愛について――符合の現代文化論(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか|さやわか

初出:2019年10月25日刊行『ゲンロンβ42』

 筆者は『ゲンロンβ39』(二〇一九年七月)に「記号的には裸を見せない――弓月光と漫画のジェンダーバイアスについて」と題する文章を寄稿した。簡単に言うと、今日の社会で漫画の記号性をどう捉えるべきかを考察したものだ。

 漫画が記号的な表現だとは、よく言われる。どのような図像(記号表現)が描かれたら、どんな意味(記号内容)を持つかのコード(体系)が存在し、読者はそれに従って記号と意味を符合させ、物語を理解する。

 ただ筆者はこの文章で、もう少し踏み込んだことを書いていた。漫画とは極論すれば「絵」で描かれていながらも「文章」のように、記号の連なりとして読まれる表現形式だ、としたのだ。その例として「ツインテールは幼さのある女性」「壁ドンは恋愛における押しの強さを示す」などの記号性を持った漫画表現を挙げた。「ツインテール」は単なる作中事実の描写でありつつ、読者に「彼女は幼い」と了解させる記号として描かれているわけだ。

 記号的な表現は、漫画のみならず社会のいたるところに存在する。「壁ドン」も昨今、たとえば映画や演劇、時には現実世界でも、同じ意味を示唆するために使われている。私たちは、漫画という現実の模写(模写記号)を繰り返し見て「壁ドン」の意味を刷り込まれ、その行為が実写映像や現実空間で行われた際にも、同じ意味を受け取るようになったのだ。

 ただ、ここで重要なのは「壁ドン」が「恋愛における押しの強さ」と分かちがたく、一意的に結びついているわけではない点だ。『ゲンロンβ39』でも筆者は、もともと記号には唯一無二の意味があるわけではなく、漠然と決められているとした。先ほど述べたように、漫画には図像(記号表現)が持つ意味(記号内容)のコード(体系)がある。しかし、そのコードとは人々の間で慣習的に、あるいは恣意的に、曖昧に決められたものだし、実体もないのだ。場合によっては、その記号が持っていた意味が失われたり、全く別物に変化することすらある。それはごく当たり前の事実だが、日常生活ではあまり意識されていない。

 しかしこれを見過ごすことが、社会では多くの軋轢と不和の一因になっている。要するに、人々は記号を一意的に解釈したがっている。政争がいい例だろう。「A氏が政策Bを支持するなら、彼はC派である」「C派であるなら、思想Dである」など短絡的な断定が連続して行われ、最終的には「A氏といえば思想D」というレッテル貼りにまで達する。その結果、他人の考えを正確に把握したり、円滑な相互理解ができなくとも構わないのだ。それ以上に人々は、社会を単純に見通せるほうがいいと考えている。

 もし、人々が記号を解釈するコードが曖昧かつ変化しうるものだと意識していれば、「A氏といえば思想D」が絶対のものでないと考えられるだろう。また、他人が自分と同じコードを共有していないことも容易に理解できるはずだ。相手の言動が一見攻撃的に思えてもそんな意図はない可能性や、逆に自分の言動が意図したように伝わらない可能性を踏まえて、対話をより慎重に行えるようになるかもしれない。

 しかしそれでも、人々は記号を一意に解釈したがる。なぜだろうか。私たちが一対一の「符合」しかありえないと考えてしまう記号は社会のどこにあり、また、なぜそのような符合を行ってしまうのか。

 

 簡単にまとめよう。要するに筆者は「記号」自体よりも、この「符合」に注目することで、今日の社会が迎えている困難を乗り越えられると考えているのだ。

 符合とは何だろうか。情報理論や暗号学、言語学などには「符号」という用語がある。これはある情報を別の情報へと読み替える規則を指し、codeの訳語でもある。それに対し、筆者が今から語ろうとしているのは「符合」だ。これは「割り符が合うこと」に由来して、『デジタル大辞泉』(小学館)によると「二つ以上の事柄が、ぴったりと照合・対応すること」を意味する。

 つまり筆者が考えたいのは符号、すなわち、記号が意味へ対応するメカニズムについてではない。私たちが記号的な事象に対して意味を対応させてしまう行為、それ自体についてだ。

 その行為が慣習なのか、意図的なのか、他人に合わせた結果なのかはともかく、私たちは何かにつけて、意味を一対一にぴったりと符合させようとする。そして、しばしばその符合に固執してしまう。

 この連載には「愛について」とタイトルを付けた。筆者は、この偏執的なこだわりを、人間のごく当たり前の感情、愛に類するものとして語ろうと思うのだ。今日の社会は多様化し、恋愛や結婚の自由が語られ、文化も人々のほしいままに愛されている。しかしその一方で、上述したような強い執着が、私たちを分断に導いている。ならば私たちはその愛情、記号と意味の一対一の符合に耽溺するのでなく、その符合を読み解き変形するようなリテラシーを作るべきではないか。

 そして、私たちはその符合を成すコードをどのように書き換えればいいのか。人々は記号には注目するが、符合がどれだけ恣意的で、どう書き換えられるかにはいまだ十分に関心を払っていない。筆者はコードを書き換えて符合の多様性を生み出すことが、社会の多様性の拡大に直結していると考えている。この連載ではそうした「符合の多様性」の可能性を示す具体例として、現代文化を例に挙げていくことにする。

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