観光客の哲学の余白に(16) ドストエフスキーとシミュラークル(前)|東浩紀

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初出:2019年09月27日刊行『ゲンロンβ41』

 ふと思い立ち、ドストエフスキーの「聖地巡礼」に出かけてきた。『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』の二つの長編が書かれた街を訪れたのである。それぞれの物語の舞台(正確には後者の場合はそのモデル)は、執筆当時ドストエフスキーが住んでいた街に設定されている。帝国時代の首都、サンクト・ペテルブルクと、そこから200キロほど南に離れたかつての保養地、スターラヤ・ルッサである。 

 ぼくは中学2年で『罪と罰』を読み、高校1年で『カラマーゾフの兄弟』を読み、けっしておおげさな表現ではなく、それぞれに人生を変えるほどの衝撃を受けた。それゆえ両者の世界についてはそれなりに考えてきたつもりだったが、やはり現地に行くといろいろと思いつく。 

 ドストエフスキーはおもにペテルブルクで活躍した作家である。そして彼が活躍したころ、この都市にはまだ150年ほどしか歴史がなかった。ペテルブルクは、18世紀のはじめにピョートル大帝が沼地のうえに建設した人工都市で、巨大な街路や寺院が帝国の威信をかけて整備された。有名なエルミタージュ美術館も、そうやって整備された宮殿のひとつである。 

 ペテルブルクには土着の歴史がない。緯度60度近い極北の地に唐突に現れたその街並みは、あまりにも非現実的で壮麗で、まるでディズニーランドのような「嘘くささ」を感じさせる。むろん、その嘘くささこそがいまでは世界中から人々を呼び寄せる観光資源になっているのだが(ペテルブルクの中心部はまるごと世界遺産に指定されている)、ドストエフスキーの時代には、その「嘘」はいっそう強烈で、そして政治的な意味をもっていただろう。広大なロシアの大地の、無数の農奴が苦しむ帝国の片隅に作られた、貴族たちが集まる西方(ヨーロッパ)向けのショーケースのような街で、ドストエフスキーは『貧しき人々』を書き、『地下室の手記』を書き、『罪と罰』を書いた。つまりは彼は、徹底して都市的で記号的で虚構的で、いまふうにいえば「シミュラークル」に満ちた世界で生きた作家だったのである。だからこそ、彼の小説の主人公は、いつも妄想気味で、過剰に観念的で空回りばかりしており、ナロード(民衆)や正教の力に脱出の可能性を見い出すほかなかった。

 ドストエフスキーは冬宮近くの都心に住んでいた。『罪と罰』も同じく都心を舞台にしている。ドストエフスキーの描写は具体的だったので、小説内で頭文字で示されていた街路や橋、ラスコーリニコフやソーニャや金貸し老婆といった登場人物が住んでいたアパート、マルメラードフの交通事故など主要な事件が起こった場所は、研究者によりほぼ特定されている。いまでは、それらをめぐるルートは観光客用に整備され、ラスコーリニコフのアパートには記念のプレートまで掲げられている。 

ペテルブルクのグリボエードフ運河(かつてのエカテリーナ運河)。『罪と罰』の舞台はこの運河の両岸に広がる。撮影場所はコクシュキン橋。小説冒頭に「K橋」として登場する。撮影=東浩紀
 

 『罪と罰』の舞台は、当時作家が住んでいたアパートから、半径ほぼ500メートル以内の小さな区域に収まっている。ラスコーリニコフのアパートから金貸し老婆のアパートまでの距離は、本誌読者にはわかるひとが多いと思うので記すと、ちょうど五反田のゲンロンカフェから島津山の麓のアトリエくらいまでの距離である。ソーニャのアパートもラスコーリニコフが出頭した警察署もそのあいだにある。舞台となった区域の中心には、目黒川ならぬ小さな運河が走っている。老婆のアパートはその運河に面して立っている。小説によれば、ラスコーリニコフが老婆を殺すとき、時間は午後7時半で、部屋は夕日に照らされていたはずだった。 

 『罪と罰』は7月の物語である。ぼくが訪れたのは9月のはじめで、日はかなり短くなっていた。それでも、ラスコーリニコフが殺人を犯したのとほぼ同時刻、アパートのまえに立って運河のほうを臨むと、そちらはたしかに西の方角で、空は残照で赤く染まっていた。 

 ぼくはその夕焼けを見て素直に感動した。それはラスコーリニコフが見た空と同じ空のはずだからだ。けれども、それはまた、どこか奇妙なむず痒さを引き起こす経験でもあった。 

 どういうことだろうか。繰り返すが、ドストエフスキーは、シミュラークルの世界に生き、同時にそこからの脱出を企てた作家だった。『罪と罰』はまさにその脱出を主題とした長編である。ラスコーリニコフは、正義や倫理について考えすぎた結果として、無意味な老婆殺しを犯してしまう。彼は観念の病を患っている。そして、ソーニャと出会い、ペテルブルクを離れシベリアに赴くことでその病から癒える。『罪と罰』は、ひとことでいえばそのような物語だ。

 けれども、その小説が出版された結果として、いま目のまえで展開している現実はなんだろうと、そのときのぼくはふと考えてしまったのだ。ラスコーリニコフは現実には存在しない。ソーニャも金貸し老婆も存在しない。それは虚構だけの存在である。にもかかわらず、それはいまではまるで実在の人物のような顔をして、現実の観光産業を駆動している。 

 さきほども記したように、『罪と罰』の「聖地巡礼」は、いまは主要な観光ルートに組み込まれている。ガイド付きのツアーも多数実施されている。ぼくはツアーには参加しなかったが、いくつものツアーグループとすれちがった。ロシア語を話す集団もいれば、英語を話す集団もいた。老婆のアパートの中庭(ラスコーリニコフが犯行直後にペンキ屋とすれちがう、あの決定的に重要な中庭だ)では、ロシア語でも英語でもない、南欧系のどこかの言葉を話す一〇人ほどの集団と出くわした。彼らの全員が『罪と罰』の熱心な読者だとは思えない。おそらく参加者のほとんどは、ドストエフスキーの作品など一冊も読んだことがない人々だろう。 

 それが悪いというわけではない。むしろ文学にとってはよいことかもしれない。ただその事実は、『罪と罰』の想像力が、いまのペテルブルクにおいては、実在する都市の風景をいわばテーマパークのアトラクションに変えてしまうものとして機能していることを意味している。 

 たとえば東京ディズニーシーには「海底2万マイル」というアトラクションがある。ジュール・ヴェルヌの同名の小説にアイデアを借りた、ライド型アトラクションである。参加者は小型の潜水艇に乗って海底に潜り、アトランティス文明の遺跡をめぐることになっているが、むろん現実には海底には潜らないし、遺跡も存在しない。その体験と、現実には存在しない人物の住居をめぐり、現実には起こらなかった犯罪の痕跡をめぐる「聖地巡礼」とのあいだに、いったいどれほどの差異があるだろうか。「海底2万マイル」の参加者がヴェルヌを読むことを期待されていないように、『罪と罰』のツアーの参加者もドストエフスキーを読むことを期待されていない。そして、後者のツアーにも「ライド」がある。ペテルブルクには運河が多数あるため、船での観光が発達している。そのいくつかのルートは『罪と罰』の街を通過する。ぼくがソーニャのアパートを訪れたとき(その建物もまた運河に面していた)、目のまえの水路をたまたま一艘のボートが通過した。満員の乗客は、ガイドの言葉にしたがっていっせいにスマホのカメラを掲げると、アパートを撮影してあっというまに去っていった。そのふるまいは、テーマパークのライドに乗った人々のふるまいとあまりに似ていた。テーマパークで、ぼくたちは偽物の城や偽物のジャングルや偽物の遺跡を喜んで写真を撮る。同じように彼らは(否、ぼくも)実在しない人物の家の写真を喜んで撮っていた。むろん、ペテルブルクはほんとうはテーマパークではない。ラスコーリニコフのアパートもソーニャのアパートも金貸し老婆のアパートも、すべて現実の建築で現実のアパートで、現実の人間が住んでいる。けれども、『罪と罰』の想像力を通過することで、それらはアトラクションのハリボテと同じものへと変えられてしまうのだ。

 これはとても皮肉なことである。なぜならば、ふたたび繰り返すが、ドストエフスキーはシミュラークルの世界に苦しみ、そこからの脱出を企てた作家でこそあったからだ。彼は、ペテルブルクというテーマパークに知的かつ政治的な限界を感じ、主人公をその虚構性から脱出させるためにこそ『罪と罰』を書いた。それなのに、その作品がいまペテルブルクを現実においてテーマパークに変えているのだとすれば、それはなにを意味するだろう。 

 ラスコーリニコフは、結局のところペテルブルクに負けたのだろうか。ぼくはこの問題について、スターラヤ・ルッサでまた別の角度から考えた。そちらは来月に書くことにしたい。

 
 

本連載は『ゲンロンα』への再掲にあたり番外編を含めて通し番号を振り直したため、初出時とはナンバリングが異なります。(編集部)

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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