亡霊建築論(6) ガラスのユートピアとその亡霊|本田晃子

初出:2020年4月17日刊行『ゲンロンβ48』

はじめに


 二〇世紀のユートピア・イメージは、しばしばガラスという素材と密接に結びつけられてきた。ガラスの家、ガラスの集合住宅、ガラスの都市――空間を可視化する透明なガラスには、人びとを分断する不透明な壁を打ち破り、互いを可視化し、彼らをひとつの共同体へと結びつけることが期待された。とりわけ社会主義のコミューンの理念には、その最初期からガラス建築のイメージがつきまとっていた。革命後のソ連においても、新しい社会主義共同体とモダニズム=アヴァンギャルドのガラス建築は、ごく短い期間ではあったが、固く結びついていた。

 しかし同時に、ガラスという素材は常に両義性を孕んでもいた。ガラスのユートピアは、時に容易にディストピアへと裏返りもするのだ。透明なガラスを通じて「見る」ことは搾取や支配を生み、あるいはその透明性は背後で作動する抑圧的なシステムを不可視化する。これまで五回にわたって連載してきた「亡霊建築論」では、折に触れガラス建築のシンボリズムについて論じてきたが、最終回となる今回は、改めてソ連におけるガラス建築とユートピア・イメージの関係を振り返っていく。そしてソ連という共同体の末期に、まるで亡霊のように廃墟の姿で蘇ってくるガラス建築のユートピアについて、考えてみたい。

1 社会主義とガラス建築


 建材としてのガラスの大量生産が可能になったのは、一九世紀半ばだった。一八五一年には、ジョセフ・パクストンの水晶宮がロンドン万博でお目見えしている。この先進的な素材に早速目をつけたのが、当時やはり台頭しつつあった社会主義者たちだった。フランスのシャルル・フーリエは、「ファランステール」と呼ばれる自給自足のコミューン=共同住宅構想に、いち早く鉄とガラスを取り入れている。

 ロシアでも、実際に水晶宮を見たニコライ・チェルヌィシェフスキーが、自身の小説『何をなすべきか』(一八六二年-六三年)の中で、ガラスのファランステールを描いた。同作の主人公、悲惨な立場に置かれた女性たちを集めて縫製工場を営むヴェーラは、あるとき未来のコミューンの夢を見る。水晶宮を思わせる鉄とガラスから構成された巨大な温室のような空間には、常にさまざまな果樹や草花が茂り、このコミューンの構成員たちが(家族単位ではなく)集団で自給自足の生活をおくっていた。このガラスの建築空間は、いわば技術と社会改良によってもたらされた第二のエデンの園なのだ。『何をなすべきか』は、レーニンを筆頭に、同時代のロシアの知識人階級に大きな影響を与えた。十月革命後に大量発生したガラス建築のイメージの起源のひとつは、このような一九世紀の空想的社会主義のガラスのユートピアに見出すことができよう。

 最初にガラス建築を社会主義と結びつけたのは、このように非建築家たちだった。ソ連建築家たちがこの新しい素材に夢中になるのはもう少し後、一九二〇年代後半からである。連載第一回目に取り上げたロシア・アヴァンギャルド建築運動のリーダー、アレクサンドル・ヴェスニンらは、発行していた建築雑誌『現代建築』の中で、ガラス壁の出現は「不可欠な支えとしての壁という古い概念を根絶やしにし、壁を必要に応じて隔離する膜へと変えた」と述べている。彼らにとってガラスは、単なる新しい素材以上のもの、「新しい社会主義的生活様式の物理的フォルム」だった★1。光や視線を透過させ、建築物の構造をむき出しにするガラスの壁に、合理的で開放的な来るべきソ連社会の姿が投影されていたのである。

 しかし興味深いのは、アヴァンギャルド建築家たちが実際にガラス建築を設計・建設しはじめる以前に、社会主義のガラスのユートピアを裏返しに描く試みが行われていたという点だ。ソ連では長らく禁書とされることになる、エウゲーニー・ザミャーチンの小説『われら』(一九二〇-二一年)である★2

 『われら』の舞台は社会主義の実現された未来世界で、労働者たちはガラスの集合住宅に住み、その生活は他人の視線や監視カメラの視線に常時さらされている。もっとも主人公のD-503はじめ、完全に平準化された社会で育ち、所有という概念をもたない住人たちが、このような空間を疑問に感じることはない。そんな彼らが唯一不可視性を求めるのが、性行為の際だった。この未来社会では夫婦という概念もすでに存在せず、男女がそれぞれ行政の窓口にセックスの許可を申請して、それが受理されると、指定の日時にガラスの個室にブラインドを下ろすことが許されるのだ。

 だが主人公D-503の前に、彼のファム・ファタールとなる女I-330が出現したことによって、この一見透明なユートピアに潜む不透明性が、徐々に明らかになっていく。体制の転覆を狙うI-330に主人公は欲望を抱くが、それはまさに彼女の「見通せなさ」――たとえばI-330は、D-503の前で何度となく瞼という「ブラインド」を下ろし、文字通り彼の視線を遮断する――のためだ。I-330は優秀なエンジニアである主人公を誘惑し、自らの陣営に引き入れようとする。しかし彼女らの反乱は失敗に終わる。連座して捕えられたD-503は、頭蓋という密室にまでメスを入れられ、不透明性は物理的に摘出される。このようにザミャーチンの『われら』では、透明なユートピアはそのままディストピアへと反転するのだ。透明性を追い求める社会は、最後には人間の身体と精神という不透明性を破壊せずにはいられないのである。

★1 Стекло в современной архитектуре // Современная архитектура. 1926. №3. С. 64
★2 『われら』には三つの日本語訳が存在する。最も新しいのは、ゲンロンでもおなじみの松下隆志氏による光文社古典新訳文庫版(二〇一九年)で、他にも小笠原豊樹訳(集英社、一九七七年、のち二〇一八年に文庫化)、川端香男里訳(講談社、一九七〇年、岩波書店より一九九二年に文庫化)がある。いずれも名訳なので、ぜひ読み比べてみてほしい。



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1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学文学部准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』(東京大学出版会)。

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