哲学と世界を変えるには―石田英敬×ユク・ホイ×東浩紀|イベントレポート|伊勢康平(ゲンロン編集部)

初出:2019年09月27日刊行『ゲンロンβ41』

 東アジアの三人の哲学者が、通訳をまじえずに英語で議論をする。そんな日本ではかなり挑戦的と言えるイベントが、五反田のゲンロンカフェで開催された。二〇一九年八月二〇日、香港出身の哲学者であるユク・ホイ(許煜)を招き、石田英敬と東浩紀が彼を迎えるかたちで行なわれたトークショー “Is a Post-European Philosophy of/in Technology Possible?” である★1

 ぼくはゲンロン編集部に所属しており、中国近現代の思想や文学を研究するかたわら、ユク・ホイの『中国における技術への問い The Question Concerning Technology in China 』(二〇一六年)の全訳を仲山ひふみと進めている。また今回のイベントでは、ゲンロンのスタッフとしてユク・ホイとの連絡や一部広報などを担当した。本稿では、翻訳者でありゲンロンのスタッフでもあるぼくが、中国思想を学ぶ者の視点から見たイベントの模様をレポートしようと思う。

 ゲンロンカフェには、これまでも海外の思想家や作家が登壇してきたが、通訳をまじえないイベントは初めてである。なので運営側としてもどれほどの反響があるかまったく読めない状況だった。企画当初は、五〇人くらいの聴衆が会場に集まればよいのでは、というくらいの気持ちだったのである。だが蓋を開けてみれば、会場にはじつに七〇人あまりの聴衆が足を運び、しかも九割以上は日本人であった。さらに言えば、外国人でも日本語が堪能なひとが多く、結果として英語話者で日本語のできないユク・ホイがかえって圧倒的なマイノリティとなり、なぜか肩身のせまい思いをするという不思議な雰囲気のなかイベントは始まったのである。これはお呼びした側としてはやや想定外であり、申し訳ないことではあった。

 ユク・ホイはドイツに拠点を置く気鋭の哲学者である。著書『中国における技術への問い』の序論の翻訳が『ゲンロン』に掲載されたので、ご存じのかたも多いだろう★2。今回のイベントは、いま世界的に注目を集めるユク・ホイが新著『再帰性と偶然性 Recursivity and Contingency』(二〇一九年)の最後で提唱した「ポストヨーロッパ哲学」という概念をめぐって、『新記号論』の著者である石田・東両氏と討論するというものだ。『新記号論』のなかで、ふたりは二一世紀のメディア状況、とりわけ情報技術や認知科学の発展を視野に入れた新しい記号論の創造を試みており、今回もおのずと技術の哲学、また近代のテクノロジーと哲学の関係性にまつわる問いを中心に議論が展開されることとなった。

 イベントはモデレーターを務めた東による趣旨説明および石田によるユク・ホイの紹介に始まり、ユク・ホイと石田がそれぞれプレゼンを行なったあとで、三人によるディスカッションで締めるという流れで進行した。ユク・ホイの発表は、ポストヨーロッパ哲学という新しい用語の意味や可能性を起点とし、中国の技術哲学を通じて、彼の一貫したテーマである技術の多様性を問題とするもので、石田のプレゼンはおもに、『新記号論』でも主題的に論じられたあらたな一般記号学の見地から、ライプニッツを介して中国古代のメディアや記号システムを再解釈しながら、「デジタル的転回」というキーワードによってその変遷を論じるものであった★3。ここではふたりの論点をまとめつつ、両者のアプローチの関係性や、京都学派と新儒家といったトピックについて検討したい。

【図1】杭州でユク・ホイが開催したシンポジウムで出会ったという三人。石田と東は、東の学生時代以来およそ二〇年ぶりの再会であったという。

ポストヨーロッパ哲学はなぜそう呼ばれるか


 今回のイベントのタイトルの和訳は「テクノロジーの/におけるポストヨーロッパ哲学は可能なのか?」である。そもそも、ポストヨーロッパ哲学とはなんなのか。ユク・ホイはこの概念をハイデガーの議論から引き出している。

 ハイデガーによれば、西洋の形而上学は、存在 Sein の本質を忘却させ、それを存在者 Seiende の問いにすり変えてしまうという点で、科学やテクノロジーと本質的に共通している。近代のテクノロジーが西洋を超えて各文明へと拡大することは、すなわち西洋的な思考の形式が広がってゆくことと同義なのである。したがって、近代的なテクノロジーによって規定された均一的な世界文明が誕生するとき、世界は事実上、西洋の哲学によって支配されることになる。ハイデガーはこれを「哲学の終焉」と呼んだ。つまりここでハイデガーが言う終焉とは、死滅ではなく完成なのである。

 「哲学の終焉」とは西洋哲学の支配であり、ゆえにテクノロジーの支配である。この議論がもつ意義はじつに大きい。というのも、ユク・ホイが紹介したこのハイデガーの議論を受けて東が強調したように、これは西洋の文化的な支配が、本質的にテクノロジーによる統一的な支配でもあることを意味しているからだ。そうであるならば、西洋の文化的支配に抵抗するべくさまざまな地域がもつ文化の多様性に訴えかけることは、はなからまったく不十分だということになる。なぜなら、いくら文化が多様化したところで、技術による支配と均質化は依然として進行したままであるからだ。このようにして東は、技術的な思考を、果ては技術そのものを多様化すべきであるというユク・ホイの主張の重要性と必然性を説明する。

 続けてユク・ホイは、この「哲学の終焉」を決定づけているのは、ノーバート・ウィーナーによって提唱されたサイバネティクスであるというハイデガーの議論に言及する。サイバネティクスとは、情報通信による制御という観点から、生物や機械を統一的に認識することを目指した理論であり、そこでは必然的に機械と生物の対立は曖昧にされる。これに対して東は、機械論(機械)と有機体論(生物)の対立とは、言い換えればシステムと自由意志の対立であり、この二項対立こそが近代的な思考を特徴づけていたと指摘する。つまりサイバネティクスはそうした近代的な二項対立を乗り越える可能性をもつのである。他方、ユク・ホイは、ここでサイバネティクスがあくまで機械の理論であることに注意しなければならないと主張する。なぜなら、機械が生物の動きを取り込むことによって二項対立を乗り越えるということは、まさに機械を生みだす技術的思考によってすべてが統御されるということにほかならないからだ。ハイデガーは、一九六六年の『シュピーゲル』誌での対談において、哲学のあとに来るものはサイバネティクスだと述べているのだが、それはこうしたサイバネティクスの性質に由来している★4

 近代的なテクノロジーの支配によって、西洋の哲学は終焉=完成する。そして「哲学の終焉」以後の時代を特徴づけるのは、機械と生物の対立を機械の側から乗り越えるサイバネティクスである。「ポストヨーロッパ哲学」をめぐるユク・ホイの議論はこの認識を前提としている。つまり彼は、ヨーロッパの哲学が終焉を迎えたあとに、どのような哲学が可能であり、また思考されるべきなのかを問題にしているのだ。

 とはいえ、そのような思考はいかにして可能となるのだろうか? 東は、哲学の終焉によって西洋の思考が世界を支配するのであれば、非ヨーロッパの思考が立脚する余地はあるのだろうかと問いかける。そこでユク・ホイが援用したのが、「思索 thinking」という語の可能性に注目するというハイデガーの議論である。ユク・ホイはハイデガーの「哲学の終焉と思索の課題」というテクストに着目し、ハイデガーが哲学という制度にとらわれない(があくまで西洋的な)ものと考えていた「思索」を、非ヨーロッパの思想も含めるものとして発展させなければならないと主張する。こうして「哲学の終焉」以後のあらたな思想が、つまりポストヨーロッパ哲学が可能となるのである。「哲学の終焉」が近代的なテクノロジーと密接に関連している以上、ポストヨーロッパ哲学への問いのなかでは、技術への問いが、とりわけ西洋哲学とは異なる起源をもつ技術の探求が、不可欠となるのである。

★1 イベントの詳細は以下を参照。URL= https://genron-cafe.jp/event/20190820/
また、vimeo にてアーカイヴを販売している。URL= https://vimeo.com/ondemand/genron20190820
★2 Yuk Hui, The Question Concerning Technology in China: An Essay in Cosmotechnics , Urbanomic, 2016. 序論は仲山ひふみによって翻訳され、『ゲンロン7』、『ゲンロン8』、『ゲンロン9』に掲載された。現在仲山と伊勢によって全訳の作業が進んでいる。
★3 石田自身が紹介していたように、今回の石田のプレゼンは、彼の「新ライプニッツ派記号論のために――『中国自然神学論』再論」というきわめて刺激的な論考をベースとしている。石田ほか編『デジタル・スタディーズ2 メディア表象』、東京大学出版会、二〇一五年所収。
★4 マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』、川原栄峰訳、平凡社ライブラリー、二〇〇八年(初版は一九九四年)、三九三頁。