後退以外のなにものでもなかった。では、彼らはどのようにして、このような大型セットの建設を正当化したのだろうか。

 後年ブーロフは、『全線』における自身の仕事を、次のように語っている。


 私の前に映画『全線』のソフホーズの設計という課題──この仕事のために私はエイゼンシテインに招かれたのだが──がもちあがったとき、私の仕事の出発点となったのは、それ自体が目的であるような書割的効果ではなく、工業化された農業の新たな方法や、新しい素材と構造から生まれた建築物そのものの姿を、映画を通じて生活へと導入したいという願いだった★12


 このようにブーロフは、「書割的効果」としてのセットを設計することを、明確に否定していた。それに代わって彼が強調するのが、現実のソヴィエト農業に対する模範としてのセットの役割である。エイゼンシテインの撮影スタッフの一員であったウラジーミル・ソレフも、「映画に対する《自然主義的アプローチ》によって、ベニヤ板のまがい物のソフホーズを建設することは、どうにも不安だった」が、「模範としてのソフホーズ」 を建設するというプロパガンダ的理念が、最終的にはそのような不安に打ち勝ったと述べている★13。このように、セットによって虚構の建築物を生み出すことは、現実を再現するのではなく、これから建設されるべき建築物のモデルを示すという理由によって正当化された。そして『全線』公開後、彼らの期待は実現する。劇中のソフホーズに感銘を受けた党の幹部から、ロストフ近郊の大規模ソフホーズ《穀物工場》の設計依頼が、ブーロフの元へ舞い込んだのである★14

 現実からスクリーン上へ、あるいはスクリーン上から現実へ──エイゼンシテインらは、このようなスクリーン上のイメージとその外部にある現実との直接的な関係こそが、一般的なフィクション映画に対する自分たちの映画の正当性と優越性の根拠であると考えていた。たとえば、1925年の第1次革命20周年記念式典では、『戦艦ポチョムキン』の上映が予定されていたが、そこでは最後にスクリーンを破って現実、すなわち革命によって生み出された人びとが姿を現すことになっていた★15。『全線』においても、まさにこうした依頼を通じて、スクリーン上のイメージはスクリーン内に自足することなく、その外部に越境する可能性を獲得したのだった。先のソレフは、ブーロフへの依頼を誇らしげに紹介し、「再現のために建設するのではなく、未来に向けて建設するという新しい映画セットの原理は、このようにして実際に是認されたのだ」★16と述べている。いわば現実のソフホーズの建設によって、虚構のソフホーズの建設が正当化されたのである。
 だが、ここで事態はもう一転する。ブーロフやソレフの期待にもかかわらず、《穀物工場》の計画は頓挫し、ブーロフのソフホーズはアンビルトに終わるのである。その後、ソフホーズの実現の企画が再びもちあがることはなかった。1930年代に入ると、「社会主義リアリズム」と呼ばれる建築様式がソ連の唯一の公式の様式の座に着き、モダニズム=構成主義の理念に基づいて公的施設を設計することは、実質的に不可能になっていったからだ。こうしてスクリーン上のソフホーズは、実体をもつことなく、今もなお映画というメディアの虚構空間に留まっているのである。

***



 セットが朽ち果てたのちも、映画のスクリーン上にイメージとして残存する『全線』のソフホーズの姿は、まさしく建築の亡霊であるといえよう。それは真新しい純白の姿のまま、しかし決して大地に根づくことなく、メディア上で無限に複製され、この普遍的な空間をさまよい続ける。もちろんエイゼンシテインやブーロフは、このソフホーズのイメージがソ連におけるソフホーズ建築の原型となって、メディア上ではなく現実の大地の上に複製されることを願っていた。その点は間違いない。しかし、思い出してほしい。マルファに夢見られたソフホーズの空間とは、夢のような現実、あるいは現実のような夢の空間であったことを。現実と夢が、あるいは現実とあるべき現実のイメージが入れ替えられた空間とは、実は1930年代に社会主義リアリズム芸術によって切り開かれる空間に他ならない。社会主義リアリズムは「リアリズム」を名乗ってこそいるが、現実を描くのではなく理想化された現実を、ただし写実的なタッチで描く、「イデアリズム」だった。ゆえに社会主義リアリズム芸術においては、イメージはどれほどリアルに見えても、非再現的なシミュラークルなのである。

 冒頭で述べたように、社会主義リアリズムの時代に、ソ連映画は実際の都市空間からスタジオ内のセットへと移行していった。そこではロケの方が容易な場合も、より完璧に統御された空間で撮影を行うためにセットが用いられた。こうしてセットで撮影された夢のような現実のイメージが、次第に現実の直接的な痕跡(インデックス)としてのイメージを駆逐し、スクリーンを覆っていったのである。このようにソ連映画の歴史から振り返ってみると、『全線』のソフホーズは2つの文化──アヴァンギャルド(モダニズム)と社会主義リアリズム──の分水嶺にあったと考えられる。エイゼンシテインやブーロフの意図に関わらず、理想的イメージこそが「現実」と呼ばれる社会主義リアリズムの倒錯した世界にあっては、イメージは自己完結しており、スクリーンを越境する動機をもたない。純白のソフホーズは、アンビルトであることによって至上の存在となりうる、次なる時代の入り口に立っていたのである。

【画像出典】

【図1】セルゲイ・エイゼンシュテイン、グリゴリー・アレクサンドロフ(監督・脚本)『全線(古きものと新しきもの)』(DVD)株式会社アイ・ヴィー・シー、2006年。許諾済み。
【図2】同上。
【図3】同上。
【図4】同上。
【図5】同上。
【図6】同上。
【図7】同上。
【図8】同上。
【図9】同上。
【図10】同上。
【図11】同上。
【図12】著者撮影(2016年9月)
【図13】Советский экран. 1928. No.46.

※『全線(古きものと新しきもの)』は現在アイ・ヴィー・シーよりDVDが発売中。定価3800円(税別)。

★1 Эйзенштейн С. Генеральная линия // Избранные произведения в шести томах. Т. 6. М., 1970. С. 531.
★2 1929年からは強制的な集団化が開始され、1930年には農業従事者の約半数がコルホーズに所属することになった。しかしこのような急速な集団化の結果、1932~1933年にはソ連全体で深刻な飢饉が発生した。James Goodwin, Eisenstein, Cinema, and History, University of Illinois Press, 1993, p.100.
★3 この検閲の強化により、1929年1月から4月までの間に上映禁止となった作品の割合は38%にのぼった(なお、前年に検閲によって上映が禁じられた作品の割合は3%だった)。この比率は1930年代になると5割程度まで上昇する。Goodwin, Eisenstein, Cinema, and History, p.146.
★4 直訳すると「基本方針」であり、一般的には第14回党大会のスターリン演説における、ソ連経済の自給自足化の方針を意味する。しかし、ソ連映画研究者のナウム・クレイマンによれば、『全線』における「基本方針」とは、レーニンによって定められた農業集団化の方針のことを意味していた。Клейман Н. Эйзенштейновские чтения // Киноведческие записки. No.89. 2009. С. 113.
★5 映画からはほとんど読み取れないが、実はこのソフホーズの原型のひとつに、モスクワ近郊アニコヴォの国立遺伝子研究所があった。修正前の脚本では、このソフホーズは遺伝子工学によって牛や豚といった生物を機械のように改良し大量生産する、「工場」として描かれることになっていた。Эйзенштейн С. Генеральная линия // Избранные произведения в шести томах. Т. 6. М., 1970. С. 95.
★6 Anne Nesbet, Savage Junctures: Sergei Eisenstein and the Shape of Thinking, I.B.Tauris, 2007, p. 106.
★7 エル・リシツキーとイリヤ・エルレンブルグによって1922年に創刊され、第3号にル・コルビュジエの論文「現代建築」、「量産された家屋」などが掲載された。ル・コルビュジエの論文は、モスクワ建築協会の機関誌『建築』や雑誌『芸術労働』などでも紹介されており、ソ連の前衛芸術家・建築家たちの注目を集めていた。とりわけ構成主義建築家たちはル・コルビュジエの建築理論を熱心に学んでおり、彼らの支持によってル・コルビュジエはモスクワの《ツェントロ・ソユーズ》コンペで優勝、モスクワの中心部にこの巨大なオフィス・ビルを実現する。Коэн, Жан-Луи. Ле Корбюзье и мистика СССР. Теории и проекты для Москвы 1928-1936. М., 2012. С. 36-37.
★8 Хан-Магомедов С. О. Андрей Буров. М., 2009. С. 44.
★9 Лис А. А. Андрей Буров и Сергей Эйзенштейн - архитектура ≪Генеральной линии≫ // Acta eruditorum. вып. 16. 2014. С. 82.
★10 В. С. Новая клиентура архитектура Ле Корбюзье // Советский экран. No.46. 1928. С. 5.
★11 ル・コルビュジエ-ソーニエ『建築へ』樋口清訳、中央公論美術出版、2011年、85頁。
★12 Буров А. Письма. Дневники. Беседы с аспирантами. Суждения современников. М., 1980. С. 6.
★13 В. С. Новая клиентура архитектура Ле Корбюзье. С. 5.
★14 Буров. Письма. С. 7.
★15 Клейман. Эйзенштейновские чтения. С. 104-105.
★16 В. С. Новая клиентура архитектура Ле Корбюзье. С. 5.

本田晃子

1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
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