「記号の場所」はどこにあるのか?――新記号論から西田幾多郎を読む(前篇)|石田英敬

初出:2020年03月30日刊行『ゲンロンβ47』

 2019年の3月、ゲンロン叢書002として石田英敬+東浩紀『新記号論』が刊行されて早くも1年。同書は刊行直後より増刷を重ね、紀伊國屋じんぶん大賞2020・6位を受賞するなど、多くの読者に好評をもって迎えられました。
今号では、そんな『新記号論』の刊行1周年を記念し、共著者の石田氏に同書の「その後」を考える原稿をよせていただきました。予定を超えて本格的な論考をいただけたので、全体は『ゲンロン11』に掲載することに(ありがとうございます!)。ここに公開するのはその前半部分です。『新記号論』のパラダイムが西田哲学と切り結ぶ展開はじつにスリリングで、乞うご期待です。(編集部)

 

 去年の秋以来二度ほど渡仏して三ヶ月に渡り講演や講義をフランス各地で行った。それぞれ、思考と計算をめぐる会議だったり、人新世や間-国家(inter-nation)の問題をめぐって、あるいはさらに新しい人文知がテーマだったりと変化に富んだ討議の連続で、『新記号論』で語った内容をヨーロッパの人びとと議論するにはちょうどよい機会だった。

 ヨーロッパに行くと必ずそういう話になるが、あなたのやっているような仕事は東洋や日本の思想的な伝統との関わりではどのような位置にあるのかと問いかけられる。

 記号論はとても西欧的な学問だと思われている。古くはギリシャ哲学まで遡るし、中世のスコラ学にも源流がある。『新記号論』でも述べたように、近世のロック、ライプニッツ以来、二〇世紀のコンピュータにいたるまで、西欧で始まった「普遍記号論」の哲学プロジェクトが継続してきた、というのが私自身の見取り図でもある。

 では、記号の思考のすべては西欧的伝統のなかに収まってしまうのか。いや、そうではなくて、いまや普遍記号論はほんとうに「普遍化」しなければならないというのが『新記号論』で行った問題提起である。新記号論は、漢字も扱えなければいけないし、西欧以外の文字圏・文化圏にまで拡げて記号論を再発明しなければならない、というのが私の主張なのだ。

 では、具体的にそれはどんな問いのかたちをとるのか。

 記号論という学問のプロジェクトは、論理学の革命と結びついている。実体論的な思考から脱却して論理学を意識の経験のボトムまで降ろそうとすることが、二〇世紀の現象学や記号論の深い動機だった。私たちが生活しているのは形而上学が終焉した世界だ。ハイデガーはその形而上学の終わりをサイバネティクスに見ていた。

 記号は、指標・痕跡のレベルから類像のレベルへさらに象徴のレベルへと昇華されて、文化として文法化されていく。文化の文法は、文字や記号の存在をどのように位置づけているのか。あらためて、文化の論理が問われるようになってきた。

 同じ普遍的なデジタルな文字であったとしても、どのような文化の――ということはシンボル(=記号)の――論理回路をとおして世界の場所のなかに書き込まれるのか。そんな問題の見取り図のなかで、私としてはめずらしく、ヨーロッパで語ってみたのが〈西田幾多郎〉という日本の哲学者だ。ハイデガーが『存在と時間』(一九二七年)を書いたころに、「場所」の存在論を言いだした人物。ナチズムとの関わりが問われつづけるハイデガーと同じように、大東亜共栄圏との関わりでは問題含みの思想家でもある。

 これはまだ私にとっては始めたばかりの仕事だ。

 さて、そんな最近の経験をふまえて、この小論では、西田幾多郎のどんなところが気になっているかをとりあげてみよう。私自身、西田哲学を完全にマスターしているとはいいがたいのだが、それでも、新記号論から西田について何か意味のあることがいえるのか。私自身がもっている問題の見取り図を素描してみたい。

「何処までも」


 西田を少しでも読むとだれもが気がつくことがある(不思議なことに、それについての研究は調べたかぎり見あたらないのだが)。

 西田には、特徴的な口癖がある。それは、「何処までも」という副詞的連語表現の多用だ。いたるところに、「何処までも」と出てくる。まるで、この表現が現れる頁には、重要なことが述べられているぞという、文体的マーキング行為(犬のオシッコのような意味で)のようなのだ。

 具体例を示そう(じっさいにはまさに随所に現れるので、挙げるのはほんのかぎられたサンプルだ。傍点は引用者による)。

 

「善の研究」以来、私の目的は、何処までも直接な、最も根本的な立場から物を見、物を考えようと云ふにあった。(『哲学論文集 第三』、『西田幾多郎全集 新版 第八巻』、二五五頁)

思想は何処までも説明のできるものではない、その根柢には説明し得べからざる直覚がある、凡ての証明はこの上に築き上げられるのである。(『善の研究』、『西田幾多郎全集 新版 第一巻』、四四頁)

何処までも主語となって述語とならない基体といふのは、限なき述語の統一でなければならぬ[以下略]。(「内部知覚について」、『働くものから見るものへ』、『西田幾多郎全集 新版 第三巻』、三二七頁)

包摂関係において、特殊が何処までも特殊となって行くといふことは一般が何処までも一般となっていくといふことでなければならぬ。(「場所」、『働くものから見るものへ』、『西田幾多郎全集 新版 第三巻』、四七三頁)

絶対者は何処までも我々の自己を包むものであるのである、何処までも背く我々の自己を、何処までも追ひ、之を包むものである、即ち無限の慈悲であるのである。」(「場所的論理と宗教的世界観」、『西田幾多郎全集 新版 第十巻』、三四四頁)

 

 ついでにいうと、この「何処までも」という表現は感染うつる。三木清のような京都学派の弟子たちは、みなどこまでも病に感染しているようだ。西田研究書のたぐいも、どこまでもの口真似だらけである。試しに読んでみて欲しい。

 なぜそうなるかというと、どこまでもは、どこまでもとしかいいようがないからだろう。無限に漸近的な――あるいは無限級数的に増殖的なというべきか――表現なのだ。そこには、後述するような場所の問題が絡んでいると思われる。同時に、それは、これまた後述する述語性を際だたせる働きをしている。

 「AはAである。」という一見、自同律と見える命題(たとえば、「西田幾多郎は西田幾多郎である。」)も、どこまでもを加えると、不思議なことに、主語「A」は、「どこまでもA(である)」という述語表現に言語遂行的に包摂されて述語化されてしまう。Aは、意味論的に〈A的なもの〉となり、西田幾多郎は〈どこまでも西田幾多郎的な〉西田と化す。そのように、どこまでもは、場所の問題系を導入すると同時に、基体(これについては後述)に決して行き着くことのない、限りなく漸近的な――つまり、それが「何処までも」ということだが――述語化の論理を加速させる文体ツールなのである。


 

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1953年生まれ。東京大学名誉教授。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、パリ第10大学大学院博士課程修了。専門は記号学、メディア論。著書に『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)、『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書)、『新記号論』(ゲンロン、東浩紀との共著)、編著書に『フーコー・コレクション』全6巻(ちくま学芸文庫)ほか多数。

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